作品名

蕩け合う世界と、その愛

ペンネーム

太刀魚

作品内容     

 暗黒大陸より新たなる魔王が現れてから、およそ一年。魔王の軍勢は次々と大陸の各地を蹂躙していた。
 町や村を焼き払い、抵抗する者は皆殺しにされるか、奴隷として死ぬまで働かされる。人々は絶望し、恐怖に震えていた。
 だが闇あるところ、必ず光が射す。闇に覆われんとするこの世界に、希望の光を灯す者達がいた。
 光の主神の加護を受けし、神聖護国教会の聖なる騎士達。闇の恐怖に負けぬ勇気を持ち合わせた、気高き神の僕。
 彼らは剣を取り、盾を掲げ、人々を守るために戦い続けていた。

 * * *

 王国辺境部の南端、とある小さな町。
 周囲を森に囲まれながらも肥沃な土地に恵まれ、国内外でも有数の穀倉地帯として知られていた。魔王が出現するまでは。
「酷いもんだ……」
 無惨に破壊され尽くした町の様子を見て、一人の青年が呟く。
 彼の名はカイル。教会に所属する若き騎士だ。まだ十代と若いが、その剣の腕は一流で教会からも将来を嘱望されている。濃いグレーの短髪に、教会騎士の白い鎧と臙脂色のマントを身につけた姿は凛々しく、琥珀色の瞳に宿る意志の強さを感じさせる。
「本当ね……魔王軍の連中、絶対に許さない!」
 カイルの傍らには、燃えるような赤髪をポニーテールに束ねた少女がいた。
 彼女の名はレナ。カイルと同じく教会騎士の一員であり、互いに背中を預けて戦うことのできる相棒だった。細身ながら引き締まった身体つきをしており、腰に差したバスタードソードを自在に振るう腕力もある。性格も真っ直ぐで正義感が強く、他の教会騎士達からの信頼も厚い。
 二人は今、町の広場にいた。魔王軍の襲撃を受ける前までは市場が開かれていた賑やかな場所だったが、今は見る影もない。辺り一面瓦礫だらけだ。
 特徴的なのは、それらの瓦礫が砕かれたり斬られたりしているのではなく、一部が溶かされてドロドロになった跡があることだ。それはこの町を襲った魔物の正体を如実に物語っていた。
「スライムの大群か……厄介だな」
 カイルが苦々しげに言う。
 スライム。遥か海を越えた東方では最弱種の代名詞として扱われていると聞くが、実際のスライムは非常に手強く恐ろしい魔物である。
 不定形の肉体は物理攻撃を一切受けつけず、唯一の弱点であるスライムコアにも魔力による攻撃でなければダメージを与えられない。さらに魔力が続く限り再生、分裂、増殖を繰り返し、際限なく襲いかかってくるのだ。
 強力な消化液を吐き出し、この町のようにあらゆるものを溶かしてしまう。例え何らかの対策で消化液を無効化できたとしても、一度スライムの体内に飲み込まれてしまえば「窒息」という確実な死が訪れることになる。いかに屈強な騎士であろうと、増殖したスライムに物量で押し潰されてはひとたまりもないだろう。
 今のところ周囲にスライムの姿はないが、僅かな隙間さえあればどこからでも襲ってくる可能性はある。油断はできない。剣を構えつつ、二人は慎重に広場を進んでいった。
「そっちの様子はどうだった?」
 広場の中心、グニャグニャに溶けた噴水の近くで二人の騎士がカイル達を待っていた。
 一人は大柄な体格をした男の騎士。年齢は二十代前半ばといったところ。短く刈り上げた金髪と日に焼けた肌が特徴的で、全身から鍛え抜かれた鋼のような重厚さを放っている。ただし鎧の上に纏ったローブと右手の長杖が示す通り、彼は剣士ではなく術士であった。
 名はマクシム。術士に似合わぬ腕っぷしの強さから「教会の拳者」などと渾名されているが、本人はそれを気に入っているようだ。今も堂々たる態度で、彼の後ろに控えるもう一人の騎士を守るように立っていた。
 そのもう一人は小柄な少女騎士だ。カイルやレナと同年代に見える彼女は、長い濃紺の癖毛を三つ編みにして左肩に掛けていた。分厚い眼鏡で表情はよく見えないが、猫背気味の姿勢も相まって、どこか頼りなさげな雰囲気がある。
 彼女の名前はグレース。マクシムと同じく術士だが、攻守万能のマクシムと違い、敵の能力を低下させる、所謂デバフ魔法に特化したタイプだった。
「ダメだ……生存者は見つからない。どこもかしこも壊滅状態だ」
 カイルの言葉に、マクシムも同意するように小さく首を振る。
「この様子だと恐らく全滅だろうな。町の外に逃げ延びた住民もいないはずだ」
「そんな……」
 絶望的な状況にレナは思わず息を呑む。
 彼らが所属する教会の支部に魔王軍襲撃の報せが届いたのは今日の未明のこと。直ちに夜勤担当だったカイル達四人が町へと急行したのだが、明け方になって到着した時には既に全てが終わっていた。
