朧姫は弱った子猫を膝に乗せて愛でる。三毛猫の右足には犬に噛まれたような噛み跡があった。

「…………」

 名を奪われた敗北者は〈畜生〉と銘打たれた。

 朧姫は三毛猫に変身した青年の完全な真名を知らない。聞かされたの下の名前だけだった。しかし、些細な問題だ。こうして一目惚れした相手を独占できるのが堪らなく嬉しかった。

「なぜ狼奈は手を貸してくれたのでしょうね……」

 万が一を考えて、狼奈に相談したのは正解だった。

 狼奈には何の見返りも約束していない。夜叉丸の命令を忠実にこなしてきた家臣が裏切る。そんな事態は夜叉丸や皐鬼那も予想できていなかったはずだ。

 虎太郎が生き延びた秘密を知っているのは朧姫と狼奈だけ。子猫になっていれば、生存は露見しないだろう。夜叉丸が与えた醜名の通り、膝上で丸くなっているのは人畜無害な猫なのだから。

「今夜は新月です。月明かりのない(さく)の夜は鬼の力が弱まりますわ。私は貴方の真名を半分しか知りません。だから、名を呼んでも人は戻れないかもしれないわ。でも、このままでも良いと思ってしまいます。ずっと一緒に……。どうか罪深い私を許してください」

