朝食をご馳走になった虎太郎は、春華が寝泊まりしている部屋に行こうと立ち上がった。足は痛む。しかし、杖があれば、ゆっくり歩くくらいはできる。
足首の骨が砕けているが、朧姫からもらった痛み止めのおかげで楽になった。
「春華殿は越後に出立されました。何やら急用とのことです。用心棒を二人付けましたので、帰路は問題ないかと思います」
淡々とした口調で侍女の狼奈は告げた。
「え……? 僕だけを置いて先に帰った?」
「はい。虎太郎殿の怪我が治るまでに一カ月はかかりましょう。とても待てないと申しておりました」
「そんな……! 僕は何も聞いてませんよ?」
「おかしいですね。朝食の前に虎太郎殿にはご自分で事情を伝えると仰っていましたが……?」
虎太郎は表情に表わさなかったが、焦燥で心臓が潰れそうだった。
春華が虎太郎を置いて帰るなんてありえない。そもそも越後で問屋を営む金持ちの御嬢というのは、妻鹿貴之國に潜入するための偽装だ。
(まさか春華が捕まった……? でも、それだったら、どうして僕を捕まえようとしない? 朝食に毒は盛られてなかった。春華が間諜だと露見したなら仲間の僕だって殺されてもおかしくないはず……)
狼奈は虎太郎に危害を加える様子はなかった。
「養生なさってください。食事は部屋までお運びいたしますし、手伝いが欲しければ、こちらの笛を吹いてください。不束者ですが、私が虎太郎殿のお世話をさせていただきます」
狼奈は犬笛らしきモノを渡してきた。
「あ、ありがとう……。でも、自分で出来ることは何とかするよ」
「こちらへのお気遣いは不要です。私をご自分の召し使いとでも思ってください。虎太郎様をもてなすのは、姫様のご命令でございます」
「朧姫様の命令……?」
「はい。領主様や奥方様も虎太郎殿の滞在をお許しくださいました。ごゆっくりお過ごしください。その代わりといっては何ですが、姫様は外の話を聞きたがっております。ぜひ話し相手になっていただきたく」
「分かったよ。僕に話せることなら喜んで。朧姫様のお気に召す話ができればいいけど……。ところで、赫狼はどうしているかな。気難しい犬だから、迷惑をかけてるんじゃないかと心配してたんだ」
「赫狼はよく馴染んでおります。大柄な大陸狼の血を引く、紅色の体毛。当家の牝犬が惚れ込んでおりました」
「牝犬?」
「番わせて仔犬を産ませる繁殖犬です。昨日の夜に引き合わせたところ、相思相愛の様子でした。今も犬小屋で仲睦まじく交尾をしているでしょう」
虎太郎は赫狼がモテる犬であったことを思い出す。
何度か脱走して、里の忍犬を孕ませていた。しかし、選り好みが激しく、気に入った牝犬しか相手にしない。
(僕や里の人間が選んだ牝犬の相手はしなかったくせに……。いや、もしかしたら狼奈が命令して無理やり? それだったらちょっと可哀想だ)
赫狼のことも気になったが、それよりも春華の所在を探す方が先決だった。
どういうわけかは分からないが、妻鹿貴家は虎太郎を泳がせてくれている。
(とにかく春華を探そう。僕を残して帰ってしまうはずがない。きっと捕まってしまったんだ。増援の忍軍が来るまでは約二カ月……。春華は囚われているか、城のどこかに身を隠している。どっちにしろ僕が助けないと……!)
