妻鹿帰之國は混乱の渦中にあった。
領主の夜叉丸は鬼母堂に籠もったままだった。連れ出そうにも新月夜でなければ、外から扉は開かない。堂内にいる夜叉丸が扉を内側から開けない限り、手出しができなかった。
家臣が次に指示を仰ぐ相手は、奥方の皐鬼那である。ところが、彼女も寝所に引き籠もって表に出てこない。襖を開けようとすると、化猫の唸り声が聞こえる。
いつもなら夜叉丸か皐鬼那のどちらかに判断を仰げばいい。しかし、今はどちらとも連絡が取れない異常事態だった。
仕方なく朧姫に今後の対処を求めようにも、城内のどこを探しても見当たらなかった。
本城の最下層、女牢に囚われた戌嫁はほくそ笑んでいた。十年前にしくじった任務が果たされようとしている。
「――姫様は忍軍を手引きできたようですわ」
戌嫁は扶翼術で操った羽蟲を使って、朧姫と忍軍を接触させた。虎太郎の協力者となって、朧姫は妻鹿帰城の構造や兵の配置を忍軍に伝えている。
「虎太郎はほとんど猫になってしまったけれど、皐鬼那を封じ込められているわ」
最大の障害は皐鬼那だった。妻鹿貴家の奥方が健在であれば、朧姫が忍軍に情報を流す作戦は不可能になる。皐鬼那が寝間から出てこないのは、虎太郎が踏ん張っているからだ。
「鬼母堂では楼嫁と狼奈が孕まされてしまったみたい。でも、これは筋書き通りだわ……。赫狼様、私は酷い女でしょうか?」
「ガルルッ……!」
「ええ。狼奈には可哀想なことをしたわ。でも、こうするほかなかったわ。まずは皐鬼那の呪いを弱めなければいけない……。女餓鬼の正体は呪いをかけられて鬼になった女。領主の夜叉丸は血脈を遺すための……」
「ガゥウッ?」
戌嫁は言葉を濁し、赫狼は首を傾げる。
「本人は気付いていないのでしょうね。世継ぎが産まれなかったのは、妻に原因があると思い込んでいるのだわ。夜叉丸は自分が犬畜生に劣る存在だったと知ることになる……」
息子の虎太郎を助けたい。その気持ちに偽りはない。一方で十年前に失敗した任務を成し遂げるつもりではあった。
(因果は巡るわ)
十年前に殺された仲間達の無念を晴らすために謀略を張り巡らせた。扶翼術で羽蟲を操り、幕府派遣の忍軍がどの程度の戦力であるかを確認する。
(夜叉丸が死ねば、さらなる混乱を引き起こせる。虎太郎と朧姫を逃がす余裕ができるわ……。だけど、赫狼様のお力添えは不可欠)
「明日は満月……。決戦の夜になりますわ。英気を養ってくださいませ。赫狼様」
「ガルルッ!」
◆ ◆ ◆
眩い満月の光が妻鹿帰城を照らす。
御庭番の忍軍は血伝忍法を発現しなかった純粋な戦闘員で構成されている。妻鹿帰之國に派遣された忍軍は総勢百人余り。小国を攻め落とすには不安な人数だが、あくまでも目的は領主の暗殺である。
「く、くせものじゃあああぁああーーっ! うぎゃぁああっ!!」
地下の厨房で人間を調理していた蝦蟇妖怪が切り捨てられる。城内に潜んでいた雑魚妖魔を斬り伏せて、忍軍は目的地の奥座敷に進軍する。忍軍を先導するのは、戌嫁が産んだ猟犬達だった。
「低級妖怪に構うな! 奥座敷に急ぐぞ!」
鼻の利く犬は即座に人間と妖怪を見分ける。妻鹿帰城では事情を知らぬ人間も暮らしている。可能な限り無用な殺生は避ける。それが朧姫の要望だった。
「中庭の御堂。あれに違いなない……!!」
大勢の部下達を率いた忍頭は、鬼母堂に辿り着いた。漏れ出す邪気に怖じ気づく部下を鼓舞し、油と火を用意させる。
「火を放て! 建物ごとで構わん!! 燃やせっ! 燃やし尽くすのだ!!」
鬼母堂には夜叉丸のほかに、楼嫁と狼奈もいる。しかし、鬼に変じてしまった女達は討伐の対象である。人を喰っていないと言い張る朧姫も、用済みになったら処分する腹積もりだった。