 朧姫は三毛猫を抱きしめる。深い愛情を込めて「虎太郎さん」と囁いた。

 爆乳の谷間に挟まれていた怪猫は、自分が何者であったかを半分だけ思い出す。

 七日ぶりに人間の姿に戻った。しかし、呼ばれた名前は半分だけ。上書きされた呪名〈畜生〉に引っ張られ、半端に猫の要素が残ってしまった。

「ん……くぅ……? 朧姫……? 僕は……?」

「あらあら。ふふふっ……。とても可愛らしいお姿ですわ。ご安心ください。この部屋は安全な場所ですわ。それに今夜は新月です。父上は御堂に籠もって出てきませんわ」

 虎太郎の頭には猫耳が生え、尻からは尻尾が伸びている。肢体は三毛柄の獣毛で覆われていた。困惑する虎太郎だが、朧姫はむしろ喜んでいるようだった。

「こうすると気持ちいいのですよね?」

 尻尾の付け根をツンツンと刺激する。虎太郎は身体を捩らせて赤面した。

「お、朧姫様……!! なにをっ……!」

「ふふっ。ごめんなさい。虎太郎さんが猫だったとき、こうされるのがお好きだったようですから、つい……」

「僕を助けてくださったのは朧姫様ですか? 忍術を使って猫になってからの記憶が曖昧です……。僕は赫狼に食べられて……」

「天井裏から覗き見ておりました。赫狼の大きな口で一呑にされていましたわ。狼奈は私の頼みを聞き入れて、協力してくれました」

「助けてくださってありがとうございます。僕は春華を助けようとして、つい忍刀を抜いてしまった……」

「お仲間の名前は覚えているのですね」

「え……。そう言われればそうだですね。()()()()。ちゃんと覚えている」

「それならご自分の名前はどうですか? 私は虎太郎さんの真名を知りません。こんなことになるなら、あの夜に聞いておくべきでしたわ」

「そういえば朧姫には虎太郎としか名乗っていなかった。うっ! 変な感じだ。名前……自分の名前だっていうのに……どうして……! くそっ……!」

「仕方のないことですわ。奪われた名前は自分では思い出せなくなってしまいます。誰かに教えてもらえれば別ですが……」

「春華はどこに? 彼女なら僕の名前を知っているはずだ」

「春華さんは父上に娶られてから、楼嫁と名乗っております。おそらく父上は子を産ませたいのでしょう」

「なっ……!?」

「妻鹿貴家には跡継ぎの男子がおりません。私の母上は五度も流産しております。今、妊娠している胎の子も無事に産まれてくるかは分かりません」

 春華が妖魔の鬼子を産む。最悪の未来を想像してしまった虎太郎は胃が捻れきれそうな痛みに苦しむ。

 夜叉丸の立派な逸物は、春華の股穴を挿し貫いていた。虎太郎が破けなかった処女膜を引き裂き、胎の最奥に子種を刻んだ。

「虎太郎さん。その……もう……お仲間の女性は手遅れかもしれませんわ。だって、虎太郎さんの真名を父上に教えたのは……。本当は分かっているのでしょう。虎太郎さんはあの人に裏切られたんですよ……?」

 朧姫の内心には、虎太郎と春華の仲を引き裂きたい打算も含まれていた。しかし、春華が漏らした以外に、夜叉丸が虎太郎という真名を知る方法はなかった。

 ◆ ◆ ◆

 楼嫁に与えられた部屋は天守閣の一室であった。毎夜、最上階の寝所に呼びつけられ、極太の肉棒で種付けされた。

 昼は眠り、夜は淫事に耽る。そんな爛れきった生活をしている。子宮内を蠢く鬼の精子に、卵子を差し出すのは時間の問題だった。

(新月の夜。子宮の淫熱をなんとか押さえ込めているわ。鬼に嫁いだ楼嫁ではなく、()()()()の意識を保てる……! 夜叉丸の鬼道術は月の満ち欠けで、強くなったり、弱くなったりしているわ)

 寝間から抜け出した春華は、左右の側頭部から生えた鬼角を握り締めた。邪悪な角は根元まで硬く、頭蓋骨からしっかり生えている。

(はぁ、はぁ……んっ……! どうして? お母様……なぜなの……?)

 捕まった春華は衝撃の事実を知った。

 十年前に妻鹿貴之國で消息を絶った実母は、夜叉真の正室に迎えられていた。

(朧姫が私の異父妹だったなんて……!)

 八年前、伊月白雪から皐鬼那に変じた母は、鬼子の娘を出産した。

(お母様も私と同じように……?)

 変色した髪を見つめる。白銀色に染まった長髪は夜叉丸の妖力に侵食された影響だ。鬼の食事を喰わされるようになってからは、生肉への抵抗がなくなった。

(今の私は人を喰う鬼……! なんとかして夜叉丸の鬼道術を解除しないと……!!)

 春華が元々の人格を取り戻せたのは、虎太郎が真名で呼びかけてくれたからだ。御目見得の大広間で猟犬に喰い殺されたようにみえた。しかし、春華は目撃する。赫狼は何かを丸呑みにしたが、口からは三毛猫の尻尾がはみ出ていた。

(赫狼は味方……。ミケはきっと生きているわ)

 春華は虎太郎の名を思い出せていなかった。任務時に使っていたミケの渾名は覚えていた。

 猫の姿になった虎太郎はミケと呼ばれた。珍しい雄の三毛猫は、諜報で大活躍していた。なにせ見破る方法がない完璧な変身術だ。猫に化ける忍者がいると敵に知られなければ、どんなに用心深い敵でも野良猫を警戒したりはしない。

(お母様……皐鬼那もいないみたい……。ミケを探す絶好の機会だわ)

 春華は忍び足で本城の地下に侵入する。妻鹿帰城の夜は静まりかえっている。誰も夜には出歩かない。警邏の兵士すらもいなかった。

「うっ……! この匂いは……!!」

 いつも無理やり食べさせられる肉料理と同じ匂いだった。人間の血肉、つまりは死臭がした。

(お母様があんな状態で生き延びていたのなら、お父様もどこかで……)

 十年前の内偵任務で消えた忍者は大勢いる。伊月白雪の夫であった伊月佐助、さらに光太郎の父母である甲原龍太郎と甲原沙世子。ほかにも沢山の忍者が行方知れずとなった。

 行方不明になった御庭番の忍衆が生きているのなら、幽閉先は妻鹿帰城の地下牢に違いない。

(私が伊月春華の意識を保っているうちに、妻鹿帰城の地下を探っておきたいわ。猫に化けた虎太郎も探してあげないと……)