妻鹿帰城で春華が姿を消し、虎太郎は焦っていた。すぐにでも忍術を使って春華を探したい。けれども、その日の午後、右足の噛み傷が炎症を起こした。
無力な自分が腹立たしかった。
無理に歩こうとして傷が悪化したのだ。春華の捜索ができぬまま、狼奈に介護されながら、朧姫の話し相手を務める無為の日々を過ごしてしまう。
熱が引いて虎太郎が動けるようになったのは、春華が行方知れずになってから七日後だった。
◆ ◆ ◆
まだ空が薄暗い早朝の明け方、朧姫は天守閣に呼びつけられた。
本丸御殿で侍女達と暮らす朧姫は、用がなければ本城には近付かない。特に父母がいる天守閣は苦手だった。朧姫は血の匂いを疎んでいた。今も顔色が真っ青になっている。
「父上、母上。……朧でございます」
恐ろしくて襖を開けられない。寝所に籠もりっきりの父、妻鹿貴之國に君臨する夜叉丸の正体を朧姫は知っている。母の皐鬼那が男子を産むために、何を食っているかも狼奈から聞かされた。
なぜこの両親から自分のような娘が生まれてしまったのか。周りを含めて当人も困惑していた。夜叉丸と皐鬼那は肉を吐き戻す一人娘を見放していた。
「もう一週間が経つぞ。なぜ真名を聞き出せていないのじゃ?」
夜叉丸は襖越しに問い詰める。
実娘に対する愛情は欠片も込められてなかった。
「申し訳ございません……。父上。その……やはり私には……」
消え入りそうな事で朧姫は頭を下げる。
恐怖に震える身体が幼児化していく。妙齢の美女から実年齢の童女の姿となる。
「ちっ、父上……。虎太郎さんは帰してあげても……良いのではないでしょうか……? 怪しい行動もしていませんし、忍者に雇われただけの荷物持ちかもしれないではないですか?」
勇気を振り絞って懇願する。だが、夜叉丸は腑抜けた朧姫に失望していた。本当に自分の血が流れているのか怪しくなる。
「甘ったれたことを……。儂の命を取りにきた刺客じゃ。御庭番の忍衆は服部家がまとめているというが、小娘と小童を寄越すとはな。人材が足りておらぬようだ。しかし、育ててやれば成長はするかもしれぬ。それも一興じゃな」
「……?」
「朧よ。貴様の鬼道で小童を籠絡してみせろ。忍衆といえども男の性は捨てきれまい。狼奈を介して耳にしておるぞ。真名を聞き出せたなら、貴様にくれてやってもよいぞ」
「……私に?」
「生かすも殺すも、飼うも喰うも任せよう。できぬのならば狼奈にやらせる。期限は明日の夜明けまでじゃ」
「分かりました。ご期待に応えてみせます。父上」
身体が縮んでしまった朧姫は、緩んだ腰帯を締め直し、脱げかけた大人用の着物を整える。
春華や虎太郎が予想した通り、朧姫は生物の年齢を操れた。着飾るために普段は二十年ほど余分に外見を加齢させている。
人間は忍術という超常の異能を発現させた。それに対して妖魔悪鬼は鬼道を生まれながらに会得する。
朧姫の鬼道を使えば、自分以外の相手を若返らせたり、老化させたりできる。効果は短期間だが、老衰で人間を殺すことはできた。しかし、父母と違って心優しい朧姫は人を殺せず、人肉にも口を付けなかった。
貪り食われる領民や旅人に心を痛め、牛や鳥などの家畜では駄目なのかと父母に懇願する始末だった。
(刻限は明日の朝。虎太郎さんを助けるための猶予は一日しかないわ……)
虎太郎の足は完治していない。逃がしてもすぐに捕まってしまう。
追いかけるのが猟犬を率いる狼奈であれば、山中に隠れても無駄だ。泣きそうな顔で朧姫は必死に考えを巡らせた。
朧姫が本丸御殿に帰ろうとした時だった。締め切られた城主の寝所から、苦しそうな呻き声が聞こえた。
