伊月春華と甲原虎太郎が妻鹿帰之國で消息を絶ってから十六年余りの月日が流れた。

 将軍は代替わりし、四代目将軍の徳川家綱による治世が始まった。時代の節目を迎え、戦国時代の血生臭い遺風は、消え去ろうとしている。

「ミケ……。いいえ、虎太郎さん」

 尼寺の女僧は三毛猫に呼びかける。膝でうたた寝を続ける畜生は返事をしなかった。

「北の地から文が届きましたよ。妻鹿貴之城は燃えたそうです。領主の一族は炎に焼かれて死に絶え、妻鹿貴之國は滅びました。私達の子が悪しき鬼達を退治したのです」

 三毛猫は穏やかに寝息を立てている。もはや朧姫の言葉すら届かない。耳を閉ざしている。

「ご自分を嫌いにならないでください。誰しも醜い心根はあるのです。私だって春華さんを蹴落としてでも、虎太郎さんと結ばれたかった……」

 鬼の呪いが弱まる新月の夜。朧姫は虎太郎を春華のところに行かせなかった。

「この歳になって私は気付いてしまいました。勝手な言い分だと嗤ってください。おそらく私達が何もせずとも、春華さんは父上と結ばれる運命でした。きっと虎太郎さんを捨てて……。私の母上がそうだったように……」

 三毛猫は目覚めようとしない。聞きたくもなかった。

「春華さんの本心に気付いていたはず……。だって、ご自分のお気持ちにも気付いていたのでしょう。ねえ、虎太郎さん。貴方はそれを受け入れられなかったから、こうして猫になってしまった。私は十年前、あの光景を見てはいけなかった……」

 忍軍を妻鹿帰城に引き入れた朧姫は、真っ先に虎太郎を探した。皐鬼那に喰われているのではないか。そんな不安に心が押し潰されそうだった。

 虎太郎と皐鬼那は天守閣の最上階にいた。あの時、朧姫が目撃した淫態は目に焼き付いている。猫耳と獣尾を生やした青年は、旦那に見限られた奥方を慰めていた。

「虎太郎さんが本当に愛してしまった女性は、春華さんや私でもなくて――」

 下等な畜生は己の罪から目を背ける。

 朧姫が愛を注ごうとも、許婚の恋人が鬼母になろうと、我が子が鬼狩りになろうと、醜悪な現実から逃避し続けた。

 ◆ ◆ ◆

 柳生家の若き剣豪は旅の帰りだった。

 街道の茶屋で一服していると、服部半蔵を名乗る無精髭の男に話しかけられた。

「わざわざ母の住む尼寺まで押しかけたそうだな。服部半蔵殿よ。御庭番の頭領は暇を持て余しているのか?」

「ご存知だったか。耳聡い。早馬で文を運ばせたのかな?」

「私は扶翼術の使い手だ。鳥獣を操れる。鳥に文を運ばせて、母と文通している」

「ほぉ。甲原家の血伝忍術を使いこなしているとは!」

「うっとうしいぞ。わざとらしい演技はやめろ。母から私の出自を聞いたのなら分かるだろう」

「はっははは。手厳しい。しかし、その力だけではありますまい」

「ああ、氷結術も使えるぞ。暑い夏には便利な忍術だ。北の奥地とはいえ、内陸は酷暑だ。氷菓子を売って旅費を稼がせてもらった」

「最強の忍びと名を馳せた伊月白雪の御業ですなぁ」

「……何が言いたい?」

「旅の目的は鬼退治でしたな。ご無事の帰還で何より。君の母君もお喜びだろう」

「それは私への嫌味か?」

「最大限の賛辞だとも。なぜそう穿った考え方をする? 妻鹿帰城の鬼を退治したと聞いた」

「肝心の楼嫁と狼奈には逃げられた。御庭番の頭領である服部半蔵殿ならば知らぬわけがあるまい」

「いやいや、上出来だ。鬼仔の夜叉丸は殺せた」

「鬼母を殺さねば繰り返しだ。……消息が掴めない」

「捜索には御庭番の忍衆が協力しよう」

「協力? 笑わせるな。御庭番の忍衆は二度も失敗した。それどころか事態を悪化させたのだぞ。三度目も同じ事を繰り返すか?」

「耳が痛いですなぁ。しかし、失敗があったからこそ、君は誕生した」

「黙れ。役立たずの忍衆は引っ込んでいろ。妖怪退治は柳生家に任せておけ」

柳生(やぎゅう)鈴鹿(すずか)殿。君は二つの忍術を発現している。伊月家の氷結術、甲原家の扶翼術。伊賀と甲賀の血筋が交わらなければありえない」

「くどい。私からは何も語らんぞ。母は全てを貴方に語ったのだろう。それが妻鹿帰之國で起きた全てだ」

「――いいや、偽りがある。朧姫は私に嘘を付いた」

「偽りはない……」

「朧姫は鬼ですかな? 幼少期こそ、鬼の形質が現れていたが人肉を食さず、ほぼ完全な人間となった。となれば、君の母親が朧姫というのは嘘でしょう」

「私の頭に角は生えていないぞ。人間の腹から産まれた証拠だ。母は人間になったのだ」

「ええ、最初はそう思っていましたよ。でもね。十年前の朧姫は八歳だった。犬や猫じゃあるまいし、そんな年齢では孕めない。肉体年齢をいじくれる忍術は見せかけだけ。若さを保っても老衰で亡くなる。ならば、幼女が大人に化けたところで子供は産めまいよ」