 春華は気配を殺し、地下牢に続く階段をゆっくり降りていった。

 ◆ ◆ ◆

 妻鹿帰城の地下は食材の保管庫であり、領主夫妻の厨房も兼ねていた。春華が口にしている食事も地下厨房で作られている。普通の人間であれば強い忌避感を抱く。しかし、鬼母化の真っ只中にある春華は、血肉の芳しい匂いに食欲をそそられる。

「はぁ……はぁ……うぅ……」

 口元から垂れた涎を着物の袖で拭う。抑え込んでいる楼嫁の人格に乗っ取られかけた。妖魔と交わった者は人間性が薄れていく。異能を使う忍者には、魔性の血が混じっている。

(駄目……! こんな気持ち……!! 理性で……堪えないと……!!)

 人間の嗅覚であれば悪臭を感じるはずだ。心まで鬼に堕ちてしまったら、夜叉丸に忠実な性奴隷となってしまう。春華は爪で自らの首筋を引っ掻き、痛みで飢餓を掻き消す。

「はぁ……はぁ……。ん……くっ……」

 食材が身に付けていた装飾品の数々を発見する。厨房で調理されていたのは領民だけにとどまらない。

 妻鹿貴之國に立ち寄った旅人、連絡要員として山中に待機していた御庭番の忍衆、人買いに売られた貧農の娘達。幕府が怪しんでいた連続疾走事件の真相がここにはあった。

「…………ッ!」

 気配を感じて春華は物陰に身を隠した。

 奥から肉断ち包丁を持った蝦蟇(がま)の妖怪が二匹現れた。カエルの低級妖怪で、大物に扱き使われる奉仕妖魔。鬼が支配する妻鹿貴之國は、妖怪達の楽園だった。

「久々の休みだってのに、仕込み番とはついてねえや」

「仕方ないだろう。なんせ、奥方様は孕んでるんだぜ。たっぷり喰ってもらわねえとなぁ」

 引きずってきた新鮮な肉塊を俎板に乗せると、二匹の蝦蟇妖怪は慣れた手捌きで、血抜きと解体を始める。

(くそっ! 私がこんな状態じゃなかったら、あんな雑魚妖怪ども! 一撃で葬れるのに……!!)

 春華は拳を握り締めて耐える。蝦蟇妖怪を殺してしまったら、春華が正気を取り戻しつつあると露見してしまう。

「奥方様が無事に子を産んだのは朧姫だけだろ。今回もどうだかねぇ? 五度も流産しちまったんだ。もう奥方様は不生女(うまずめ)なんじゃなかろうか?」

「おい! 滅多なこと言うじゃねえよ! 奥方様の機嫌はただでさえ最悪なんだ。聞かれてたら、唐揚げにされちまうぞ」

「わ……わるかった……。おらだって奥方はおっかねえ。でもよぉ、旦那様が側室を迎えられたのは、そういうことなんじゃねえの?」

「さあな。御庭番の忍衆どもは喰っちまうって聞いてた。旦那様が心変わりしてなきゃ、あの女忍者は奥方様に喰われてただろうな」

「そういや、忍衆の血肉は特別らしいぞ。男の忍者は猟犬に喰われちまったろ。奥方様は残念がってたぜ」

「特別? なんじゃそりゃ? 人間なんて殺して、掻っ捌けば同じだろ?」

「それがそうでもねえんだとよ。朧姫を産んだ八年前、奥方のために特別な料理を作ったんだ。ありゃすごかったぞ」

「俺が来る前か?」

「ああ、そうだ。食材は不死身の忍者さ。肉体の傷があっという間に治る男忍を活き造りの刺身にしたんだ! 大仕事だったぜ。奥方様は旦那様の子を身籠もって臨月だった。朧姫が無事に産まれたのは、あの料理を完食したからだって言われてるんだ」