「御頭! 朧姫ですが……」
「あの鬼女どうした? まだ殺すなよ。あれはこちらに協力的だ。使い倒してから始末する」
「姿を消しました。どうやら我らには伝えていなかった隠し通路が本城にあったようです」
「ふんっ。我らの殺意に勘付いておったか。まあいい。遠くには行っておるまい。後で追手を差し向ける。それよりも潜入させていた春華と虎太郎は見つけたか?」
「いえ、二人の姿はどこにも……。連絡が途絶えて二ヶ月。山中に潜伏していた連絡要員も姿が見えません。先入組は全滅した可能性が高いかと思われます」
「そうか。半蔵殿は落胆するだろうな。特に春華と虎太郎は替えが効かない。伊賀と甲賀の和睦を象徴する夫婦忍者だったというのに……。せめてもの弔いだ。城を焼き払うぞ。人喰いの妖魔どもを一掃するのだ!!」
油を追加させるが御堂には燃え移らない。鬼母の呪いが火を遠ざけていた。
「ぬぅっ……。火が燃え移らぬ。小癪な。扉は開けられんのか?」
「朧姫の話では、外から開くには新月の夜でなければ……ん……? 御頭! 御堂の扉が開いておりますぞ!!」
新月に閉じた鬼母堂が半月ぶりに開帳された。御堂の内側からは自由に開けられる。今までずっと扉が開かなかったのは、外に出る理由がなかったからだ。
「アハッ♥︎ 美味しそうな人間がいっぱいぃ~~♥︎」
白銀髪の美鬼は全裸だった。反り立った豊満な胸部は乳汁で溢れている。忍軍は角を生やした人喰い鬼の美貌を見て驚愕する。
「まさか伊月春華……? ぬぅっ! 将軍直属の御庭番が鬼堕ちとは……!! 情けないっ……!」
「春華ぁ? だぁーれぇ? それぇ? 私は楼嫁よ……♥︎ 夜叉丸殿にお仕えする幼妻よ♥︎ 新鮮なお肉! たくさん来てくれてありがとうぉ♥︎ お腹の赤ちゃんを育てる為に栄養が必要だったのぉっ……♥︎」
楼嫁は下腹を愛おしげに撫でる。新月の夜に夜叉丸を仕損じた楼嫁は心を折られてしまった。避妊の房中術は掻き消え、夜叉丸の鬼子を胎に身籠もった。
「くふふふふ! 舞い散りなさい♥︎ 幻影花吹雪……♥︎」
指先を組んで楼嫁は掌印を結ぶ。
鬼道術に昇華された幻影忍術は忍軍の視界を奪い取った。
「ぐぅっ! 小賢しい目眩ましで我が剣を避けられると思うなぁああ……!!」
忍軍の御頭は大刀を振りかざす。しかし、華麗に斬撃を避けた楼嫁は、鋭い爪先で心臓を貫いた。
「ごはぁっ!」
「もーらいぃっ! 忍者の臓物ちょーだいぃっ♥︎ おいちぃいぃっ♥︎ あっははははははは……♥︎ やっぱり躍り食いは鮮度が違うわぁ♥︎」
脈動する心臓を抜き取り、齧りついている。
「人喰い鬼めぇええええええ!」
御頭を殺されて激昂した忍軍の兵達は楼嫁に襲いかかった。だが、鬼母堂から新手が姿を現した。
「――侵入者を殺しなさい」
狼奈は走狗術で四足獣に命じる。それまで忍軍に協力していた猟犬達が反旗を翻した。
完全な鬼母と化した狼奈の髪は白銀に染まっていた。短命な半獣の身体から解き放たれた。〈物の怪〉は寿命のない不老の鬼に生まれ変わった。胎には夜叉丸の鬼子を身籠もっている。
「喰らえ、喰らえ! くかかかかかっ! やはり孕ませるなら若い娘じゃな。楼嫁と狼奈の胎であれば、皐鬼那では無理だった世継ぎを産めるじゃろう」
忍軍は次第に劣勢に追い込まれていった。それほどまでに楼嫁と狼奈の力は強くなった。夜叉丸の子種で身籠もった鬼母は無双の強さを誇った。紙切れのように忍軍の兵を切り裂き、捻り潰していった。
「くかかかかか……! 愉快じゃなぁ! 爽快じゃな! 痛快じゃ!!」
夜叉丸は高みの見物だった。十年前と結末は変わらない。全員を殺し尽くしてしまえばいい。
