赫狼は心から悔やんでいた。弱っちい虎太郎を主人と認めたことはない。しかし、守るべき大切な仲間だった。兄貴分の自分は弱い子分を守らなければならない。そんな自分がまんまと敵の術中に嵌められた。
当初の計画では朧姫に奇襲をかける予定だった。しかし、実際に赫狼が攻撃したのは虎太郎。自制心が働かず、とんでもない大失態を演じてしまった。
「ガルルルル……!」
原因は分かりきっている。狼奈とかいう女のせいだった。
「私を信用できませんか? 無理もありません」
この女が発した命令には抗えない。朧姫を襲うように見せかけて、虎太郎に怪我をさせろと命じられてしまった。
「安心してください。能力を使って操ったりしませんから」
狼奈は語りかける。赫狼の警戒心は解けない。もし狼奈が命令していたのなら心から服従してしまう。どうやら本当に能力を使う気はなさそうだった。
「私の忍法は走狗術。四足獣を意のままに操る能力です。人間には使えませんが、ほとんどの家畜には通用します」
大柄巨躯の侍女は、四つ足の動物を言葉で支配する。
発動条件は四つ足であること。鳥類や魚類、多足類の昆虫などには効かない。しかし、人間でも四つん這いで歩く赤子には通じる。
「猟犬長になって逃げた犬は一匹もおりません。しかし、待遇が気に食わなければ脱走してもいいですよ」
狼奈の真意が伝わってくる。不可思議な感覚だった。
赫狼は人間とある程度の意思疎通はできる。だが、犬と人間の差は埋まらない。どんなに賢かろうと赫狼は獣だった。ところが、狼奈の言葉は完璧に理解できてしまう。狼奈の声帯から発せられた人語は犬の本能に浸透する。
赫狼は狼奈の体臭が獣臭いと気付いた。人間と獣の臭いが混ざっている。大柄巨躯の侍女からは雌犬の匂いがした。
「ここは妻鹿貴城の地下牢です。向こうの扉は厨房に繋がっています。こちらに来てください。大丈夫です。夕食の具材にされたりはしません。猟犬を地下牢で飼っているのは、捕らえた食材を逃がさないためです」
赫狼は隙を見て逃げようと思った。
酷い悪臭のする牢獄だった。何を食材にしているのかは察しがつく。服が山積みにされていた。食材になった動物が着ていたものだろう。
「最下層の牢は洞窟と繋がっています。外出するときは洞窟を使ってください。人間と違って、嗅覚の鋭い私達なら外に繋がる道が分かります」
狼奈に案内されて赫狼は螺旋階段を降りる。
地下一層の牢獄は死臭が酷かった。最下層は不快な匂いが薄まり、獣臭が強くなる。
「猟犬長の仕事は種付です。妻鹿貴家が牡犬しか買い上げないのは、極上の仔犬を生む牝犬をかっているから……。気に入ったのなら、母様を孕ませてやってください。先週、産んだばかりなので子宮は空いています」
最下層の女牢には一匹の女が囚われていた。黒髪の美女からは狼奈と同じ匂いがする。長らく日の当たらない地下で生活していた女は肌が真っ白だった。
「妻鹿貴家で飼われている戌嫁です。勝利した牡犬は戌嫁と交尾し、仔を成す……。今日、貴方が噛み殺した山犬は五代目の夫でした。六代目は貴方です。そうやって妻鹿貴は猟犬を増やし続けてきました。私も母様の胎から産まれた半獣です」
赫狼は犬ながらに戸惑う。人間と犬の性行為が物理的に可能だとしても、獣姦で子が成せるはずはない。
人と犬、遺伝子がかけ離れているのは本能的に分かる。だが、なぜか戌嫁と呼ばれた黒髪の美女に、赫狼は反応してしまっていた。
「魔性者の母様は、犬の子種でしか孕めなくなったのです。九年前に産まれた私は例外。まだ母様に人間性が色濃く残っていました。ですが、私の弟妹はすべて犬の姿で産まれています。おそらくこれから先、母様が産むのは犬だけでしょうね」