「不死身の忍者ねぇ。喰い殺されちまってるじゃねえか。ぎゃっはははは!」

「笑っちまうのは早いぜ。喰われた不死身の忍者は、奥方様が人間だったころの夫だったんだよ」

「そんじゃ何か? 奥方様は前の夫を喰って、朧姫を産んだってのか?」

「えぐいだろぉ? 全て旦那様の仕込みだったのさ」

「うげぇ。策士過ぎるぜ」

「たっぷり時間をかけて、奥方様の心を自分のものにして、昔の男を喰い殺させた。誰だって惚れちまうよなぁ。あれこそ真の鬼王だ」

「ぎゃっははっ! 奥方様が入れ込むのも納得だ。旦那様はやっぱすげえ。なんせ国を盗っちまってるんだ。女なんかチョロいもんなんだろうな」

「御庭番の間抜けどもは気付いちゃいねえだろうな。わざわざ嫁を送り付けたなんてよ」

「最初は信じられなかった。あの恐ろしい奥方様が元々は妖魔退治の忍者だったなんてよぉ。あんだけ人を食い散らかしてるんだぜ? 雪女郎の人喰い鬼にしか思えねえっての! ぎゃっははは!」

 蝦蟇妖怪の会話を盗み聞いた春華は涙目だった。

 任務に失敗した忍者の末路は悲惨だ。十年前に失踪した父母は、間違いなく殺されている。どんな惨たらしい最期だったとしても、忍衆の運命だと受け入れる気だった。

(ひ……ひどい……! そんな……!)

 不死身の忍者。その者は間違いなく、春華の父親であった伊月佐助だ。血伝忍法は会得していないと見せかけていたが、ほぼ不死身の再生能力を持っていた。

(私のお父様はお母様に喰われて死んだ……。そして、夜叉丸の血を引く朧姫が産まれてしまった……!)