 小さな町ではあるが、自警団が組織され、教会騎士も常駐していた。にも関わらず、わずか数時間足らずで滅ぼされてしまったという事実にカイル達は言葉を失った。
「ザコの仕業じゃないよな」
「ああ。間違いなく上位種だ。それも、もしかしたら複数体……」
 カイルの問いに、マクシムは厳しい顔つきのまま答えた。普段の彼からは想像できないほどの緊張感と焦燥感が表情にくっきりと刻まれている。
 その時、背後で何かの気配を感じ取ったカイルは、素早く振り返りながら剣を構える。
 いつの間にか、彼らの周囲には十数体のスライムが忍び寄っていた。地面や瓦礫の隙間から滲み出るように次々と、真っ黒な粘液状の肉体を震わせながら現れる。いずれも体長一メートル前後。通常のスライムと比べてかなり大きい。
「ブラックスライム……随分と手厚い歓迎をしてくれるじゃない」
 レナは腰に差していたバスタードソードを抜き放つ。白銀の刀身に刻まれた魔法文字が青白く輝き、剣全体に淡い光が宿った。
 スライムは保有する魔力量によって体色が変化するため、外見からある程度の強さを判別することができる。魔力が弱いほど透明に近くなり、逆に強い個体は黒く染まる。
 つまり、今彼らの目の前にいるスライムは、間違いなく最上級クラスの魔物ということだ。
「やらせるかよッ!」
 先陣を切ったのはマクシムだ。長杖を振りかざし呪文を唱える。
「エネルギーボルト!」
 杖の先端に埋め込まれた赤い宝石から光の矢が放たれ、数匹のスライムを貫いた。初歩的な攻撃魔法だが、熟練の術士が使えば十分な威力を発揮する。魔法は全てのスライムコアを正確に射抜き、一撃で霧散させた。
 しかし、まだまだ敵は残っている。
「カイル! レナ!」
「「オーケー!」」
 マクシムの指示に従い、二人が左右に展開する。剣士である彼らは魔法を使えないが、主神より聖なる祝福を受けた武器ならばスライムを切り裂くことができる。
 カイルが両手で構えたツーハンデッドソードに聖なる力が灯り、光を放つ。一気に間合いを詰め、振りかぶった刃を叩きつけた。
 だが、スライムはそれこそ水を叩いたようにぬるりと身をかわし、カイルの斬撃を容易く回避する。反対側から飛び出したレナの剣も同様だった。
「速い!」
「やっぱり普通のスライムじゃない……!」
 ブラックスライムの動きは、これまで彼らが何千と倒してきたどのスライムよりも俊敏であり、滑らかな動きでカイル達の攻撃を悉くかわしていく。
 さらに後方のスライムが今度は自分達のターンとばかりに、たっぷりと消化液を滴らせた体の一部を切り離して飛ばしてきた。咄嵯にバックステップで回避した二人は、そのままスライムから距離を取る。
 消化液が触れた地面がジュワッと音を立てて煙を上げるのを見て、二人は唾を飲み込んだ。いかに主神の加護を授かった聖なる鎧といえど、まともに喰らえば無事では済むまい。
 だが彼らに恐れはなかった。レナは力強く前を見据えながら背後に声を投げる。
「グレース! まだ?」
「う、うん……もうちょっと!」
 積み上がった瓦礫の陰から、グレースの声が聞こえてくる。彼女の魔法は発動まで時間がかかるうえ、呪文の詠唱中は無防備だ。それまでは戦えない術者を守りつつ、持ち堪えなければならない。
 ほどなくして、グレースが差し上げた杖の先端で紫色の魔法陣が輝いた。
「スロウダウン!」
 魔法陣から魔力の鎖が飛び出し、スライムの群れに絡みつく。その瞬間、スライムの動きが目に見えて鈍くなった。
「「今だ!」」
 カイルとレナが同時に駆け出す。見事な連携で瞬く間にスライムを駆逐していった。
「よぉし! お前ら下がれ!」
 マクシムが大声で叫ぶ。その頭上には巨大な光球が浮かび上がっており、バチバチと火花を散らしている。
「ホーリーボール!」
 杖を振ると同時に凝縮された光の玉が発射され、残ったスライムに直撃した。凄まじい爆発が巻き起こり、周囲の地面や瓦礫が吹き飛ばされる。やがて土埃が晴れると、そこには大きなクレーターだけが残されていた。
「ふう……なんとかなったか」
「さすがだね、マクシム」
「いや、お前らもよくやってくれたぜ」
 マクシムがニッと笑って親指を立てる。すると、背後に隠れていたグレースが怖ず怖ずと顔を出した。
「あ、あの……お疲れ様でした」
「うん。助かったよ、グレース」
 カイルが微笑みかけると、グレースも緊張を解いて表情を緩めた。
「ねぇ、もうちょっとテキパキ魔法を使えないの?」
 一方のレナは呆れたような口調で言った。
 今の戦闘中、グレースはずっと隠れていたのだ。攻撃にしろ防御にしろ、彼女は自力で敵を倒し、身を守る魔法が使えない。いくら後衛とはいえ、あれでは前衛である自分達ばかり負担を抱えてしまう。