「あぁ! んぁ!! ん゛あぁ! あんッ! んぎゅぅ~! んくゅぅうぅう゛~~!! んぎぃッ!!」
衣擦れと身体を打ちつけ合う肉音。布団が敷かれた寝床の畳は激しく軋む。夜叉丸の寝所がある天守閣に守衛はいない。奥方の皐鬼那だけで警備は十分だったからだ。
そもそも妻鹿帰城では夜になると使用人達は部屋に引き籠もる。たとえ理由があって出歩くとしても、主君の寝所には近付かない。
天守閣からは毎晩、淫事の嬌声が聞こえてくる。例外は新月の夜だけだ。
「んあぁっ♥︎ んぁっ♥︎ おぉっ♥︎ おぉっ♥︎ おぉぉっ♥︎ お゛お゛おぉっ……♥︎」
父母は世継ぎの男子を切望している。一人娘の朧姫は鬼血が薄く、期待をかけられていなかった。弱々しい朧姫の鬼角は年月を経るごとに縮んでいる。
(今度こそ、母上が無事に子を産んでくだされば……。狼奈が人間を攫ってくる必要もなくなります……。けれど、産まれた弟妹は私と違って人を喰う鬼子かもしれない)
人喰い鬼の一族である妻鹿帰家。そんな一族の生まれでありながら、朧姫は人間との平和的な共存を願っていた。
自分は人肉を食わずとも生活できている。父母も同じように生きていけるはずだと心から願っていた。
「…………」
朧姫は思い詰めた顔で階段を降りていった。五層構造の妻鹿帰城は上り下りで苦労する。
普通の城に比べれば傾斜は緩く設定されている。それでも一階に辿り着いたとき、朧姫の息は上がっていた。鬼道で身体を大人の年齢まで成長させているが、人並みの体力しかなかった。
「朧、そこを退きなさい。邪魔ですわ」
呼吸を整えていると、厳しい口調で叱責された。
妻鹿帰家の姫君にこんな荒々しく命令できる女性は城内でたった一人。朧姫が顔を上げると、そこには母親の皐鬼那が立っていた。
「母上……?」
身籠もった奥方は、着物の帯で腹全体を覆っていた。体型の凹凸がよく目立ち、遠目からでも妊婦と分かる。
上乳を露出させる破廉恥な姿は、白銀花魁の渾名で呼ばれる由来だ。
並び立った母娘は姉妹のようにも見える。朧姫の美しい容貌は母親譲り。豊満な乳房も母親とそっくりだった。朧姫は常日頃から外見を成長させて過ごしている。母親が着なくなった衣類を貰い受けているからだ。
「何をぐずぐずしているの? 父上から命じられたのでしょう。早く御殿に戻って曲者の真名を聞き出してきなさい」
皐鬼那の背後には朝食を持った侍女達がいる。
侍女の顔色は真っ白で、生気は微塵も感じられない。それもそのはずである。侍女達は皐鬼那の鬼道で操られた屍人。臓腑を喰われた犠牲者達の亡骸であった。
「寝所におられたのではなかったのですか……?」
道を譲った朧姫は、つい訊ねてしまった。しかし、すぐに後悔した。母親の不興を買ったとすぐに分かった。
夜叉丸に側室はおらず、奥方の皐鬼那だけが正室である。しかし、気に入った娘を連れ込むことが稀にあった。鬼の妖気に耐えきれず、夜叉丸に抱かれた女は狂死する。長続きはしないが、皐鬼那は酷く不機嫌になる。
「早く行きなさい。無駄口を叩いている暇が貴方にあるの?」
「ごめんなさい。母上……! すぐに行きます……!!」
朧姫は足早にその場を後にした。
母親に付き従う傀儡の侍女達が持った食事には目線を合わせず、匂いも嗅ぎたくないので息を止めた。
「まったく、朧はしょうもない娘だわ……」
母親は顔を真っ青にした娘が気に入らなかった。
苦労して産んだというのに、あれでは人間の小娘と何ら変わらない。人を殺めたくないなどという世迷い言を今も言い続けている。
(朧があんな娘でなければ、夜叉丸殿の寵愛はずっと私だけのものだったのに……!)