 伊月佐助の再生能力は体力を消耗する。不死身に近いが、完全な不死ではない。肉体に損傷を与え続ければ、いつかは死んでしまう。

「うっ……!! うげぇえっ……えぇ……!!」

 活き造りの刺身にされた父親の死に様を想像し、春華は嘔吐してしまった。母親の所業を心から嫌悪し、あまりのおぞましさに震え上がった。

 助けを求めても、冷たくあしらわれた意味を理解する。

 もはや伊月白雪という女忍者は存在しない。妻鹿帰城にいるのは、人喰い雪女郎の皐鬼那だ。

「えぇ……げほっ……げほぉっ……ぉお……!!」

 胃袋に内容物を吐き出し終えた。床に広がった消化途中の生肉を直視できない。春華は母親と同じ道を歩んでいる。

「んがぁ……? なんじゃこいつ!?」

「待てぇ! よく見ろ! 白銀の髪、それに鬼角だぞ! しかし、こりゃあ、何だってここに?」

 蝦蟇妖怪は物陰に隠れていた春華を発見した。

 言い逃れはできない。怪しまれるが、ここで口封じをするしかない。腹を括った春華は、忍術を発動しようと構えた。

「――楼嫁殿、こちらにおられたのですか?」

 振り返るとそこには狼奈が立っていた。

「申し訳ございません。地下にお呼びいたしましたが、ここは厨房でございます。向こうに参りましょう」

 狼奈は春華を立たせた。話を合わせろと目配せで伝えてきた。

「狼奈殿、どうして側室の楼嫁殿が地下に……?」

 遠慮がちに蝦蟇妖怪が訊ねる。

「私がお呼びしました。赫狼の餌について相談があったのです。楼嫁殿は元々の飼い主ですから。仕事の邪魔をして悪かったですね。さあ、行きましょうか。楼嫁殿」

 狼奈は春華の手を引っ張り、やや強引に厨房から連れ出した。

 残された二匹の蝦蟇妖怪は、一体何だったのかと顔を見合わせる。

「おい。仕事だ! 仕事! さっさと内臓を取り分けちまおうぜ」

 いつまでも手を止めているわけにはいかない。蝦蟇妖怪は屍肉の解体作業に戻った。

 ◆ ◆ ◆

 狼奈の後ろを歩く春華は、地下深層に繋がる螺旋階段を降りていた。厨房に充満していた血肉の匂いはしない。家畜小屋の獣臭さを鼻先が感じ取った。

「今宵は夜叉丸様の力が弱まる新月です。春華殿は記憶が蘇っていますね?」

 狼奈は白銀髪の美鬼に問う。

 肉体は妖魔に変じつつあるが、中身は人間の伊月春華であるかと訊ねた。

「ええ。そうよ。……貴方は私達の味方?」

「その通りです。訳あって虎太郎殿をお助けしたいのです」

「虎太郎を……。良かった。生きているのね。でも、どうして私達を助けてくれるの……?」

「母様の願いです。私も虎太郎殿には死んでほしくありません。血の繋がった兄君ですから……」

「え? 兄……? 貴方と虎太郎が……?」

 驚愕する春華は口をぽかんと開ける。虎太郎に妹がいるとは聞いていない。しかし、すぐさま真相に辿り着いてしまう。

(まさか……虎太郎の母親も……)

 虎太郎の両親も十年前に妻鹿貴之國で消息を絶った。

 春華が知らぬ間に、母親が異父妹の朧姫を産んでいたのと同じだ。虎太郎の母親も狼奈を産んでいた。考えてみれば狼奈の猟犬を操る能力は、甲賀流の血伝忍術だった。

「これから母様と会ってもらいます」

「……何なの……ここ?」

「妻鹿帰城の最下層、戌嫁が棲む女牢でございますよ。赫狼様も今はここで暮らしています」

 女牢は猟犬の巣窟となっている。許可なく立ち入れば猟犬に噛み殺される。厨房で働く妖怪達もここには近付かない。

 狼奈は分厚い木製の門扉を押し広げる。

「な……!?」

 獣臭さの割には清潔な牢獄だった。狼奈が普段からしっかり管理をしているおかげだ。廊下の左右に牢屋が並び、猟犬達の犬小屋と化している。施錠はされていない。

(あれは……人間の女……? 赫狼……! 貴方!! 何をやってんの……!?)

 真っ直ぐ正面に進み、突き当たりの一番大きい牢屋に赫狼はいた。

 その牢屋だけは鍵が閉まっている。小柄な子供や犬なら檻の隙間があった。大人の体格では出入りできない。大型犬の赫狼が通れるギリギリの大きさだった。

「おっ……♥︎ おぉぉっ……♥︎ おぉっ……♥︎」

 女牢に囚われた唯一の人間。いや、もはや完全な牝獣になった戌嫁と、その隣には赫狼がいた。

「え? えぇ……? これは一体……!?」

「あれが私の母様です。妻鹿帰家の猟犬と戌嫁でございます。元々は人でしたが、夜叉丸様に名を奪われて、獣囚となったのです」

「なんて……こと……! じゃあ、狼奈……! 貴方の父親って……?」

「ええ。私は半獣の混血児。戌嫁から産まれた娘です。御庭番の忍衆は、私のような人間(もど)きを〈物の怪〉と呼んでいるそうですね」

「それは単なる言い伝えよ……。だって、人と獣の間に子供はできない」

 物の怪は忌み子。忍び里の教本にその存在は書かれていた。

 その実物が目の前に立っている。記述の通り、狼奈は背が高く、とてつもなく大きな体躯だった。

「夜叉丸様の卓越した鬼道術をもってすれば可能です。ただ、それでも珍しいのでしょう。後から産まれた弟妹に〈物の怪〉は一匹もいません」

 施錠されてない牢屋でくつろいでいる猟犬達。この群れは一匹の母から産まれた。

「戌嫁は十年前に妻鹿帰之國で失踪した虎太郎の母親だっていうの……」

「はい。私が産まれたのは九年前です。短命な物の怪は成長が速いので、二年もすれば成獣となります。以前の母様には昔の記憶が残っていました。しかし、今はもうほとんど思い出せなくなっていました。なにせ四匹の猟犬長と夫婦になったのです」