「す、すみません……」
「レナ、そんな言い方はないだろ。彼女だって頑張ってくれたんだ」
 カイルは咎めるように言うが、レナは納得いかない様子で鼻を鳴らす。グレースはますます萎縮してしまったようで、俯きながら黙ってしまった。
 マクシムは苦笑して肩を竦めると、場を切り替えるかのようにパンッと手を叩いた。
「とにかく、ここを襲った魔王軍は俺達だけじゃ手に負えなさそうだ。急ぎ教会に戻り、増援を要請しよう」
 マクシムの提案に全員が頷き、町の出口へ向かおうとした、その時。
 突然、地面が大きく揺れ始めた。
「なっ! 地震か?」
「ち、違います! これは……!」
 カイルとレナが戸惑った声を上げる。しかし、マクシムとグレースは即座に理解した。強大な魔力が急接近してきていることに。
 地面が割れ、現れたのは漆黒の巨腕だった。人間の胴体ほどもある五指が大地を掴み、地響きと共に這い上がってくる。続けて二本、三本と新たな腕が姿を現し、あっという間に六本もの黒い腕が地中から突き出した。
「おいおい……冗談だろ」
 マクシムが額に汗を浮かべながら呟く。視線の先には、全長十メートルを超える異形の魔物がそそり立っていた。
 蜘蛛のような、中央の球体から六本の巨腕が生えた外見。真っ黒なその肉体は不定形の粘液状で、心臓の鼓動のように不気味に脈打っている。
 この魔物こそがブラックスライムの親玉であり、つまりはこの町を滅ぼした張本人なのだろう。圧倒的な威圧感に、カイル達は息をすることすら忘れて立ち尽くしていた。
 戦慄する一同の前で魔物の中央部が盛り上がり、人間の上半身のような形になる。頭部に当たる部分に顔らしきものが浮かび、ニタリと裂けた口を歪ませた。
「グググ……我が分身を寄せつけぬとは、人間にしてはなかなかやるではないか……」
「しゃ、喋った……?」
 レナが愕然と目を見開く。これほど巨大なスライムも、言葉を操るほど知能の高いスライムも見たことがない。
 吟遊詩人が語る英雄譚にしか存在しないと思っていた、伝説ともいえる怪物……グレータースライム。それが今、目の前にいる。
「貴様は何者だ?」
 一歩前に踏み出し、マクシムが問いかけた。突き出した杖の先には魔力の波動が練られ、いつでも攻撃できる態勢を整えている。
 だが、グレータースライムは意に介した様子もなく、平然と答えた。
「我が名は「不滅」のドルボッグ! 偉大なる魔王魔より、ここ南方辺境侵攻の総指揮を任されし者である!」
 誇らしげに名乗りをあげたグレータースライム――ドルボッグは、その巨体をブルリと震わせて大きく吠える。
「魔王様の敵に、死を!」
 言うやいなや、ドルボッグの六本の腕が一斉に振るわれる。
「ちぃッ!」
 マクシムが咄嗟に防御魔法を展開した。眼前に輝く魔法陣と不可視の障壁が展開されるが、ドルボッグの腕はあっさりとそれを打ち破った。
「ぐああっ!」
 衝撃に耐えかねたマクシムの身体が吹き飛ばされる。すぐさま体勢を立て直したが、鍛えあげた肉体を持つ彼でなければ今の一撃で戦闘不能になっていただろう。
「マクシム!」
 カイルは叫ぶと同時にドルボッグへと斬りかかる。だが、その剣は簡単に弾かれてしまい、全くダメージを与えることができなかった。スライムを斬りつけたとは思えないほど硬い感触に、カイルの手はジンと痺れる。
 次いで、ドルボッグの巨体から大量の溶解液が噴き出した。カイルとレナは即座に回避行動を取るが、豪雨のように降り注ぐ溶解液は避けきれない。二人の鎧が煙をあげ、ジュウジュウと焼けるような音と悪臭が漂った。
「エネルギーハンマー!」
 後方からマクシムの呪文が放たれ、光の槌がドルボッグの胴体に直撃する。連射や広範囲攻撃では意味がないと一点突破を狙った強力な一撃だったが、それすら身体の一部を削っただけに終わった。
「グハハハ! 効かぬぞ!」
「くそっ……バケモノめ!」
 マクシムが顔を歪める。彼の使う魔法の威力は教会でも上位に数えられるのだが、ドルボッグは全く堪えた様子がない。それどころか、わずかに傷が付いた箇所も即座に再生してしまう始末だ。
 前衛の二人は粘り強く戦っているが、このままでは押し切られるのは時間の問題だろう。だが撤退など許されるはずもない。ならば残る対抗策は。
 背後を見やると、息を潜めて呪文の詠唱を続けるグレースの姿があった。彼女のデバフ魔法ならばあるいは……しかし、果たして効果があるだろうか?
 例え魔法が通じたとしても、あの巨体相手に多少パワーやスピードを落とせたところで、戦況が好転するものか?