赫狼の首輪が外された。これから何をするのも自由。最下層の壁面には洞窟に繋がる大穴が開いていた。
狼奈の言うとおり、新鮮な外の空気が流れ込んできている。換気の役割を果たして、地下特有のカビ臭さがない。
「狼奈……? 旦那様は……?」
四つ足で歩く戌嫁は、首を傾げて狼奈に訊ねた。乱れた長毛の隙間から虚ろな目が覗いている。
「本日の決闘で敗死いたしました。今夜からは勝者の赫狼が猟犬長です」
「そう……。貴方が新しい私の旦那様……♥︎」
頬を赤らめた戌嫁は見惚れた様子で、赫狼を一心に見つめる。
人間の肉体ではあるが、獣妻の家畜として過ごした時間は長すぎた。赫狼がこれまで迎えたどの夫よりも優れた牡犬だと一目で理解した。
「んぅ……あぁ……♥︎ なんて逞しい御体なの……♥︎」
股の割れ目から淫蜜が垂れた。そこにいるのは盛り付いた淫乱な牝犬。つい先日まで番っていた山犬を殺されたというのに、赫狼に求愛行動を示す。
「母様。私は食材の仕入れがあるので上に戻ります」
気を利かせた狼奈は、地下牢の最深部に赫狼と戌嫁を残し、階段を上がって行ってしまった。
これから何をするも自由。狼奈の言葉に偽りはない。
「……あぁ……ぁ……♥︎ 赫狼様♥︎ 私はお気に召しませんか?」
四つ這いの戌嫁は赫狼に肢体を擦り寄せ始める。
人間の女に欲情したりはしない。赫狼はそう考えていたが、戌嫁のフェロモンは赫狼を荒ぶらせた。
赫狼は戌嫁の身体に覆い被さった。戌嫁からは昼間に噛み殺した山犬の性臭が染み付いている。
「んぉおぉっ……♥︎ あんっ♥︎ んぉおぉぅっ……♥︎」
獣の世界では強者が全てを総取りする。戌嫁に残っていた負け犬の残り香を追い出し、牡として牝を屈服させる。
「ガルゥゥウゥゥゥウ――ッ!!」
赫狼の前足が戌嫁の後頭部を踏み付ける。
徹底的に上下関係を身体に刻み込む。屈服させられた戌嫁は頬を地面に擦りつける。
「赫狼様……♥︎ 認めますぅっ♥︎ 今宵から貴方様が私の飼い主でございますぅっ……♥︎ 私の群れを率いてくださいっ♥︎ アァ……アアァァアァ……♥︎」
快楽に酔う赫狼だったが、あることに気付いてしまう。甲賀里で訓練を受けた忍犬だから分かった。本来の戌嫁は強い人間だ。犬畜生に屈服させられるような弱者ではない。
「ガルルルル……!」
何の因果で戌嫁に堕ちたのか。理由はさっぱり分からなかったが、戌嫁の番になった歴代の猟犬長は、喜び勇んで半獣の子を産ませたのだろう。
「はう……はぁ……♥︎ あぁ……ぇ……?」
戌嫁は懐かしい匂いを嗅いだ。
もう二度と思い出せないはずの古い記憶。同時に赫狼も気付いてしまう。
「ガルルッ……」
戌嫁の体臭は馴染み深く、身近な匂いだった。だが、正体に勘付いても赫狼は止まらない。
勝利で獲得した牝犬を屈服させる権利が自分にはある。戌嫁を手放すのは、自分が戦いに敗れて負け犬になった時だけだ。
「ああ……あぁっ……♥︎ 旦那様は甲賀里で育った忍犬……♥︎ んぎぃっ……♥︎ まさか育手はこたぁ……♥︎ んぁああっ……♥︎」
赫狼は真相を言いかけた戌嫁を躾ける。
こうして牡と牝、夫婦の契りは結ばれた。
「ああぁっ……♥︎ あぁっ……♥︎」
もはや互いの上下関係は覆らない。しかし、赫狼は若干の後ろめたさを感じる。ますます虎太郎が哀れに思えた。
◆ ◆ ◆
夜の妻鹿貴城は驚くほど警備が手薄だった。
忍装束に着替えた春華は虎太郎の客間に上がり込み、これから城内の調査を始めると説明した。
「ちょっと! 何してんの? 無理に動いたら、傷の治りが遅くなっちゃうでしょ。虎太郎はここで待機してなさい」