「四匹……って……? それなら、まさか……!」

「赫狼様は五匹目の旦那様でございますよ。戦いに勝てば猟犬長の地位が与えられます。戌嫁に仔犬を産ませる種牡犬となるのです」

 狼奈の説明を聞いて絶句する。

 虎太郎の父母は、甲賀忍筆頭を輩出してきた名門の家系。忍犬や忍鷹といった獣を使役する一族だった。

(赫狼……。分かっているの? その女性は、虎太郎の生母なのよ……? 十年前に妻鹿貴之國の内偵任務に参加したのは、選りすぐりの上忍達……! 忍犬が辱めていい相手なんかじゃない……!!)

 春華は非難の目を向ける。

「ガルルゥルゥゥウッ!」

 甲賀の忍犬であった誇りはある。畜生ながらに負い目は感じた。だが、獣欲には抗えない。

 なにせ相手は甲賀の忍び里で上澄みだったくノ一。扶翼術の使い手であった甲原沙世子なのだ。

「おぉっ……♥︎ おぉっ♥︎ 赫狼様……♥︎」

 これまでの猟犬長がそうであったように、赫狼は沙世子を人ではなく、牝犬として惚れたのだ。

「ワァオォォーーーーンゥッ!」

 赫狼は雄叫びをあげる。

 戌嫁は悲惨な境遇にも関わらず、幸せそうな微笑を浮かべていた。

「はぁはぁ……うぅっ……おぉ……♥︎」

 戌嫁から(しずく)が滴り流れる。

「今宵もありがとうございます。赫狼様……♥︎ おぉふっんッ♥︎」

 覆い被さっていた赫狼は、身を翻して戌嫁に背を向けた。

 ◆ ◆ ◆

 四つ足の赫狼と戌嫁は、互いの尻を向き合わせた体勢となる。

「ごめんなさいね。お見苦しいところをお見せしてしまって……。こうしていなければ、正気を保てなくされているの……」

 戌嫁は春華を見上げる。

 髪色が白銀色に変色し、側頭部から鬼角を生やした美鬼に、やや失望の色を滲ませた。

「貴方も鬼になりつつあるのね……。白雪のように……」

「十年前の内偵任務に参加していた貴方なら、私の父母も知っているのよね?」

「ええ。もちろんよ。貴方は伊賀忍の白雪と佐助の娘でしょう。結局、母親と同じ道を歩むのかしら?」

「十年前に何があったの? どうして私のお母様は夜叉丸の女房なんかになってるわけ」

「白雪が私達を裏切ったからよ。妻鹿貴之國が鬼に支配されていると気づき、討滅しようとした新月の夜、鬼に堕ちた白雪が私達を襲った」

「う……うそ……! ち、ちがうわ! お母様は……! 私みたいに夜叉丸の鬼道術で洗脳されて……!!」

「強い意志があれば洗脳は撥ね除けられるわ。だって、十年間囚われている私でさえ、一時的にはこうして、まともな会話ができるのよ。貴方だって記憶を取り戻しているじゃない」

「だったら、お母様は……なんで……?」

「知らないわ。白雪が寝返ったせいで、私達は捕らえられてしまった。生き延びているのは私だけよ。もはや……忍者ではなくなってしまったけれど……。私が甲賀忍の沙世子だったと思い出したのはつい最近……。赫狼が私の旦那様になってから……。懐かしい一人息子の匂いを嗅いで、昔の記憶が蘇ったわ。でも、これは一時的な状態。戌嫁になった私はきっとまた虎太郎を忘れてしまう」