「人を殺めるのは愉しいですか。父上」
夜叉丸は意表を突かれた。てっきり現れるのは虎太郎か戌嫁だと思っていた。
鬼子を受胎した楼嫁と狼奈は夜叉丸に全てを暴露した。朧姫の裏切りも聞かされている。
「鬼が人を喰らうのは当然じゃ。人間が米を食うのと何が違う? まったく貴様という娘は……。今まで甘やかしてきたが、今回はもう許さぬぞ。皐鬼那の胎から産まれた娘とは思えぬ出来損ないめ! 本当に儂の血を引いておるのか?」
朧姫は父親に冷めた視線を向けていた。その凍てついた瞳は、くノ一だった頃の伊月白雪とそっくりだった。母親譲りの美貌、父親とは真逆の性格。鬼道術で二十歳の外見になった朧姫は父親と対峙する。
「人を喰らう鬼でも、父上は私に愛情を注いでくださりました。しかし、父上は母上を捨てるのですね」
「捨てるわけではないぞ。地位が変わるだけじゃ。楼嫁や狼奈のほうが世継ぎを産めそうじゃからな。皐鬼那が身籠もっていた鬼子はどうなった?」
「流産いたしましたわ」
「じゃろうな。もう皐鬼那は子を産めぬ身体。女としては死んだも同然じゃ」
「私は女餓鬼の一族がどういう妖魔なのかを知りました。私を育ててくれた戌嫁……。いいえ、甲原沙世子さんは獣囚に貶められても、父上の秘密を解き明かそうとしていた。父上は女餓鬼の本質をご存知でないのでしょう」
「知った風な口を叩きよる……。儂は放任が過ぎたようじゃな。戌嫁め。まだ歯向かう気があったのか。しかし、狼奈が儂に孕まされたと知れば……」
「いいえ。それもおそらくは計画にあったのだと思いますよ。私を含めて利用されたのです。あの方は恐ろしい女性でした。父上を確実に殺す方法を突き止めていたのですから……」
「儂を殺す? くかっかかかかか! 不可能じゃよ。朧よ。この状況をよく見てみろ。奥座敷に侵入した忍軍は楼嫁と狼奈が皆殺しにしてしまったぞ。今宵は満月じゃ。知恵足らずめ。よりにもよってじゃな」
「満月は鬼の力が強まる。私は鬼の娘です。知らぬと思いますか?」
朧姫の自信は不穏だった。
「ふん。どうするつもりじゃ。こちらには楼嫁と狼奈がいる。まさか、味方は赤毛の犬だけか? あの小僧はどうした?」
「私と赫狼だけで十分です。父上は死なねばなりません。お命を頂戴いたします」
世迷い言にしか聞こえなかった。
忍軍を殺し終えた楼嫁と狼奈は、夜叉丸に寄り添う。
「朧姫? 正気なのかしら? ふふふっ♥︎ 涙を流して命乞いをしたら? 夜叉丸殿に命だけは助けてほしいと私もお願いしてあげるわ……♥︎ だって、お姉ちゃんだもの♥︎」
「貴方が楼嫁と名乗るのなら、姉ではありませんわ。伊月春華であれば私の姉でした」
「そう。残念だわぁ。狼奈もそうよね。小さい頃から一緒だったのでしょう?」
「姫様。なぜ血の定めに抗うのです?」
「狼奈……。貴方も父上に孕まされて、鬼母になってしまったのですね」
「ええ。私は鬼母になって気付きました。この身体は素晴らしい。なんと心地好い♥︎ 人間の血肉がこんなに美味しかったなんて……♥︎ あぁ♥︎ 生来の鬼である姫様が、なぜ人間などを哀れむのです……?」
「人間を哀れには思っていません。むしろ哀れなのは畜生にも劣る貴方達ですわ」
相手は人を襲えぬ鬼姫。そして戌嫁の番となった赫狼。
「随分な言い草じゃな。犬畜生を引き連れておきながら……。それでぇ? どうやって儂を殺す? 狼奈が命じれば、その猟犬は貴様の頭蓋を噛み砕くじゃろう」
「ええ。だから、こうします。赫狼……!! ごめんなさい!」
朧姫は虎太郎が使っていた忍刀で、赫狼の左前足を斬り付ける。四本足のうち、一本が切断された。赫狼は痛みに呻くことなく、夜叉丸に突進する。
