城下を見渡せる天守閣は眺望こそ優れているが、生活するには不便な場所だった。普通の城主は本丸に建てた豪奢な御殿で生活する。しかし、変わり者で知られる織田信長は天守閣で暮らしたという。
妻鹿貴の領主がわざわざ天守閣で寝泊まりするのは、そんな天下人にあやかってのことだと噂された。だが、実際の理由は人間を近づけたくなかったからだ。
「んっ……! あぁん……!! んぅっ……んぅっ……!!」
絹衣で着飾った妖艶な美女が媚尻をたゆませる。
奥方の皐鬼那は男根に跨がり、杭打つように女陰を押し下ろす。肌と肌が打つかり合う肉音が響いた。
「あんっ! あんぁっ! あぁっ! んおぉっ……!」
白銀色の煌めく長髪にちなんで、妻鹿貴の奥方は白銀花魁だとか、雪女郎とも呼ばれた。
元々が流れ着いた旅芸人の踊り子で、領民は皐鬼那を歓迎はしていなかった。いわゆる、遊女や妓女の類いだという悪い噂があった。
領主の夜叉丸は老病に苦しみ、跡継ぎはいなかった。
家門断絶の危機が迫る中、皐鬼那は八年前に娘の朧姫を産んでくれた。子供を拵えてしまえば、出自が卑しかろうと正室にするほかなかった。
「はぁっ……はぁはぁ……っ! んうぅっ~~!!」
一度目の出産を終えた皐鬼那は立て続けに妊娠した。しかし、夜叉丸の子を五度も孕んだが、無事に出産はできなかった。流産せずに産まれてきたのは初子の朧姫だけだった。
「夜叉丸殿っ……♥︎ 夜叉丸殿っ♥︎ 今度の稚児は必ず男の子を……っ♥︎ この膨らんだ胎を撫でてください♥︎ 次こそ、立派な男児を産んでみせますわ……♥︎」
今回が六度目の妊娠。奥方の皐鬼那が流産を繰り返しても子作りを続けるのは、世継ぎの男子を授かりたかったからだ。
「夜叉丸殿の子を育てるために、今宵は五人の町娘を喰らいましたわ。滋養のある肉を喰らえば、必ずや元気な鬼子が産まれ出でますわ♥︎」
妻鹿貴城の天守閣は血の臭いが染み付いている。皐鬼那が食い散らかした娘達の人骨が、部屋の片隅に積まれていた。
「鬼族の数が増せば、いずれ人の世は終わります……♥︎ 夜叉丸殿と私の子供達が天下を取りましょうっ……♥︎」
皐鬼那の頭部には二本の鬼角が生えている。人肉を貪った口元は鮮血で染まっていた。人間の血肉を好物とする邪妖。人殺しの化物が妻鹿貴之國を支配していた。
「夜叉丸様、奥方様。ご報告がございます」
襖ごしに侍女の声が聞こえた。
「あら? どうしたの? 狼奈? 食事を持ってきてくれたのなら、少し待ってほしいわ。夜叉丸殿の射精が終わるまでっ……♥︎ 今は夜伽の最中よぉっ……♥︎」
感悦に浸り、豊満な乳房を微細に震わせる皐鬼那は、夜叉丸の放った精を受け止める。大きく育ったボテ腹は胎水で満たされており、精液は羊膜に浴びせかけられ、内部へ浸透していった。
「恐れながら火急の報せでございます。御庭番の忍衆が動いたという情報が入りました。幕府は妻鹿貴之國で起きる不穏な事件を耳にし、服部半蔵に調査を命じたようです。間諜が内偵任務を実施、情報収集の後に忍軍が動くとのこと」
「御庭番の忍衆……。まあ、これだけ人間が消えたら気付くわよね。旅の坊主を喰ったのは不味かったかしら……? 肉の味も悪かったけれど……」
「忍軍が集まるまで時間はあるでしょう。しかし、間諜はもう入り込んでいるやもしれません」
「ふふっ! 恐れる必要はないわ。むしろ悦ばしいわ。領民を食べたら年貢が減る。だけど、御庭番の忍衆だったら、私達は痛くもかゆくもない。忍術使いならきっと肉は美味でしょうね。狼奈、必ず捕まえなさい。戦って勝てない相手だったら、私が手伝うわ」
皐鬼那と狼奈のやりとりを夜叉丸は黙って眺めていた。
御庭番の忍衆と対決するのは二度目だ。十年前にも服部半蔵は妻鹿貴之國に忍衆を送り付けてきた。
(わざわざご苦労なことだ。しかし、優秀な女であれば、儂の鬼子を産む母胎になりえるやもしれぬ。餌にするよりも、むしろ十年前のように……)
夜叉丸は皐鬼那の巨尻に実った媚肉を鷲掴む。
亀頭で子宮を押し上げて胎児を触診する。一度は子を産んだが、皐鬼那は五度も流産している。それでも正室の地位を与えたままなのは、他の女では孕む前に発狂死するからだ。