 戌嫁と赫狼はあの夜、互いに相手が何者なのかが分かった。

 戌嫁は赫狼に付着していた飼い主の匂いが虎太郎だと気付いた。一方で赫狼は、戌嫁の体臭で虎太郎の母親だと見抜いてしまった。

「虎太郎の父親も殺されたのですか?」

「ええ。私の夫だった龍太郎は、狼奈の父親に食べられてしまったわ。向こうの牢屋に骨があるでしょう? あの人骨は虎太郎の父親よ」

 虎太郎の実父、甲賀忍で随一の火遁使いだった龍太郎は初代猟犬長の生き餌にされた。人骨は戌嫁が産んだ仔犬達の遊び道具になっていた。

「猟犬と交わり、狼奈を産んでから、私はくノ一ではなくなったわ。囚われた十年間、牝犬として妻鹿貴家の猟犬を産み続けた。今の私は御庭番ではなくなったわ……」

「でも、虎太郎を助けてくれたわ」

「ええ。せめて我が子は助けてあげたかった。朧姫も良い娘よ。あんな両親からどうして、あんな優しい娘が産まれてきたのか……。不思議でならないわ」

「夜叉丸さえ倒せば……!」

「いいえ。貴方達では無理よ。夜叉丸の鬼道術は強力だわ。それに裏切り者の白雪……。今は皐鬼那と名乗っている奥方がいるでしょう。最強の忍者だった貴方の母親が鬼に寝返っているわ。勝てはしない」

「で、でも……このままだと私は……」

 春華は下腹部を押さえ付ける。

 夜叉丸の精子が胎内で蠢いているのを実感する。

「……妊娠させられてしまうわ」

 気魂で卵子を護っているが、排卵直後の危険日に中出しされたら確実に鬼子を孕んでしまう。

「妻鹿貴家の大鬼と戦ってはいけないわ。でも、せめて虎太郎と朧姫はここから逃がしたい。そのためなら協力を惜しまないわ。赫狼様も虎太郎を助けると約束してくれた。貴方はどうかしら」

 協力の申し出は願ってもない。しかし、元凶の夜叉丸を倒さなければ、無辜の人間が犠牲になりつづける。野放しにはできなかった。

(虎太郎の母親、狼奈、赫狼は私達の味方……。でも、戦力が足りないわ。潜入した私達の連絡が途絶えれば、御庭番の忍軍がきっと異常事態に気付く。増援さえくれば……!)

 潜入組と連絡要員は全滅したが、本隊の忍軍は一ヵ月半後に到着する予定だった。完全な鬼になった皐鬼那は、夜叉丸ともども殺される。おそらく鬼の朧姫も討伐の対象だ。事情を説明すれば、戌嫁や狼奈は助かるかもしれない。

 戌嫁の外見を確認する。薄汚れているが、美しい女性だった。十年前は理知に富む聡明なくノ一であったのだろう。

 乳房には無数の噛み跡がある。常に仔犬を産み続ける経産婦のおっぱいは、大量の母乳を分泌していた。たるんだ腹部に視線を移したとき、春華は気付いてしまう。

「そのお腹……」

 絶句する。春華の視線は戌嫁と赫狼を交互にさ迷った。

「月の巡り合わせが良く……虎太郎にはまだ秘密にしてくださいね」

 戌嫁は身籠もっていた。赫狼が妻鹿貴家に買われた日、戌嫁はちょうど出産を終えたばかりで胎は空っぽだった。先代猟犬長だった山狗の匂いを消すため、赫狼は一昼夜をかけた。

「この胎に宿っているのは赫狼様の仔ですわ」

【第六章】満月の夜

※本章は公開に伴い一部の内容を変更しております