「――止まれ!! 止まれぇ! なんで!? 私の言うことを聞きなさい!!」
狼奈は命じる。しかし、止まらなかった。
走狗術は四足獣を操る。足を一本失った赫狼は三つ足の獣だった。犬ならば操れる。そう思い込んでいた。慢心による油断を赫狼は見逃さなかった。夜叉丸の首に食らいついた。
「ぐぁっ! 犬畜生の分際で……!!」
「ガルルゥゥゥ! キャィンッ!」
夜叉丸は赫狼を放り投げる。
「はぁはぁ……! くっかかかか! なにが命を頂戴するじゃ! 嗤ってしまうのう! こんなかすり傷で儂が死ぬわけなかろう! 牙に毒でも仕込んだか? 無駄じゃ」
夜叉丸は高笑いする。赫狼に噛まれた傷は深いが、致命傷には至っていない。
「いいえ、もう終わりましたわ」
夜叉丸の首から垂れ流れた血を見て、楼嫁と狼奈の目が変わる。首から垂れる血を舐めていた。
「……な……なんじゃ……? なにをしておる! 朧を殺せぃっ! 儂に噛み付いた猟犬もじゃ!! 楼嫁! 狼奈! 私の妻になったのならば、儂のために……。儂の子を産むために……」
夜叉丸の表情が凍り付いた。
楼嫁と狼奈は口から大量の唾液をこぼしていた。
「二人を孕ませたの失策でしたわ。父上は祖母から何も聞かされていないのでしょう」
「な、なんじゃとぉ……?」
朧姫の祖母。夜叉丸を産んだ母親は、御堂に祀られた屍蝋化した鬼母である。彼女も元々は人間の女性だった。
「女餓鬼とは『飢えた女の鬼』です。呪いをかけられて鬼母になった卑女……。母上は父上を愛していたから本能を抑え込んだ。けれど、普通はありえません。蟷螂や蜘蛛の雌は交尾を終えた後、雄の身体を喰らうのです。世継ぎが欲しいのなら父上は死なねばなりません」
鬼母の習性を狂わせたのは皐鬼那だった。
夜叉丸に鬼子を孕まされた十年前、皐鬼那は喰わねばならなかった。しかし、愛していたがゆえに、夫の夜叉丸を喰い殺せなかった。代わりに喰われたのは伊月佐助。そうして娘の朧姫は産まれた。しかし、鬼でありながら人の心を持っていた。
「ハァハァ……ハァ……♥︎ ハァ……♥︎」
「ウゥウゥガウゥウゥゥ……♥︎ ガゥウ♥︎」
鬼呪の因果は巡る。楼嫁と狼奈は夜叉丸に詰め寄る。鬼母の本能的な欲求。胎の鬼子を産むためには栄養が必要なのだ。
「やめろ! 儂は……! 儂が誰か分からぬのか! さっ、皐鬼那! 皐鬼那はどこに……うぎゃぁっ! やめろっ! 噛み付くな!! 儂の命令が聞けぬのか! ううぅっ! 名を! 貴様らに名を与えたのは儂じゃぞ! なぜじゃ! なぜ儂の鬼道術が……!? うぎぃっ!! ぎゃぁあああああああああああああああぁぁぁぁっ!!」
二匹の鬼母に言葉は通じない。人の心を奪い取ったのは他ならぬ夜叉丸自身だった。夜叉丸を生きたまま喰らい尽くし、楼嫁と狼奈は世継ぎを産む。夜叉丸は鬼母の呪いを継承させるための哀れな生贄だった。
「たすけぇ……!! ああぁぁぁぁっ! うぎゃあああっ! さきなぁああぁぁ……!! おぼろぉっ……!! うぎゃああああっーーーー!!」
人間を食い散らかした報いは凄惨だった。
「さようなら。父上」
因果応報とはいえ、父親の死に様に朧姫は涙した。妻と娘の名を呼ぶ。家族に対する愛情はあったのだ。いっそ非情であってくれれば、朧姫は悲痛な想いをせずに済んだ。
「赫狼、行きましょう。楼嫁と狼奈が父上を喰っているうちに……。今なら逃げられますわ」
朧姫は楼嫁と狼奈を哀れむ。女餓鬼の呪いは受け継がれた。
鬼母は産まれた男の鬼子に「夜叉丸」の名を与える。そして、鬼呪は繰り返されるのだ。
(私は逃げることしかできないわ……)
楼嫁と狼奈は殺せない。その力が朧姫にはなかった。