(妖怪の邪気に耐える丈夫な女子は少ない。皐鬼那が小煩くなるだろうが、狼奈の胎に仕込んでしまうのも一興じゃな)
襖の向こうにいる狼奈は、大柄な巨女だった。獣血が混じった物の怪の肉体は、人間より遙かに頑強だ。皐鬼那の子供が再び流れてしまったら、それも悪くないと夜叉丸は思った。
「あっ……♥︎ んぁっ♥︎ あんっ♥︎ ああんっ♥︎ んぁっ~~♥︎ 夜叉丸殿ぉっ♥︎ 殿ぉっ……♥︎ おぉっ♥︎ んぉっ……♥︎」
皐鬼那は夫の心を逃すまいと必死に媚びる。母乳を噴き漏らしながら、雪のように真っ白な肌を触れ合わせる。鬼に惑わされた美女は、淫獄の底に墜ちていくのだった。
◆ ◆ ◆
御庭番は将軍直属の諜報機関として創設された。
徳川家には服部家の忍軍が仕えていたが、幕府が誕生してからは大名統制の重要性が増大した。
優秀な忍衆を輩出してきた伊賀忍と甲賀忍から人材を登用し、御庭番の元になる組織が出来上がった。しかし、伊賀と甲賀は不倶戴天の敵同士。どちらが御庭番の頭領になるかで揉めに揉めた。
事件の発端は十年前、ある任務で成果を出した忍を頭領にすると将軍が口にしてしまい、伊賀と甲賀の忍びが互いの足を引っ張り合った。
その結果、任務に赴いた忍衆が全滅という最悪の結末を迎えた。
呆れ果てた将軍は、徳川家お抱えの忍者だった服部半蔵を御庭番の頭領に指名した。以後は内部闘争を抑制するため、服部家の忍頭が御庭番の忍衆をまとめる世襲制に落ち着いた。
服部半蔵は次世代に禍根を残す危険を憂慮し、幼少期から伊賀と甲賀の男女を組ませて諜報任務を行わせた。然るべき時期に夫婦となり、子を成させることで伊賀と甲賀の血脈的融和を図った。
「――春華と申します」
妻鹿貴城の本丸御殿を訪れた美少女はそう名乗った。
「越後で絹織物を商っている問屋の娘にございます。妻鹿貴の御殿様が猟犬を高値で買われると聞き、この赤毛の犬を売りに参りました。名は赫狼。大陸の商人から買い受けた狼犬です」
春華が名乗った来歴は嘘っぱちである。伊月春華は御庭番の忍衆であり、伊賀のくノ一であった。
「御嬢様の家に奉公している下男です。名は虎太郎と申します。赫狼の躾は僕の受け持ちでした」
続いて挨拶した青年の本名は甲原虎太郎。当然、彼も御庭番の忍衆であり、甲賀流の忍者だった。身分や正体は出鱈目であるが、売り込んでいる赫狼の来歴は本物だった。
甲原家が忍犬とするために、ポルトガルの商人から買った外国生まれの大型犬。赤味を帯びた体毛は雄々しく、大名が欲しがりそうな堂々たる風格の四足獣だった。狼の血が入っていなければ、ここまで大きくはならない。
「遠路遥々、越後からよく来てくださいましたわ。父上は優秀な猟犬を欲しがっております。きっとこの赫狼を気に入ることでしょう」
御簾の向こう側にいる朧姫の容貌はよく見えない。中庭に立たされた春華と虎太郎は目を凝らす。訓練された忍者の視力ですら、御簾の編み目が細かく、屋内が暗がりのため、素顔を確認できなかった。
(お目当ての殿様と奥方は出てこずか……。買い上げる猟犬を自分の目で確認するって聞いたから、この作戦にしたんだけどね。まあいいわ。朧姫と接触できただけでも上出来よ)
内偵任務で妻鹿貴之國を訪れた春華は、失踪事件の原因が領主にあるのではないかと疑っていた。
何人もの人間が消えた。幕府の耳にまで届くのだ。相当な数の人間が行方不明となっているに違いない。
(原因は領主の夜叉丸にあるのか、それとも奥方の皐鬼那か。私の勘だと後者だわ。だって、皐鬼那が嫁いでから失踪者が急増したんですもの。元々は旅芸人の踊り子だというけれど、調べれば調べるほど怪しい経歴だったわ)
出自不明の奥方。所属していた旅芸人の一座は、綺麗さっぱり消えていて、実在していたのかも怪しい。
(妻鹿貴之國は夜叉丸じゃなくて、奥方の皐鬼那が支配している可能性だってあるわ。夜叉丸は天守閣に籠もって、ほとんど誰とも会っていない。老年の城主を誑かす雪女郎なんて蔑称まであるくらいの悪女。本当に人間かしら?)