 疑念と不安がマクシムの脳裏に膨れあがる。その時、グレースがこちらを向いて視線を送ってきた。
「マクシムさん……あと三分、時間を稼いでください」
 グレースの目は不安に揺れていたが、同時に覚悟を秘めた眼差しでもあった。
「なんだと?」
「必ず突破口を開いてみせます」
 震えていながらも揺るぎのない言葉に、マクシムは目が醒める思いだった。うだうだ考えていても仕方がない。勝ち目があろうがなかろうが、今は全ての力を尽くして戦うのみ。
 それにグレースはいつも自信がなさそうにおどおどしてはいるが、自分自身の実力を熟知しており、できないことは決して口にしない。彼女が「できる」というのなら、それに賭ける価値は十分にあった。
「了解した……やってやろうじゃねえか!」
 マクシムは強く握った杖を掲げ、先端の宝玉を輝かせた。魔力が解き放たれ、何十発もの光の矢となってドルボッグに降り注ぐ。
「グハハ……ヤケになったか? いくら手数を増やそうが、儂には効かぬわ!」
 全身にエネルギーボルトの乱れ打ちを受けながらも、ドルボッグは全く意に介さない。弾き返すこともせず、嘲りながらされるがままになっている。もっとも、エネルギーボルトに穿たれた穴は数秒と待たずに塞がってしまうのだが。
 カイルとレナは一瞬面食らったものの、すぐに目配せして頷き合うと再び攻勢に出た。
 どれだけ窮地に立たされようと、マクシムは自暴自棄に陥るような騎士ではない。そのことは長く共に戦ってきた二人もよく知っている。この攻撃には必ず意味が有るはずだと信じて、ひたすらに剣を振るう。
「グッハハハ! 無駄なことよ!」
 三人の連携による怒涛の攻撃を、ドルボッグは高らかに笑いながら受け止め続ける。だがマクシムの狙いはまさに、このドルボッグの油断を誘うことにあったのだ。
 そして、その時が訪れる。
 グレースの杖が一際強く輝くと、彼女の頭上に巨大な魔法陣が出現した。先程のものよりも遥かに大きく、複雑に描かれた紋様。迸る魔力は大気を震わせ、地面を焼き焦がす。
「グゥッ……な、なんだ……この力は!」
 ドルボッグが狼狽えたように身を強張らせる。さらにはカイルとレナも、あまりの魔力の密度に思わず攻撃の手が止まった。
「マジックジャマー・マキシマム!」
 凄まじい轟音と共に、ドルボッグを中心とした周囲が目も眩むような光に包まれた。楔のように分裂した魔法陣が次々と突き刺さり、漆黒だった巨躯は徐々に色褪せていく。
「な……なぁにぃいい? か、身体が、動かぬ!」
 巨腕の一本を振り上げる動作すらままならず、ドルボッグは驚愕の叫びをあげた。
 マジックジャマーは対象の力や動きではなく、魔力の流れを妨害し、封じ込める魔法である。
 そしてスライムにとって魔力は生命線であり魂そのもの。魔力を失ったスライムはただの物質へ還るしかない。グレースが行ったのは、まさに必殺の一撃だった。
「今です! みんな!」
「「「了解!」」」
 カイルとレナが同時に駆け出す。マクシムも杖を振り回しながら追撃の魔法を放った。
「ぐおおぉお! 儂が! こんな……バカな……!」
 一瞬の隙もなく撃ち込まれる連撃に文字通り身体を削り取られ、ドルボッグは絶叫する。再生力も消えてはいないものの、明らかに速度が落ちており、受けるダメージを相殺しきれていない。
「行ける……このまま押し切るんだ!」
 カイルが叫ぶ。ついに形勢は逆転し、勝利が見えた瞬間であった。
「調子に乗るなよ人間風情がぁあ!」
 だがドルボッグとて、魔王軍幹部の座を預かる最上級の魔物。このまま黙って倒されるはずもない。地獄から響くような雄叫びをあげると、その巨体が高々と持ち上がった。
「まとめて押し潰す気か? 皆、離れろ!」
 マクシムの号令にカイルとレナは後方へ飛び退いた。マジックジャマーを受けたドルボッグの攻撃スピードは遅く、二人とも余裕をもって安全圏まで退避する。
 しかし、ドルボッグは構わず全身を地面に叩きつけた。大地が揺れ、土煙と轟音が巻き起こる。まるで地震のような衝撃だが、カイル達に被害はない。
 すぐさまマクシムが魔力の波動で粉塵を吹き飛ばす。その先にいるドルボッグは地面にめり込んだまま静止していた。ヤケクソの暴走か、とマクシムが眉を顰めた瞬間、彼の背後を真っ黒な影が覆った。
「きゃあああっ!」
 直後に響くグレースの悲鳴。慌てて振り返ると、ドルボッグの巨腕によって締めあげられているグレースの姿があった。
 ドルボッグは地面に激突すると同時に身体の一部を地中へ潜らせ、グレースの真下まで伸ばしていたのだ。完全に虚を突いた奇襲に、カイルもレナも反応が遅れてしまった。
「グッハハハハ! まずは一匹!」
 グレースを捉えた巨腕を持ち上げ、ドルボッグが高笑いする。どうにか逃れようと藻掻くグレースだが、ただでさえ非力な彼女では抗いようもない。あっさりとスライムの体内へと飲み込まれてしまった。
 マジックジャマーの影響で色褪せ、透けて見えるドルボッグの内部で、グレースが苦しげに呻きながら手足を振り乱している。喉の奥からゴボッと空気の泡が漏れた。
「グレース!」
 カイルが叫ぶと、ドルボッグは愉快そうに笑みを深めた。
「貴様ら人間は空気を吸えねば生きられん……まったく脆弱な生き物よのぅ! このままじっくりと、骨も残さず喰らい尽くしてくれようぞ!」
 ジワジワとグレースのローブが溶かされていく。優秀な術士は強い魔力の膜で身を守ることができるが、それでもグレータースライム相手では僅かな時間稼ぎにしかなるまい。