皐鬼那はこの七日間、自分の寝室で寝起きしていた。奥方の役目であった共寝の仕事を奪われてしまった。
口惜しく、腹立たしかった。
「んぅっ! あぅうっ……!! んぐぁっ! いやぁっ……!! あぁっ……!! あぁっ! ああぁっ……! あっ! あっ!! あぁああっ!!」
最上階から若娘の嬌声が聞こえてきた。仏頂面の皐鬼那は朝食を侍女に運ばせる。
天守閣の寝所に敷かれた布団は鮮血で汚れていた。
組み伏された美少女は口元から涎が滝のように流れ出る。火照った身体は狂悦の責め苦に耐えきれず、淫欲の欲求は最高潮に達する。
「あぁっ……♥︎ あひぃっ……♥︎」
深紫色の長髪を掴み上げ、夜叉丸は染まり具合を確認する。
「常人ならとっくに死んでおる。やはり娶るならば女忍じゃな。皐鬼那も昔は名を轟かせた凄腕のくノ一じゃった。儂の強大な妖力に耐えきり、娘の朧を産み落としたのじゃ。貴様にも見込みがある」
「いやぁっ……あぁ……!! たすけ……てぇ……! 虎太郎……!! んひぃぃいっ……♥︎」
「虎太郎……? 朧が懸想している小童か。くかっかかかか! 思い人ならば好都合だ。今宵は面白い見世物になろうぞ」
「あぁ……あぐぅっ……うぅっ……♥︎」
「儂の鬼道で真名を奪った。いずれ貴様は自分が何者であったのかさえ分からなくなる。古来から妖邪退治を生業とする忍衆が、なぜ超常の業を使えるか知っておるか?」
「あぁっ……♥︎ んぁっ……♥︎」
「妖魔の血が混じっているからじゃよ。敗北した忍は儂らの奴隷となり、合いの子を産み落とした。鬼の儂にも人の血が混じっておる。そのせいで朧のような半端物まで産まれてしまうがのう」
寝所の襖が開かれる。
皐鬼那が操る侍女達は豪華な食事を並べ始めた。趣向が凝らされた新鮮な肉料理。血が滴るご馳走だった。
「夜叉丸殿。朝御膳の準備が整いましたわ」
「ご苦労、皐鬼那。領地の周辺を嗅ぎ回っていた余所者の活き造りじゃ。さあ、貴様も喰らえ。喰わねば鬼は生きてはいけぬぞ。干涸らびた即身仏になりたくはなかろう?」
「いぃぐぅっ……! いやぁ……! やめろぉ……っ! そんなもの……!! 口にしたくないっ!! やめ゛ろぉ゛ぉ!! いやだぁああああっ!!」
犯されている少女の口に、皐鬼那は無理やり肉の刺身を詰め込んだ。
惨たらしく調理された食材。悪趣味な夜叉丸は綺麗な生首を添えておくように注文を付けていた。
潜入組の連絡要員として山地に潜ませていた忍衆。その死に顔は恐怖で凍っていた。だが、生き地獄を味わっている少女に比べれば、幸せな末路だった。
絶食で飢餓状態だった少女の胃袋は、栄養たっぷりの血肉を拒めなかった。
口に入れられた肉刺身は、するりと喉を通る。深紫色の長髪が変色し、一部が白銀色に染まった。
「やはり儂の妖力に適応できる女子だ。はやく儂のものとなれっ! くっかかかかか……!! 愉快! 愉快!! 皐鬼那を娶った十年前を思い出すのう!」
◆ ◆ ◆
春華が消えてから七日目の夜、虎太郎は朧姫の私室を訪れていた。
献身的な治療の甲斐あって、虎太郎は杖なしで歩けるようになった。右足首の包帯はまだ外せないが、やっと一人で行動できる。動けなかったときは、狼奈に入浴の手伝いまでしてもらった。
(姿を消した春華……。やけに僕を厚遇してくれる妻鹿帰城の人達。……このままだと絶対に不味い気がする)
嫌な予感がした。虎太郎が忍術を使えば城内を自由に調べられる。しかし、戦闘能力は著しく低下してしまう。歩けるようになったとはいえ、まだ右足首の怪我は治りきっていない。
(もし春華が捕まっていたら僕の忍術は知られているかも……いや、春華は情報を売るくらいなら死を選ぶ。僕だってそうだ。忍者たるもの覚悟は決めている)
虎太郎は状況が把握できず、混乱していた。
妻鹿貴之國を探る御庭番の間諜だと露呈したのなら、このような歓待を受け続けるのは不自然だ。七日前に消えた春華はどこかにいるのか。
本当に一人で帰ってしまった。そんなことはありえない。捕まっているか、姿を現せずにどこかに身を潜めているはずなのだ。
「虎太郎さんは私の父上と母上にどうしても会いたいのですか?」
「はい。こんなに良くしてもらっていただきました。何も言わずに越後には帰れません。直接御礼を申し上げたいのです」
「高齢の父上は伏せがちで滅多に人と会いません。……しかし、それなりの理由があれば、謁見してくれるでしょう」
「本当ですか……!?」
領主の夜叉丸に会えば何かが分かる。虎太郎にはそんな直感があった。
「ただ、お願いがございます。私は、その……虎太郎さんをお慕いしております……。ずっと私の側にいてくれませんか?」
力無げに朧姫はしな垂れかかる。頬を朱色に染め、豊満な乳房を虎太郎の肩に押し当てる。
「朧姫。僕は下賎な身分で……」