いつの日か、女飢鬼の妖魔が退治されることを仏神に祈る。
◆ ◆ ◆
猟犬達の助けを借りて、朧姫は妻鹿帰城を脱出した。
用意していた荷馬車で街道を下る。国境を越えて三日が経つ。追っては差し向けられなかった。
赫狼は背後を警戒していたが、夜叉丸が死んだ妻鹿貴之國は混乱の渦中にある。楼嫁と狼奈が実権を握るまでは、領民だけでなく妖怪達も右往左往していることだろう。
「大和國の柳生ですか……?」
「ええ、そこに逃げ込みなさい。匿ってもらえるわ」
戌嫁は赫狼の足に巻いた包帯を取り替える。左前足を失ったが、それでも赫狼は雄々しい猛犬だった。魔犬化しているため傷の治りははやい。
「柳生家は妖魔退治の剣客を輩出する名家。徳川幕府の剣術師範を務めている一門でもあるわ。私の名を出せば保護してくれる。昔、ちょっとした借りをつくっているから」
好意に甘えたかったが、朧姫は頭から生えた角を触る。
「しかし……私は……」
人の心を持って生まれた鬼娘は苦悩する。
あれだけ協力した忍軍の兵も用済みになったら、朧姫を殺すつもりだった。人間の世では生きていけない。幼いながらに朧姫は自分の境遇を理解していた。
「大丈夫。貴方は人を喰っていない。妻鹿帰城を離れれば、少しずつ妖気は抜けていくわ」
「沙世子さんも一緒に来てくれますよね……?」
「私は甲原沙世子じゃない。戌嫁よ。赫狼に尽くさなければいけないわ。次の山でお別れよ。子供達と山の奥深くで、獣として生きていくわ。赫狼もそれを望んでいるから」
「でも、虎太郎さんは……!」
「命があるだけで十分だわ。この子はとても酷い目にあったから、もう人間には戻りたくないのよ。姫様に飼われていれば幸せだと思うわ。虎太郎をお願い」
戌嫁は三毛猫の頭を撫でる。心を閉ざした虎太郎は本当の猫になってしまった。人の言葉を喋らず、本物の畜生に堕ちていた。
「夜叉丸は死に、伊月白雪は死ぬよりも辛い罰が与えられたわ。私達にできるのはここまでよ……」
「楼嫁と狼奈は妻鹿貴之國で人間を喰らい続けますわ。せめて今回の事態を将軍様にお伝えすべきではありませんか?」
「幕府はそれほど大きな力を持っていないわ。それに、鬼娘である姫様や私のような抜け忍は殺されてしまう。いずれ誰かが楼嫁と狼奈を倒す。でも、私達ではないの」
「はい……」
朧姫は三毛猫を抱きしめる。たとえ人間でなくなっても虎太郎への恋心は強まるばかりだった。
皐鬼那を封じ込めたのは虎太郎の頑張りがあったからだ。その代償で心を壊してしまった。朧姫はこの三毛猫に一生を尽くすと誓った。
「――あぁ! あぁあああぁ!」
荷馬車には覇気の失せた美女が横たわっていた。
「あぁ……あぁ……ぁ……夜叉丸殿……。申し訳ございません……私は……!」
涙を流して啜り泣く。深紫の優美な長髪は乱れている。ぶつぶつとつぶやき、愛した鬼の名を呼ぶ。
「私は殺したいくらい貴方が憎い。けれど、朧姫や虎太郎に免じて見逃してあげるわ。十年前の裏切りに関しては……。私達は酷い母親だわ。鬼母の呪いを娘達に押し付けたのだから……」
かくして御庭番の忍衆は全滅してしまった。
忍軍の襲来で妻鹿帰城の奥座敷は炎上したが本城は無傷だった。城下町の人々には盗賊の一党が妻鹿帰城を襲ったとだけ説明され、老病の夜叉丸が死去したと伝えられた。皐鬼那と朧姫も火事で死んだことになった。
妻鹿帰之國を治める新領主は、楼嫁が産んだ夜叉丸の遺児である。
亡き父親の名を受け継ぎ、夜叉丸と名付けられる。
【終章】伊賀と甲賀の混血児
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