老病で表舞台に立てなくなった夜叉丸に代わって、皐鬼那は統治にも口を出し始めた。
夜叉丸は九十歳を超える老人で、杖なしでは歩けないという。
若い頃に妻を何人も娶ったが、子宝に恵まれず、先立たれてしまった。
初めての子供である朧姫が生まれた年、夜叉丸は八十五歳だった。孕ませた皐鬼那との年齢差は五十を上回っている。
(最初は夜叉丸の娘か疑われたらしいけど、今は誰もが信じきっているというわ)
皐鬼那の惚れ様は周囲に知れ渡っていた。朧姫の出産後、立て続けに妊娠し、五度の流産にもめげず、六度目の懐妊を遂げた。
老衰で弱った夜叉丸を体熱で温めるため、一晩も欠かさず共寝している。城で働いていれば、一度は奥方の喘ぎ声を耳にするというくらいだった。
(死にかけ老人の精力が尽きないのもちょっと変よね。虎太郎なんて、男盛りの年齢だっていうのに……。勃たないのよねぇ……。甲賀の男ってどうしてこう貧弱なのかしら?)
下男に変装した相方を思わず睨んでしまう。十年前に引き合わされてから、ずっと生活を共にしてきた異性。御庭番に命じられた許婚だった。春華は虎太郎の子を産まなければならない。伊賀と甲賀の因縁を消し去るため、若い世代を夫婦にする。この時代に自由恋愛などはありえない。春華は虎太郎の妻になることを受け入れていた。
(虎太郎の子を産むのはいいけど、ちゃんとできるんでしょうね……?)
問題があるのは虎太郎だった。妻鹿貴之國への内偵任務が決まった日、若夫婦役で潜入するために、さっさと初夜を済ませてしまう気だった。
ところが、怖じ気づいた虎太郎のせいで、情けない失敗の夜になった。恐怖で縮こまった男性器が勃起せず、春華の処女膜を破れなかったのだ。
(商家の御嬢よりは、冴えない行商人の夫を尻に敷く、強気な若妻を演じたかったわ)
虎太郎の風貌は悪くない。優しげで背丈も高く、薄汚れている下男の姿でも惚れてしまう町娘はいるに違いない。
(名前は虎のくせに、中身は仔猫なのよねぇ。そんなんだから道中も飼い犬に嘗められるのよ……)
忍犬の赫狼は虎太郎を下に見ている。命令は聞き入れるが、親分が子分の懇願を聞き入れる感覚に近い。
もちろん、春華の命令は絶対厳守だ。反抗的な態度を取ったとき、刃物で前足を切ろうとしたら、上下関係をしっかり認識してくれた。
傲慢不遜な性格の赫狼だが、三足獣にはなりたくなかった。虎太郎はドン引きして、赫狼を庇っていたが、そんなんだから甘く見られるのだと春華は呆れる。
「春華さん、虎太郎さん。買い取りはさせていただきますが、父上から条件を出されております。妻鹿貴で飼っている猟犬と戦わせて、赫狼が勝てば言い値の小判十枚をお支払いたしましょう。もし赫狼が負けたときは、申し訳ないのですが支払いは半額となります」
朧姫は申し訳なさそうに買い取りの条件を伝えた。つい最近、妻鹿貴家は猟師から山犬を買い上げたばかりなのだという。闘犬でどちらが強いかを調べる。願ってもない好機だった。
(あらら。最高の申し出じゃない。計画が順調に進みそうだわ)
赫狼は訓練された忍犬。春華や虎太郎の意思を汲み取って行動を起こせる。
(妻鹿貴家の正体を見極めるために、赫狼に朧姫を襲わせる。人間に化けた妖怪なら、そのまま始末してしまえばいいわ。襲わせる対象は夜叉丸か皐鬼那が良かったけれど、二人の娘である朧姫でも別に構わない)
春華は不安げな態度を装う。商家の御嬢であれば、赫狼が高値で売れなければ困るからだ。しかし、内心では微笑む。
朧姫を襲わせる良い口実になる。闘いで興奮した赫狼が、御簾を突き破って襲いかかる。そんな物語を演出してやるつもりだった。
「姫様! 大変恐れ入りますが……。赫狼はとても強い犬です! 蔵に忍び込んだ盗賊を殺しかけたことも……。妻鹿貴家の猟犬が強いのは重々承知しております! しかし、万が一にも相手を噛み殺してしまったら」
焦り顔の虎太郎は何やら喚き始めた。春華だけでなく、赫狼の冷たい視線が虎太郎に刺さる。
(虎太郎……。貴方ねぇ……。少しは後先を考えなさいよ!)