 御庭番の頭領たる服部半蔵は、伊賀と甲賀の血伝忍術を調べ尽くした。十年前の朧姫は子を産めぬ年少者だったと結論付けた。

「――だったら、私を産んだのは誰だというのか」

 柳生鈴鹿は疑念の核心を突きつける。服部半蔵は臆さず答えた。

「伊月白雪が産んだ三人目の娘ではないかな?」

「寝言を……。その女は十六年前に死んだ」

「さて、どうかね。氷結忍術は母親からの遺伝だ。これは俺の予想だが、十年前に鬼であった皐鬼那は、人間の伊月白雪に戻ってしまった。何らかの方法で鬼母の呪いから解き放たれた」

 伊月白雪が鬼母から人間の女に戻ったとき、肉体関係を結んでいた男が一人だけいた。

「私が伊月白雪と甲原虎太郎の娘……。そう言いたいわけか」

「それなら辻褄が合う。十年前に伊月白雪は生き延びて、甲原虎太郎の娘を産んでしまった」

 朧姫が伏せた十年前の真相に服部半蔵は気付いた。

 ◆ ◆ ◆

 柳生鈴鹿は己の呪われた出生を恥じていた。

「……おぞましい外道の話だ。世の醜悪さを嫌悪した父は三毛猫になった。畜生のほうがよっぽどまともだ。責める気にはなれない」

 十年前に夜叉丸の鬼子を流産した皐鬼那は、朧姫を喰おうとした。虎太郎は朧姫を逃がし、皐鬼那と戦った。勝敗はすぐについた。

 本来ならば虎太郎は喰われていた。だが、夜叉丸に捨てられた皐鬼那は、満たされぬ淫欲を発散するため、虎太郎と交わった。

 事が終わったら口封じで始末し、不義を隠し通す気だったのだろう。しかし、夜叉丸が御堂に籠もり、楼嫁と狼奈を孕ませようとしていた。

 若娘二人に夢中となり、夜叉丸は自分の正妻にはちっとも関心がなくなった。奥方の姦通は、浮気に興じる夫に対する当てつけだった。

 皐鬼那は、娘の飼い猫だったミケの真名〈甲原虎太郎〉を言い当てた。人の姿を取り戻した青年を相手に、愛情の欠片もない性交で、穴の空いた心を埋めようとした。

 皐鬼那の情夫になった虎太郎は、自身の卑しい恋心に気付いた。真に自分が欲する女性は、似顔絵でしか知らなかった伊月白雪であった。朧姫や春華よりも強く想ってしまった。

 夜叉丸に孕まされ楼嫁と狼奈が鬼母化したとき、皐鬼那は伊賀最強の女忍者「伊月白雪」に戻った。虎太郎の恋心が鬼呪を解除し、甲賀の子種は卵子を射止めた。意図せず、徳川幕府が望んだ最強の血筋を継ぐ赤子が胎に宿った。

「柳生鈴鹿殿の生母は伊月白雪……。性欲処理のつもりが、子を成してしまった。なんとも因果な巡り合わせだ。伊賀と甲賀の血がこんな形で交わるとは……」

 懐妊は大きな誤算だった。甲原虎太郎の子を孕んだとき、皐鬼那は人間の伊月白雪に戻っていた。しかし、壊れた心までは治らない。

「貴方の推理はほぼ正しい。しかし、抜け忍の伊月白雪を始末したいのなら残念だったな。私を産んだ一年後に亡くなった。信じられなければ墓を曝いてみろ。私は一向に構わんぞ。場所は柳生家の墓園だ」

「伊月白雪の死因は?」

「栄養失調、餓死だ。最期は何も食べられなくなってしまったと聞いている。伊月白雪は人間に戻った。しかし、人喰い鬼であった刻を恋しがっていた。夜叉丸を愛するあまり、鬼母になった愚女の末路だ。嗤えるだろう?」