「……虎太郎さんは妻鹿貴家を調べに来た幕府側の間者なのでしょう? 存じておりますわ」
「……!!」
「お助けしたいのです。私は虎太郎さんが殺されるところを見たくありません。どうか私を信じてください……」
朧姫は着物の帯を取り払う。無防備な恥部を曝け出して、虎太郎も服を脱ぐように迫る。
懇願するような潤んだ瞳に悪意は感じられなかった。
「僕が御庭番の忍衆だと分かっているのなら、どうして……。いや、待ってくれ! 春華はどうなったんだ?」
「お連れの方よりも、まずはご自分の身をお守りください。このままでは殺されてしまいます……! 今宵は私に籠絡された振りをなさってください……。足の怪我が治ったら、妻鹿貴城から逃げられるように手引きいたします」
朧姫は虎太郎が着ていた貧相な木綿を脱がせる。
衣類が高価なこの時代、下男のような身分が低い使用人は、高価な下着なんか身に付けていない。
「…………っ」
「駄目だ。僕は……!」
脳裏によぎるのは春華の存在だった。
忍者であれば男女を問わず色仕掛けの房事も必要となる。美貌のくノ一であればなおさら、己の肉体を任務成功の手段として使う。しかし、春華と虎太郎は未だに清いままだった。
甲賀と伊賀の和平を象徴する夫婦。互いの処女と童貞は相手に捧げ合おうと誓った。
「父上と母上には虎太郎さんを私が魅了したと言い張ります。私と恋仲になった様子を見せれば、すぐに殺されはしません」
妻鹿貴之國に赴く前、虎太郎は初夜に失敗し、春華を抱けていない。緊張のせいで男根が萎えてしまい、処女膜を破れなかった。みっともない気持ちで、春華に詫びた。
(いいのか。僕はそれで……?)
涙を流す朧姫を見て虎太郎は感じ取る。
(そうか……。朧姫の顔立ちは、僕の初恋の女性と……)
酷似していた。許婚と相棒を兼ねる春華と出会う以前、まだ父母が健在だったころ。初めて手裏剣の練習をしたとき、標的を模した丸太に張り付けられていた似顔絵の美女。齢九つで甲賀忍の筆頭だった祖父を倒してしまった伊賀の天才くノ一。伊月白雪の秀美な目元に幼い虎太郎は惚れてしまった。
未熟な恋心を十年前の虎太郎は自覚できなかった。しかし、朧姫を目の前にして、己の内心に潜んでいた初恋に気付いた。
「虎太郎さん……」
耳元で囁かれる幼女の拙い声。大人の美女に不釣り合いな初々しい喘ぎは演技などではなかった。
出会って七日足らずの間柄。しかし、朧姫は虎太郎に一目惚れしていた。
「あっ……! あぁっ……!! だ、だめ……身体が元に戻っちゃう……!!」
ほんの一瞬、放心してしまった朧姫は真の姿に戻ってしまった。成長させていた一気に肉体が幼児化する。
豊満だった乳房は平坦に萎む。巨尻は肉付きが削げ落ちて貧相な丸みに落ち着いた。体重は半分まで軽くなった。
「虎太郎さん……。暖かいです。しばらく、このまま私を抱きしめてください……」
幼児の本性を知られて、意気消沈されやしないかと朧姫は怖がっていたが、虎太郎の暖かみを感じて、心から安堵する。
「虎太郎さん。こんな未熟な身体でごめんなさい。しばらくしたら、大人の姿になりますわ。今は……存分に私を抱きしめてくださいませ……!!」
「朧姫……! 君はどうしてここまでして僕を……!!」
「理由など……。お慕いしております。虎太郎さんをお助けしたいのです。もう人が喰われるところは見たくありません。父上や母上を止めるために力を貸してください」
「やっぱり、妻鹿貴之國で人が消えるのは……」
「はい。私の父母は鬼でございます。いいですか、虎太郎さん。城内では真名を明かしてはなりませぬ。真名を知られてしまったらお終いですわ」
「真名……? それは本名ってこと?」
「お仲間の娘は真名を奪われております。虎太郎さんは、消えたお仲間の名前が思い出せますか?」
「当然だ。僕が彼女を……忘れるはずが……。え? ありえない。いや、いやいや! だって……さっきまで僕は……。おかしいよ! こんなのは……!!」
虎太郎は愕然とする。名前が浮かんでこない。
朧姫と結ばれる背信行為を心から詫びた娘。その名前を口に出せなかった。
「我が父、夜叉丸の鬼道術ですわ。真名を奪われた者は、近しい友人や家族からも忘れられてしまう。明日の昼、本城の広間で父上と会うとき、絶対に己の真名を口にしてはなりません」
涙ながらに朧姫は警告する。父親の鬼道術を朧姫は詳しく知らないという。しかし、真名を奪われてしまったら、逃げ道はなくなると話した。
絶大な妖力を誇る夜叉丸は、妻鹿貴之國の全域を支配する業魔の悪鬼。城内に長居した虎太郎は、夜叉丸の術中に嵌まってしまった。
(自分自身の名前は覚えている。僕は甲原虎太郎だ。でも……彼女の名前が……!! 大切な許婚の真名を忘れてしまった……!)