事故に見せかけて朧姫を襲撃する計画に虎太郎は反対だった。
(甘すぎるわ。犬にすら呆れられてるじゃないの! 朧姫が八歳だからってなに? 赫狼だって加減くらいは知っているわ。人間の幼女だったら、大した傷は付けないでしょ。人間じゃなかったら、噛み殺せって命じたけど)
春華は虎太郎の首根っこを掴む。
「問題ございませんわ。朧姫様。下男の世迷い言など無視してください。ぜひとも戦いましょう! 赫狼の実力をお確かめください! 猟師が野山で拾ってきた野犬程度に負けはいたしませんわ!!」
「ちょ、春華! でも……!!」
「下僕は黙ってなさい! 朧姫様が闘犬を御覧になりたがっているのが分からないの?」
「あ、あの……。私、そういうのはあんまり……見たいわけじゃ……」
御簾の向こうにいる朧姫は、やる気満々の春華には共感せず、虎太郎と近い感性の少女だった。
闘犬取り止めの希望が見えたところで、対戦相手の猟犬を連れた侍女が中庭に現れた。
「妻鹿貴家で飼う猟犬は上下関係をはっきりさせねばなりません。いつも新入りは群れの長と戦わせています」
春華と虎太郎の視線は、赫狼を睨みつける飢えた山犬よりも侍女に釘付けだった。
(でっか……! 異人の血がはいってるのかしら? まるで大男じゃない)
二十代後半の容姿だが、とにかく体格が巨大な女だった。
「申し遅れました。妻鹿貴家に仕えている侍女の狼奈と申します。この山犬が妻鹿貴家で飼っている猟犬長です。準備ができたら首輪を外します」
自分の外見には触れてくれるなという雰囲気を狼奈は醸し出している。
(妖魔かもしれないわね。この侍女……)
目聡い春華は狼奈に人間以外の血が混じっているのではないかと思った。
(私達の臭いを嗅いでるわね。嗅覚が鋭いのかしら……? やっぱり人間じゃなさそう。化けの皮を剥いでやりたいわ。でも、万が一ってこともある。まだ手を出さないであげる。感謝しなさい)
妻鹿貴家が失踪事件の原因で間違いない。物証は一つもなかったが、春華の疑惑は確信に変わりつつあった。
「…………」
一方で狼奈は虎太郎を見つめていた。
「…………?」
虎太郎は首を傾げる。ちんたらしているのに苛立った赫狼は、後ろ足で虎太郎の脛を蹴った。
「痛っ!」
「さっさと赫狼の首輪を外してあげなさいよ。急かされてるの。気付きなさい。鈍感なんだから」
「ご、ごめん。すぐやるよ。いいかい。赫狼。怪我はさせちゃいけないからな。君が本気を出したら酷いことにな……うわぁっ……!! こら! 赫狼! 後ろ足でわざと砂利を蹴飛ばしたろ!」
(ほんとお人好しのお馬鹿……。適材適所ではあるのだけどね。御庭番の忍衆に必要なのは情報収集だから、そういう適性は私より高い。これが演技だったら最高の芝居。だって、こんな間抜けな虎太郎を見て間諜だとは気付かないでしょ)
自由を得た赫狼が駆け出す。狼奈も山犬の首輪を外した。そして、一言だけ命じた。
「――殺し合え」
赫狼と山犬の目に殺意が宿った。狼奈の声は掠れて、人間の耳には届きにくい。だが、犬の優れた聴覚にはよく響いた。
山犬は威嚇で唸り声をあげた。しかし、血に飢えた赤毛の猛獣は牽制などは行わない。鋭い牙が山犬の首を囓り取った。
「なっ……!?」
勝負は一瞬で決まった。素っ頓狂な声をあげたのは虎太郎だったが、春華も驚いていた。戦えとは命じたし、忍犬の訓練を受けた赫狼ならあれくらいは容易い。
(どう考えても格下の相手でしょ。なにやってんのよ! あの馬鹿犬! 本気で噛んでるじゃない……! あれじゃ戦闘訓練されてるのが丸分かりよ!)