 さらに最悪なことに、グレースが捕らわれたことでマジックジャマーが解除され、封じられていたドルボッグの能力が復活してしまった。
「グレース! 今助ける!」
 懸命に斬りつけるカイルだが、防御力と再生力を取り戻したドルボッグには傷一つ与えられない。レナも加勢するが、再び不落の城砦と化したドルボッグは余裕の態度で二人の攻撃を受け止める。
「マクシム! どうにかできないの?」
 レナが叫ぶが、マクシムは険しい表情で首を横に振った。
「無理だ……魔法で助け出そうにも半端な威力では跳ね返されるだけだ。かと言って威力を上げ過ぎればグレースも巻き込んでしまう」
「そんな……!」
 再度の形勢逆転。打つ手なし。まさに絶体絶命の窮地である。カイルは絶望感に歯噛みしながら、それでも諦めずに剣を振るう。
 マクシムとて、このままグレースを見捨てるつもりなど毛頭ない。絶望を振り払う起死回生の一手を求め、必死で脳を回転させる。
「何か……何か方法はないのか? グレースを救い出す方法は……」
 ブツブツと呟きながら戦場を見渡すマクシム。
 その時、彼の目に留まったのは、ドルボッグの体内で必死に抵抗を続けるグレースの姿だった。既にローブはボロ切れ同然となり、下に着込んだ鎖帷子までもが溶かされようとしている。
 息苦しさと死の恐怖に震えながらも、手に握った杖を真っ直ぐに構えている。そして、その杖の先端で光る魔法陣に気づいたマクシムは、ハッと目を見開いた。
「そうか……あの魔法なら!」
 マクシムは即座に杖を構え直すが、呪文を唱えようと開いた口はまたすぐに閉ざされ、一瞬の逡巡を見せた。
 この方法なら確かにドルボッグにダメージを与え、上手く行けば今度こそ完全に倒すこともできるかもしれない。しかし一歩間違えば、グレースの命をも奪いかねない諸矢の刃だった。
 だが迷っている暇はない。グレースはもう限界に近い。これ以上の躊躇は彼女に対する侮辱になる。マクシムは覚悟を決め、ドルボッグの前に躍り出た。
「何をするか知らぬが無駄なことよ! 貴様らを待つ運命は、死、のみ!」
 嘲笑い、巨腕を振り上げるドルボッグ。その眼前で、不敵な笑みを返したマクシムは杖を高々と掲げる。
「それはこっちのセリフだ……教会騎士の覚悟を舐めるんじゃねぇ!」
 そして、マクシムは叫んだ。
「シャイニングスパァアアーク!」
 次の瞬間、マクシムの絶叫と共に放たれた閃光の電撃が、ドルボッグの巨体を「内側から」容赦なく焼き尽くした。
 ドルボッグが飲み込んだグレースが持つ杖を放出点として、スライムの体内を駆け巡って蹂躙していく。
「グゥオオオオオオオオオ! な……何が起こっている?」
 スペルポータル。二人以上の高レベル術士が協力しなければ使えない高等魔法。
 互いの間に魔法を移動させる「門」を作り出し、離れた場所からでも魔法攻撃を行えるという、まさに切り札とも言うべき大技である。
 ただしマクシムの放った魔法は、同じ体内に捕らわれているグレースをも攻撃し、下手をすればドルボッグより先にグレースを死に至らしめてしまうだろう。
 それでも止めるわけにはいかなかった。他ならぬグレース自身が望んだからだ。
 この命に代えてでも、必ずドルボッグを倒すのだと。
「馬鹿なッ……儂が、こんな、人間に……!」
 ドルボッグの絶叫が響き渡る。全身を駆け巡る聖なる電撃にスライムの身体がボコボコと波打ち、黒煙を立ち昇らせていく。
「がぁあ……こ、これ以上は……!」
 内側から裂けては崩れていく肉体の苦痛に耐えかね、ついにドルボッグはグレースを吐き出した。カイルとレナが慌てて落下地点に駆けつけ、グレースの身体を受け止める。
「がはっ! う……げほっ……!」
 グレースが咳き込み、スライムの塊を吐き出す。かなりの量を飲んでしまっていたらしく、しばらく嘔吐が止まらなかったが、呼吸は少しずつ落ち着いていく。
 装備はほとんどが溶かされて残っておらず、日焼けしていない白い肌は、消化液によって焼かれた痛々しい火傷があちこちに刻まれていた。
 だが命に別状はないようだ。カイルは安堵の息を漏らしながら、裸同然のグレースの身体に自分のマントをかけてやる。
「おのれ……おのぉれ……人間どもがぁ……」
 グズグズに崩れていく身体を引きずりながら、ドルボッグは怒りと屈辱に声を震わせた。無事な部分をかき集め、這いずるようにひび割れた地面の隙間へ潜り込ませる。
「あいつ、逃げる気よ!」
 ここで逃がすわけにはいかないとレナが血相を変えて剣を振るが、ドルボッグも死に物狂いで残ったスライムを盾にして抵抗する。
 崩れかけているとはいえ、ドルボッグの巨体はまだまだ小高い丘ほどもあった。その中からスライムコアの場所を探し出して破壊するのは容易なことではない。しかもスライムによる妨害のおまけ付きだ。あと一歩だというのに、その一歩が遥か遠く見える。
「グハハ……よくぞ儂をここまで追い詰めた! 貴様らの健闘に敬意を表し、今は勝負を預けてやる! また会おうぞ!」
 悪足掻きの捨て台詞を吐きながら、ドルボッグは地中に姿を消しつつあった。あと数分もすれば完全に逃げ切られるだろう。
「いいや! 俺達の勝ちだ!」
 不意に響き渡った声に、ドルボッグを含めた全員の視線が集中する。
 そこには杖を構えたマクシムの姿があった。先端の宝玉から一筋の光が伸び、ドルボッグの身体の一点を指し示した。
「な……ッ! 貴様なぜこの場所を!」