内偵任務の忍者は、持ち物に真名を記すようなことはしない。少女の名前を知るには、外部の助けが必要だった。しかし、連絡手段は絶たれていた。
「虎太郎さん。お仲間の娘を助けたいのなら、名前を思い出してください。真名を奪われた人間は、自力では取り戻せません。誰かに真の名を呼びかけてもらえば……おそらくは……」
「朧姫……。君は……。君も逃げたいのかい?」
「はい。私をここから連れ出して……。お願いします……! 人喰い鬼の娘が何を言うのかとお疑いでしょう。でも、人の心を持つ私にとって妻鹿貴之國は地獄です……!! どうか、お救いください……!!」
人間を喰ったことは一度もない。朧姫の告白は嘘偽りなき真実だった。
白銀の長髪に埋もれた小さな鬼角。泣きじゃくる美鬼の姫君は、虎太郎に縋り付いた。
「朧姫……。分かった。僕は君を信じるよ」
「ありがとう。虎太郎さん。今宵から私との恋仲を演じてください。殺されないために……」
朧姫は肉体を大人の姿に成長させる。豊満な美女に戻った朧姫は、虎太郎の唇に接吻する。
「んちゅっ……♥︎ はぁっ、はぁはぁ……。続きをなさってください。もう先ほどのような失態はいたしませんわ」
虎太郎は迷った。大切な恋人の少女が囚われている。一刻も早く助け出さねばならない。差し迫った危機的状況で、朧姫は愛の営みを求めている。
(朧姫の協力は不可欠だ。たとえ幼い少女の恋心を利用する結果になっても……)
内心で捻出した合理的な理由は、単なる言い訳だったかもしれない。
「朧姫……!!」
「虎太郎さんっ……!!」
朧姫は虎太郎を受け止める。
◆ ◆ ◆
虎太郎は朧姫の寝所で一夜を過ごした。
恋慕に夢中だった男女は、屋根裏に潜む者達の気配を感じ取れなかった。
妻鹿貴城には至るところに隠し部屋と秘密の通路がある。朧姫の寝所がある本丸御殿も例外ではない。構造を知り尽くす城主は、誰にも気付かれず覗き見ができた。
「甲原虎太郎……! くぅっ……♥︎ おぉっ……♥︎」
消え入りそうな声で助けを求めた。泣き腫らした両眼から血涙が溢れる。ところが、真名を呼ばれた青年は、妻鹿貴家の姫君に愛を注いでる。
彼女の心を支えていた柱が崩れた。深紫色の美髪は白銀色に侵食され、ついに塗り潰されてしまった。
「よくやったのう。仲間の真名を売った褒美じゃ。貴様に儂が新名を授けてやろう」
狡賢い悪鬼は、衰弱した乙女の心を上書きする。
虎太郎よりも太ましい逸物を子宮に突き挿し、耳に熱い息を吹き込むように囁いた。鬼呪の言葉は魂の奥底に浸透する。
「あうぅ……! あぁっ……! はいィ……!」
新たな名で呼ばれ、頷いてしまう。仲間の人肉を喰わされても堕ちなかった気高き忍者の誇りが穢された。
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