さらに異常だったのは、喉を食い千切られた山犬だ。戦意喪失するどころか反撃で飛びかかった。
(何なの……? 犬達が正気を失っているわ)
獣の生存本能を無視している。命に関わる深い傷を負った猟犬が、逃げもせず戦い続けるはずがない。
春華と虎太郎も気付く。山犬も訓練を受けた戦闘犬だった。赫狼の頭突きが致命の一撃となり、山犬は倒れた。
「勝負ありです。朧姫様。この者達に小判十枚をお支払いします。圧倒的な強さ。殿もお喜びになるでしょう。今より赫狼は妻鹿貴家の猟犬長です」
淡々と狼奈は勝敗を告げる。
負け犬の死体には目もくれず、勝者の赫狼を褒め讃えた。しかし、事態はこれで終わらない。忍犬の赫狼には朧姫を襲えとの命令が与えられていた。
「待て! やめろ! やめるんだ! 赫狼っ!! 僕の言うことを聞け! 聞くんだ!!」
興奮状態の赫狼は虎太郎を無視して駆け出す。御殿の縁側に飛び乗り、御簾を突き破った。
「え? え? きゃっ……!」
標的にされた朧姫は何が起きたのか理解できず、逃げようとして転んでしまった。突然の出来事で使用人達は動けていない。
(赫狼が異常に興奮してる……。あんなのは見たことがないわ。まさか薬でも嗅がされた……!? あれは不味い! もし朧姫が普通の人間だったとしても殺しかねないわ!!)
朧姫に襲いかかった赫狼を止めたのは虎太郎だった。
「虎太郎!」
「分かってる!」
目にも留まらぬ瞬足で、中庭から御殿に駆け上がり、飛びかかった赫狼を蹴飛ばした。
「やめるんだ! 赫狼! うぐぅっ!」
恐慌状態の忍犬は主人の足首に噛み付く、牙が食い込み、肉が抉れる。溢れ出た血が青畳を汚した。
「朧姫様。お逃げください! 赫狼は興奮して我を失っておりま……」
赫狼を必死に押さえ付ける虎太郎は困惑する。朧姫は八歳の幼女と聞いていた。だが、御簾の向こうにいた美姫は、どう見ても妙齢の女性だった。
身体は育ちきっており、大人の象徴である乳房やお尻も豊かで大きい。着物の上から分かるくらいだ。春華より発育が良かった。
「貴方は本当に朧姫様ですか?」
侍女が影武者を演じていた。虎太郎はそう推理した。しかし、慌てふためいた朧姫は奇怪な言い訳をする。
「え? あっ! 私は……えっと……姉の……! ちっ違う……私は一人っ子だから……その……! 母親です!!」
朧姫は嘘や演技が下手だった。
「…………ははおや?」
白銀の美女は朧姫本人で間違いない。なぜ大人の姿をしているのか。簡単な答えは朧姫が人間ではなく、妖怪の類いであるから。しかし、安直には結論付けられなかった。
「そっ! それより! だ、だいじょうぶですか? 足からすごい量の血が……! 狼奈! 早く! 早く何とかしてくださいっ!」
虎太郎を心配している。嘘や演技が下手だからこそ、本心の言葉だと分かる。
「赫狼。私のところに来なさい」
狼奈に命じられた赫狼は大人しくなった。虎太郎が放してやると、まるで狼奈が元からの飼い主であるかのように、尻尾を振って歩いていった。
(様子がおかしいわ。赫狼が初対面の女に靡くなんて……。犬にだけ効く薬? いいえ、違うわ。たぶん、私達と同じで狼奈は忍術使い。おそらく犬を使役できる能力を使ってる。だったら、朧姫は自分の外見を……)
母親を自称した朧姫だが、すぐに破綻する言い訳だと気付いてしまったらしい。父母の代わりに出てきた娘が、実は母だったなんてチグハグだ。
「この方は朧姫の乳母です。申し訳ございません。物騒な時代ですので、影武者を立てて……」
「えっ? 狼奈? 私の乳母は貴方のお母さ……あ、ごめんなさいっ……!」
侍女の取り繕いも盛大に台無しになった。