 ドルボッグが驚愕の叫びをあげる。その場所はまさにスライムコアが存在している急所であった。
 マクシムほどの術士ともなれば、自分が放った魔法が相手に対してどのように影響を与えているか……魔力の流れや密度、魔法の効果がどこまでどの程度届いているかをリアルタイムで把握することも不可能ではない。
 彼はずっと探っていたのだ。傷つくことを厭わないスライムの肉体の中で、魔法の威力が遮られている場所を。唯一、決してダメージを受けてはいけない場所を。
「レナっ!」
「うんっ!」
 カイルの声にレナが力強く答える。剣を掲げ、残されたありったけの力を刃に込める。同時に駆け出し、地面を蹴る。
「「セイントブレード……クリスクロスッ!」」
 閃光の白刃が十字の軌跡を描いて天高く煌めき、狙い違わずスライムコアを切り裂いた。
「アッバァアァアアァアアア!」
 断末魔の叫びが轟き、破れた水風船のようにドルボッグの身体が爆ぜた。周囲一面に吹き飛んだスライムの破片はもはや消化力もなく、灰のようになって崩れ落ちていく。
「バカな……この儂が! このドルボッグが! こんな、人間どもにぃいぃい!!」
 最後に残った人形の頭部が無念の叫びをあげるが、それも溶け落ち、地面へと染み込んでいく。
「だ……だが、これで終わりと思うなよ……! 我が「不滅」の恐ろしさ……いずれ貴様らは知る、だろ、う……!」
 怨嗟のこもった呪いの言葉を残し、やがてその気配は完全に消え失せた。
「倒した……の?」
 肩で息をしながら、レナが呆然と呟く。カイルもマクシムも答えを返すことはしなかった。あまりに激しい戦いに全員が消耗し尽くしていたのだ。
 だが確かに倒したのだ。恐るべき魔王軍幹部の一角を。
「やった……やったんだ! 俺達が、魔王軍幹部を倒したんだ!」
 真っ先に喜びの声を上げたのはカイルだった。それにつられて、他の面々の表情にも明るさが戻る。誰も彼も傷だらけでボロボロだが、心は晴れやかだった。
 グレースがゆっくりと身を起こそうとするが、体力も魔力も尽きたようで、起き上がることもままならない様子だった。ぐらりと倒れ込みそうになったところを、カイルは慌てて駆け寄り受け止める。
「グレース!」
 背中を優しく擦ってやると、グレースは苦しげに微笑んだ。
「カイルさん……ありがとうございます」
 力なく微笑むグレースの頬にカイルはそっと手を添えた。ドルボッグの体内で溶かされかけたせいか、その肌はまだ熱を帯びており、汗でじっとりと湿っていた。
 身体を起こした時に開けたマントの隙間からグレースの豊かな胸が垣間見え、間髪容れずレナがカイルの耳を思いっきり引っ張った。
「い、いだだ! な、何すんだよ!」
「何じゃないよ! 今変なこと考えてたでしょ!」
「はぁ? 何の話だよ!」
 ぎゃいぎゃいと騒ぐカイルとレナの後ろからマクシムの咳払いが聞こえ、二人は慌てて口を塞いだ。
「バカやってないで、さっさと戻るぞ。グレースの手当てもしなきゃならんしな」
 マクシムはグレースを横抱きに抱え、町の門へ向かって歩き出す。カイルとレナも後に続いた。
「幹部を倒したんだから、あたし達、金一封とかもらえるかな?」
「おい、レナ。俺達は金のために魔王軍と戦ってんじゃないだろ」
「はいはい、アンタは相変わらず真面目ねぇ。そこが良いとこだとは思うけど、ちょっとは他の楽しみも考えないと、そのうち疲れるわよ」
 決して表情を緩めないカイルに、やれやれと肩を竦めるレナ。その様子を横目で見ながらマクシムは溜息をつき、彼に抱えられたグレースもまた、どこか楽しげな微笑みを浮かべる。
「皆、一日も早く全ての魔物を駆逐して、絶対に平和な世界を取り戻そう!」
 カイルが剣を天に突き上げると、三人もそれに倣って高らかに応える。合わさった四本の剣と杖が、一同の意志の固いことを表すかのように、朝日を浴びて鮮やかに輝いた。

 * * *

 商業都市メルカント。
 辺境の地でありながら、主要な街道の中継地点に位置する交易の要衝として栄えるこの都は、今日も多くの行商人や旅人で賑わっている。
 海に面した港を有し、この地方に流通する交易品の多くはメルカントを経由して各地に運ばれていく。宿屋や酒場も数多く軒を並べ、仕事を求める者や一儲けを狙ってやってくる冒険者などで、昼夜を問わず賑わっていた。
 メルカントの中央を貫くメインストリートは開放感のある美しい景観で、都市評議会や冒険者ギルドなどの重要施設が連なっている。その中でも一際目を引く荘厳な建物が、神聖護国教会のメルカント支部であった。
 壁は純白に磨きあげられ、熟練の職人が手掛けたステンドグラスが各所に飾られた外観は見る者に神々しさを感じさせる。天に向かって聳え立つ巨大な鐘楼には宝石をあしらった鐘が取りつけられており、正門前広場で人々を見守る主神像は黄金色の輝きを放っていた。
 神聖護国教会は教皇をトップに大陸全土へ根を張る巨大な宗教勢力だ。その歴史は古く、最初の魔王が地上を支配していた暗黒の時代を終わらせた、初代教皇シリオス一世が創設したと伝えられている。以来、教会は人類の平和と繁栄を守護する存在として、人々から篤い信仰を集めてきた。
 教会騎士達は魔王軍から人類を救う勇者たるべく、日夜命懸けの戦いに身を投じている。彼らの勇猛果敢な姿は吟遊詩人の歌や歌劇の題材として広く知れ渡り、人々の心に勇気と希望を与えていた。