春華と虎太郎は妻鹿貴城での長期逗留が決まった。肉体年齢と精神年齢が合致しない姫君の好意は純朴だった。本丸御殿の客間を自由に使ってくれと朧姫は言ってくれた。
気がかりなのは部屋割りを決めたのが狼奈だったことだ。
商家の御嬢と下男である関係上、同室はありえない。しかし、春華と虎太郎に与えられた客間は遠く離れていた。そのうえ、虎太郎に与えられたほうが上室だった。分断を意図しての配置に違いない。
「待ってくれ! 春華が行くなら僕も……! 痛っ……! ぐぅっ……!!」
「駄目よ。文字通り貴方は足手まとい」
「僕の忍術を使えば役に立て――」
「――立たない。虎太郎の擬獣術〈怪猫〉は完全な諜報向けの忍術でしょ。私と違って戦闘力皆無じゃない。そりゃあ、足の怪我がなければ使い道はあったでしょうけどね」
「でも……!」
「口答えしない! あんまり五月蠅いと箱に詰めて川に流すわよ? いい? 虎太郎は朧姫に接触して情報を聞き出して。子供の相手は得意でしょ。妻鹿貴家について聞き出しなさい。たぶん、あの姫君は虎太郎に惚れてるわ」
「え? ……そう……かな?」
「はぁ。鈍感馬鹿ね。きっとこの部屋は朧姫の寝室に近いわ。そうじゃなければ、なんで主人の私よりも下僕が上室を宛がわれてるのよ。顔だけは一人前なんだから、あの知恵足らずな御姫様から情報を聞き出しなさい。絶対に何かあるわ」
「朧姫か……。ちょっと気になる。外見が大人びているのは異能だと思う。母さんから聞いたことがあるんだ。伊賀流の忍者にそういう人がいた」
ぽつりと虎太郎は呟いた。
「ちょっと! なんで甲賀の虎太郎がなんで伊賀流忍術を知ってるわけ? 里の仲間にすら伝えていない秘密だってあるのに!」
「あれ? 言ってなかった? 僕の母さんは扶翼術の使い手だった。翼を持つ生物を操れたんだ。野鳥を使って伊賀里の諜報活動をしててね」
(ふーん。便利そう。虎太郎の血伝忍術がそっちの能力だったら良かったのに……。まあいいわ。私達の子供に発現するかもしれないから)
伊月家は戦闘に秀でた伊賀忍の家系だった。しかし、幕藩体制が安定し始めた昨今、諜報向け能力のほうが有用だ。
「聞かされたのは、母さんが妻鹿貴之國に旅立つ前だった。とても昔の話だよ。でも、よく覚えてる。伊賀には年齢を操れる人がいた。だから、見た目が幼子でも油断しちゃいけないってね」
「朧姫の場合、幼子が大人になってるけれどね。虎太郎の言うとおり、伊賀には外見年齢を偽れる忍者がいたわ。ていうか、母方の祖母よ。私のお祖母様は生物の年齢を操れたの。自分以外の人間や動物も」
「それって若返りができるってことじゃ、まさか不老の忍術!?」
「見せかけだけよ。使い勝手は悪かったわ。自分以外の相手にかけた忍術は、少しずつ解けちゃうの。若い身体で遊んでいたらしいけど、寿命が延びているわけじゃないから老衰で死んだわ」
「妻鹿貴家の朧姫も同じかもしれないね。伊賀の血筋が入ってるのかな。朧姫を見たとき思ったんだ。顔立ちや雰囲気が、春華の母君似てるような……」
「ちょっと! ちょっと! はぁ? なんで私の母親の顔を知ってるわけ? 直接は会ってないでしょ!?」
伊賀と甲賀の関係が改善したのは、十年前に上忍達が任務に失敗して行方知れずになってからだ。
春華の母親と虎太郎が顔合わせる機会は一度もなかった。
「甲賀里に伊月白雪の似顔絵があるんだよ。今まで話さなかったのは、その……今だから言うけど、手裏剣の的に似顔絵を張り付けてあったから」
「うわぁ……。私のお母様に向けて手裏剣を放っていたの?」
「五歳のときまでだよ! 十年前に和議が結ばれてからは取り外した」