赤面する朧姫の中身は間違いなく八歳の幼女だった。
「ごめんなさい。信じられないかもしれませんが、生まれつき成長が速くて……。だから、その……えっと……信じてくださいっ! あっ! そうじゃなくて、怪我ですよね! 酷い噛み傷です……! どうしよう。狼奈、どうしたらいいのですか……!?」
「分かりました。まずは姫様、虎太郎殿の止血をしますので、そこを退いていただけますか?」
「あ。……はい。……手伝えることがあれば言ってください」
朧姫は肩を落として、しょぼくれてしまった。狼奈は言いつくろえないと判断したようで、もはや何の誤魔化しもしなかった。
「ありがとうございます。でも、大丈夫。自分の飼い犬に噛まれたようなものですから。それに……とんでもない無礼を……。申し訳ありません」
「いいえ。赫狼は妻鹿貴家の猟犬となってから、虎太郎殿に怪我をさせました。この足では国元まで帰れないでしょう。傷が癒えるまで城に滞在されては? 許可がいただければですが……」
チラリと狼奈は朧姫に目配せをした。
待ちに待った役立つ瞬間が到来し、朧姫は満面の笑みを浮かべた。
「もちろんです! 泊まっていってください! 私の部屋は広いので、虎太郎さんと春華さんの布団も敷けますわ」
「いえ、姫様。客人用の部屋がございますので、虎太郎殿と春華殿はそちらに案内いたします」
「は、はい。そうですね……。そもそも闘犬勝負を持ちかけた私達の落ち度でもありますし……。何より、虎太郎殿は私を助けてくださいました。何年でも泊まっていってください!」
「ありがとうございます。でも、年単位はちょっと……」
大人の身体に八歳児の精神を入れれば、きっとこうなるのだろう。
白銀の美女は聡明な見た目だが、飛び出てくる発言はお転婆娘そのものだった。用心深い春華も毒気を抜かれて、つい気を許してしまいそうになる。
(朧姫は善人かもしれないわ。でも、周りの大人はどうかしら……? 父親の夜叉丸と母親の皐鬼那は? それに、この狼奈って侍女からは血の臭いがするわ)
期せずして妻鹿貴城の長期滞在が決まった。赫狼に右足を噛まれた虎太郎は、怪我が治るまで動けなくなった。
(私や虎太郎も常人にはない特別な力がある。伊賀や甲賀の血脈に秘められた血伝忍術……。もしかすると狼奈は妻鹿貴家に仕える忍……? 警戒しないといけないわ)
虎太郎の怪我は本当に偶然であったのか。春華は怪しんだ。もし狼奈が犬を操れるのなら、赫狼を操ってわざと事故を起こした可能性が高い。
内偵任務を服部半蔵から言い渡されたとき、十年前の話を戒めとして聞かされた。
妻鹿貴之國の内偵任務は、御庭番創設期の十年前にも行われた。送り込まれた忍はいずれも優秀な者達だったが、誰一人として帰ってこなかった。
(お父様、お母様……。妻鹿貴の地に潜む闇は、私達が必ず私が曝いてみせるわ)
消息不明になった忍の中に、春華の父母も含まれている。
柳生一門に匹敵する剣技を誇った伊月佐助。その妻であった伊月白雪は氷結忍法を操り、伊賀忍の筆頭だった。女でなければ幕府は、白雪に御庭番の頭領を任せていたという。
(虎太郎も気を引き締めなさいよ……。この任務は親の仇討ちなんだから……!!)
春華の相方に虎太郎が選ばれた裏事情であった。
虎太郎の父親は、甲賀筆頭の甲原龍太郎であり、妻の甲原沙世子ともども妻鹿貴の内偵任務で消息を絶った。
御庭番の頭領が服部半蔵に委ねられたのは、十年前の任務で伊賀と甲賀の筆頭者が消えてしまったからだ。
両親の名誉を挽回すれば、春華と虎太郎の間に産まれた子供を服部家の養子に迎え、御庭番の頭領にする。徳川将軍と服部半蔵は、伊賀と甲賀の忍び里にそう約束していた。