 また人々の営みが安寧に満たされるよう、罪を犯した人間を捕らえ罰する治安組織としての役割も果たしている。主神の教えを広め、正しい信仰を保ち、世界の秩序を維持し守護する。それが教会の使命であった。
 かつてシリオス一世が成し遂げたように、必ずや魔王を打倒し世界に平和を取り戻す。連綿と受け継がれてきた崇高な使命の炎は、今もなお教会騎士達の胸中で燃え続けているのだった。
 鐘楼の鐘が正午を告げる澄んだ音色を響かせる。天使の歌声とも称される美しい鐘の音が大通りを行き交う人々の耳に届くと、彼らはみな足を止め、しばしその余韻に聞き惚れた。
「ほら! 遅いよカイル!」
 正門前中央広場の入口で、レナが大きく手を振っていた。その視線の先には、軽く息を切らせながらこちらへ走ってくるカイルの姿がある。
「そんなに急ぐことないだろ……どの店もまだまだ営業してるって」
「そういう問題じゃないの! ただでさえ休暇は今日一日しかないんだから!」
 頬を膨らませて睨みつけるが、カイルはレナが何を焦っているのか首を傾げるばかり。彼の鈍感さにはほとほと呆れ果てる……レナは内心で独り言ちた。
 昨日、ドルボッグとの死闘を制し、メルカント支部へ帰還したカイル達は、ボロボロの状態ながらもどうにか上層部への報告を済ませた。魔王軍幹部の撃破という快挙に支部を率いる司教は大いに喜び、報奨金は出さなかったものの全員に特別休暇が与えられた。
 これは絶好の機会と、一日中鍛錬しようとしていた騎士道一直線のカイルを「一流の騎士たるもの、休める時にしっかり羽根を伸ばすべし」とレナが丸め込み、強引に連れ立って遊ぶ約束を取りつけることに成功した。
 本当は朝一番に出かけるつもりだったのだが、昨日の報告後、貪るように飯を喰らい、ベッドにぶっ倒れて泥のように眠りこけ、目覚めると既に昼前。大慌てで準備を済ませ、今に至るというわけだ。
 レナは逸る心を抑えながら、改めて自分の服装を見下ろす。フリルの付いたボリューム袖の白いブラウスに、ティアードのロングスカートはシックなモノトーン柄。
 普段はショートパンツにシャツ一枚というラフスタイルで通しているレナも、今日ばかりはお洒落に力を入れている。動きづらい踵の高いミュールを履いてきたのも、少しでもカイルに可愛く見られたいからだ。
 いつもは括っている髪も下ろし、ほんのり化粧も施した。自分なりに精一杯の気合いを入れた、いわば最終決戦用装備なのだが、肝心のカイルの反応が薄すぎる。少しはドギマギするなり、照れるなりしたらいいのに。
 頭を開けたら正義感しか詰まっていないような男なので、仕方ないといえば仕方ないのだが……ちょっとくらいは褒めて欲しいのが乙女心というものだろう。
 まったく面倒な相手に惚れてしまったものだ。レナは心の裡で深く溜息を吐いた。
 まぁいい。壁にぶつかったら全力でぶち破るのが自分の流儀。その壁が高く分厚いほど、突破した時の達成感は格別だ。挑む前から諦めるレナではない。
「よしっ! じゃあ行こっか、カイル!」
 レナは気持ちを切り替えると、カイルの腕に自分の腕を絡めた。
「おい、歩きにくいって」
 さっぱり意図を理解しないカイルの文句など聞こえないフリをして、そのまま歩き続ける。レナの心臓は早鐘のように高鳴り、口元が緩むのを抑えられないでいた。

 * * *

 広場からメインストリートへ続く通路に沿うように、教会騎士の住まう宿舎が建てられている。その三階部分の窓から、グレースはぼんやりと眼下の広場を見下ろしていた。
 ドルボッグとの戦いで受けた傷は浅くないが、強い魔力を持つグレースは治癒力も高く、一晩寝ればほとんど回復していた。消化液にやられた皮膚も綺麗に元通りになっているし、身体の内にダメージが残っている様子も感じない。
 ただ、それとは別の理由で心は沈んでいた。視線の先ではレナがカイルを引きずるようにして、メインストリートへと駆けていく。いつもよりお洒落に気合が入っているレナの姿が、遠目からでもよく分かる。
「……いいなぁ」
 ぽつりと零れた羨望の言葉は、誰に聞かれることもなく窓の外へと消えた。本当は自分だって、想いを寄せる相手と二人きりで遊びに出かけたかった。だけど自分なんかが誘ったところで迷惑にしかならないし、そもそも相手にさえしてもらえないこともよく分かっていた。
 グレースは大きく溜息を吐きながら、髪の先を指で弄ぶ。元々頑固な髪質のうえに三つ編みの癖が付いた髪はボサついていて、指を通せばすぐ引っ掛かる。三つ編みにしているのも、束ねておかなければ量の多い髪が邪魔で鬱陶しいからというだけだ。
 世間の全てがそうではないのだろうが、やはり自分のような髪より、真っ直ぐでサラサラな髪の方が綺麗だし、可愛いと思われることが多いのには違いない。
 前髪も目にかかりそうなほど長く伸びており、全体的に野暮ったい印象だ。おまけに目の下にはうっすらと隈までできている始末である。こんな自分が振り向いて貰えるわけがない。
 元より成就を期待してはいないものの、やはりこうも辛辣な現実を見せられると落ち込みたくもなるというものだ。
「はぁ……」
 グレースは再び溜息を吐くと、窓から離れベッドへと身を投げる。もうこのまま不貞寝でも決め込んでしまおうかと思い始めた時。
「浮かない顔だな」
 不意にかけられた声にビクリと身を震わせる。振り返ると、部屋の扉にもたれかかるようにしてマクシムが立っていた。いつの間に部屋に入ってきたのか、グレースは驚いた様子で目を瞬かせる。
「マクシムさん……何か用事ですか?」