「実母に辛辣だな。伊月白雪といえば伊賀忍の鬼才。史上最強のくノ一だった。女でなければ御庭番の頭領を任されていた。それほどの人物だ」

「過去がどうであれ、妻鹿帰之國で皐鬼那は人を喰い散らかした。人喰いの化物だ。妖魔を倒さねば人の世は終わりだ」

「それで君は柳生家の養子となり、鬼狩り武者か……。まあいい。楼嫁と狼奈を追い続けるのだろう? 御庭番の忍衆は協力を惜しまない」

「目的は?」

「過去の負債を清算する。そういう心意気さ。……ああ、でも、一つ教えてくれるだろうか。鬼母にされた女を人間に戻す方法とは何だ?」

「簡単だ。夜叉丸を愛した女は鬼母になる。呪いの発動条件だ。だから、一時的にでも心を寝取れば鬼から人に戻る。経緯はどうあれ、皐鬼那は甲原虎太郎と姦通した。それで人間に戻ってしまった」

「なるほど。奪ったものは奪い返す。逆のことをすれば良いわけか……」

「鬼と人の違いは心の在り方だ。心優しい朧姫は人を喰わず、ずっと人間だった。しかし、一度でも人間の血肉を喰えば、人に戻ったところで苦しむだけ。楼嫁と狼奈にかけられた鬼母の呪いを解く必要はない。伊月白雪の末路を考えれば、殺してやったほうが救いだ」

 伊月白雪は死んだ。そしてもう一人、心が壊れた甲原虎太郎は三毛猫になった。

 許婚だった春華が鬼母に化け、自分はその母親を孕ませた。苦しみもがき、罪を直視できず、畜生に変じた。

「育ての親である朧姫こそ、私の母親だ。柳生流の剣術を修めたとき、楼嫁と狼奈の一党を狩ると誓った。どこまでも追い続ける」

 茶を飲み終えた柳生鈴鹿は立ち上がった。話すべきことは話した。もうこれ以上は何も語らぬという露骨な雰囲気を醸し出している。服部半蔵も引き止めはしなかった。

「鬼狩り武者よ。敵は同じだ。力になろう」

「…………」

「越州に向え。臓腑を喰われた遊女の死体が見つかった。野犬に貪られたという噂だったが、人喰い鬼の仕業だ。妻鹿帰之國から逃げ延びた鬼母は越後国に潜んでいるぞ」

「ふんっ……。阿呆め。さっさとそれを言え」

 ◆ ◆ ◆

 満月の夜。とある裕福な商家が二匹の美鬼に襲われた。

 旅の踊り子を装った人喰い鬼は日が沈んだ途端、正体を露わにした。主人夫妻を殺し、使用人も一人残らず殺めた。

「越後国……。くふふふふっ! よりにもよって、私が越後の商家に転がり込むなんてねぇ。十年前の嘘から出た真実かしら? 面白い因果だわ」

 積み重ねた死体の山に座り込んだ楼嫁は、人間の新鮮な血肉に食らいついた。

「これからどうするのです……? 妻鹿帰城は燃やされ、柳生の鬼狩りに生まれ故郷を潰されました。私達の子供も首を刎ねられて……。これでは夜叉丸様の血が絶えてしまう」

 狼奈は怒りで身を震わせる。柳生の鬼狩りは復讐者だった。

 妻鹿帰城に押し入った柳生鈴鹿は鬼子を切り捨て、あと一歩で楼嫁と狼奈も殺されるところであった。女侍でありながら剣豪の称号を得た柳生鈴鹿は、伊賀忍の天才くノ一と謳われた伊月白雪の再来だった。たった一人で妻鹿帰城を焼き討ちしたのだ。

「いいえ、女餓鬼の血筋は生きているわ。朧姫よ」

「朧……?」

「柳生の女侍は私の真名が伊月春華だと知っていたわ。きっと朧姫が放った刺客だったのよ。十年前にあの子は死んでいなかったんだわ。だったら、ねぇ? 朧姫は夜叉丸様の実娘。たとえ人間を気取ろうとも鬼の血が流れているわ」

「けれど、朧は……」

「ふふっ♥︎ 女は男を産めるでしょ。あれから十六年。姫君は孕み頃でしょう?」

「朧に鬼を産ませる……! なるほど。そうであれば……!!」

「私達に食べられてしまった夜叉丸様の代わりになるわ。再び繰り返しましょう。私達の代で鬼母を終わらせてはならないわ。呪いは永久に続く……! 今は力を蓄えましょう。朧姫は柳生一門に保護されている。御庭番の忍衆も動いているわ」

「朧姫が生きているのなら、我が兄も……。虎太郎が生きているのでは……?」

「どうかしら? 生きているのなら、陵辱された朧姫が鬼子を産む瞬間を見せてあげたいわ。私達の可愛い息子を殺した復讐をしなきゃ。もう筋書きは考えているわ」

 悪鬼外道に堕ちた鬼母は人肉を喰らう。その昔、人間を害する妖魔に憤っていた正義心は消えていた。伊月白雪が最期まで夜叉丸を愛していたように、鬼母化した伊月春華と狼奈は魔性に魅入られた。

「あぁ……美味しいお肉……♥︎」

 再び鬼子を孕む刻を妄想して鬼母達は嗤う。暗闇の中で赤い眼だけが光っていた。