「ふーん。それで? 陰湿な甲賀忍さんはずっと諜報活動に勤しんでたの?」
「仕方ないだろ。服部半蔵様が仲裁するまで、内部闘争で伊賀と甲賀は殺し合ってたんだから。僕が伊月家の女性と夫婦になってると知ったら、ご先祖様は仰天するだろうな。特にお祖父ちゃんはどう思うか……」
「あー。そっちの話は聞いてるわ。私のお母様が虎太郎の祖父を殺したとかそういう因縁でしょ」
「春華の母君は強すぎたんだよ。当時の甲賀筆頭だったお祖父ちゃんが九歳の少女に殺されたなんて……。とんでもない屈辱だったんだ」
「実力の差よ。お母様は私と同じで天才だったからね」
伊賀忍の筆頭に最年少で抜擢された伊月白雪は、九歳で甲賀の筆頭を暗殺した。氷結忍法と卓越した手裏剣術で、女の身でありながら最強の忍者と謳われた。
「伊月白雪が天才なのは認めるけど、妻鹿貴之國の内偵任務で消息不明になったんだろ」
「言われなくなって、分かってるわ」
「僕と春華がこうしていられるのは、親世代の因縁が十年前に消え去ったおかげだけど……」
「伊賀と甲賀に対する信頼は失墜したわ。私達が大名統制の使い物にならないから、将軍様は服部半蔵様を御庭番の頭領に任じた。今回の任務は、伊賀と甲賀に与えられた名誉挽回の機会……。私達に失敗は許されないわ」
妻鹿貴之國では人が消えている。その裏にいるのは妻鹿貴家の者達でほぼ間違いない。
春華と虎太郎の内偵任務は首謀者の正体を突き止め、確たる証拠を見つけることだった。悪業を明らかにできれば、二ヵ月後には忍軍が集結し、妻鹿貴之國は取り潰しになる。
「僕は連れて行かれた赫狼のことも気になるよ」
「それなんだけど、赫狼は諦めたほうがいいわ。虎太郎も気付いているでしょ? あの狼奈とかいう侍女は妻鹿貴家に仕える忍者、もしくは妖怪よ」
「そうかもしれない。狼奈は犬を操れるみたいだ。そうじゃなければ赫狼があんなに従順になるとは思えない。僕の母さんが鳥獣を操れたように、動物を支配する忍術は多く存在する」
「狼奈は犬使いでまず間違いないわ。赫狼はあっちの飼い犬になったのよ。可愛がってた子分の足を噛んじゃうくらいだもの」
「え? 子分? 僕が飼い主なんだけど……」
「赫狼は自分が虎太郎の飼い主だと思ってたわ。何度も守ってもらってたじゃない」
「それはそうだけど……はぁ……。僕も春華みたいに戦闘向けの忍術を発現したかった」
「こればっかりは生まれ持った才能よ。諦めなさい。それじゃ、私は行くわ。夜叉丸と皐鬼那が住んでる天守閣を覗いてくる。虎太郎はここでおとなしくしてなさいよ」
黒幕の大本命は領主の夜叉丸、そして奥方の皐鬼那。
失踪事件に絡んでいるとしたらこの二人だ。
「気をつけて。今日は満月だ。月明かりで見つかりやすい」
「大丈夫よ。私の忍術は知ってるでしょ。私の処女膜を破けるようになってから心配しなさい」
「……あれは! その! えっと……緊張してたから……! 男にはそう言う時もあるんだよ!!」
「はい。はい。そうじゃないときが来るのを期待してるわ。房中術の実技を練習したいんだからさ。早く私を大人の女にしてよね」
虎太郎をおちょくる言葉を残して、春華は妻鹿貴城の天守閣へと向かった。
右足の怪我を一日でも早く治すために虎太郎は横になる。
諜報は虎太郎の仕事だったが、この足では役に立たない。春華の忍術は戦闘向きだが、優秀な彼女は抜かりなく何でもこなしてしまう。
朝になれば春華は情報を掴んで戻ってくる。
虎太郎はそう思っていた。しかし、春華は帰ってこなかった。十年前、妻鹿貴之國に潜入して行方知れずになった両親達と全く同じように。
※本章は公開に伴い一部の内容を変更しております