「いやなに、ちょうど通りかかったら、部屋のドアが開いてたからな」
「あ……すみません、閉め忘れちゃってたみたいですね」
 慌ててドアを閉めようとするグレースを苦笑混じりに手で制し、マクシムは彼女の横に並んで窓の外を眺める。
「何を見てた? やけに熱心だったようだが」
「……別に、何でもないです」
 グレースは素っ気なく答えると、視線を床へと落とした。マクシムは暫しの間、無言で考え込んでいたが、やがて徐ろに口を開く。
「なぁ、グレース。お前さんだって、磨けば光る原石だと思うぞ」
「え……」
 唐突な言葉に驚き、グレースは隣のマクシムを見上げた。彼はいつもと変わらぬ飄々とした態度を崩さず、顎を撫でると言葉を続けた。
「派手な美人じゃないかもしれんが、俺は嫌いじゃない」
「どういう意味ですか?」
「さて、な」
 とぼけた口調ではぐらかすと、マクシムはグレースの髪をくしゃっと撫でた。
「今日は天気もいいし、のんびり散歩でもしてみたらどうだ? 部屋に閉じこもってばかりじゃ、それこそカビでも生えかねんぞ」
 それだけ言い残すと、彼はひらひらと手を振って部屋を後にした。ドアが閉まる寸前、小さな声で「相手に拘らんのなら、俺でも……」などと呟いていたが、グレースの耳には届かなかった。
「原石……かぁ」
 一人部屋に残されたグレースはぽつりと呟く。お世辞だったのかもしれないが、それでも褒められて嬉しくないはずがない。心がほんの少し、上向きになったような気がした。

 * * *

 レナとカイルがまず足を運んだのは、メルカントが誇る大市場であった。商業都市の象徴とも言うべきこの市場は、日常の必需品から高級嗜好品まで古今東西の品物が揃い、日々新たな商品が運び込まれてくる。
 新鮮な果物や野菜を販売している店もあれば、装飾品や小物を取り扱っている雑貨屋もある。錬金用の素材となる魔石や道具類を揃える専門店に、旅に必要な装備一式を揃えた武具屋。中には怪しげな薬売りや占い師などなど、ありとあらゆる店舗や露店が立ち並ぶ様は圧巻の一言だった。
「ねぇカイル! これ見てよ!」
 レナが目を輝かせながら手に取ったのは「大食い大会開催中! 参加者求む!」と書かれたチラシだ。優勝者には豪華賞品が与えられるらしい。
「参加しようよ。賞金も出るみたいだし」
「お前、俺が大食いできると思ってんのか?」
 カイルはげんなりした表情で答えた。確かに寝坊したせいで今日はまだ何も食べていないが、それでも大食いと名の付くイベントで勝ち抜けるほどの胃袋は持っていない。
「別にいいじゃない。参加費もいらないみたいだし、タダで食べられるんだから」
 レナはチラシをカイルに押しつけると、さっさと歩き出した。カイルは頭を掻きながら渡されたチラシを眺めたが、やがて諦めたように溜息を吐くと、彼女の後を追いかけた。丸めたチラシは無論、きちんとゴミ箱へ投げ入れて。
「うっぷ……もう無理……」
 数十分後、そこにはテーブルにぐったりと突っ伏して唸るカイルの姿が。目の前には空の皿が積み上げられており、大量の料理が彼の胃袋に吸い込まれたことを如実に表している。
「はい、お疲れ様でーす。まだ十人以上残ってますんで、ランク外ですねー」
 進行係の女性がニコニコと笑いながらカイルに告げる。会場では十人どころか、まだまだ三十人以上が人間溶鉱炉のごとく料理を貪り食っている。決してカイルが弱かったのではない。相手が規格外に強すぎたのだ。
 あいつらスライムかよ……と、あまり思い出したくない昨日の死闘が脳裏をよぎり、カイルはげんなりとした表情を浮かべた。ちなみにレナは二皿食べた時点で早々にギブアップしている。
「では参加賞、どれでもお一つ好きなのどうぞー」
 席から立たせられて、会場の隅に案内される。そこには様々な品物が山積みになっていた。どれもそれほど高価ではなさそうなものばかりで、言ってみれば大市場中から集めた余剰在庫のようである。まぁ、無料のイベントに文句は言えまい。そもそもこの大会自体、誤発注で大量に余った食材の消費が目的なのだそうだ。
 カイルは重い腹を擦りながら品物の山を見渡す。正直、興味を引くような物は見当たらなかった。しばらくぼんやり眺めていたが、やがて目に留まったものを持ってレナの元へ戻る。
「何もらったの?」
 無言で見せられたのは、白いリボンだった。光沢のある絹で作られており、見るからに手触りが良さそうだ。よく見ると金糸で細やかな刺繍が施してある。
「へぇ、綺麗じゃない。でもリボンなんてどうするの?」
「レナにやるよ」
「えっ?」
 予期せぬ展開にレナは目を丸くした。
「嬉しいけど……なんで?」
「別に、なんとなく」
 カイルはぶっきらぼうに答える。照れ隠しなどではなく本心なのだろうが、今はそれでよしとしておこう。初っ端から思いがけないプレゼントに、レナの気分は上々だった。
「えへへ……ありがとう。大事にするね」
「だから、大袈裟だって」
 気のせいかもしれないが、どこか照れ臭そうなカイルの様子に思わず頬が緩んでしまう。かなり強引だったが誘ってみて正解だったと、レナは心から思った。
 リボンを丁寧に折り畳んで懐に仕舞おうとしたところで、ふと思いついたように手を止める。
「そうだ! カイル、髪結んでよ」
「あん?」
 言うが早いか、レナは自分の後ろ髪をカイルへ差し出した。
 突然のことに一瞬戸惑ったものの、カイルは慣れた手つきで彼女の髪を一つに束ね、最後にリボンで結んでやる。レナの赤髪に、真っ白なリボンはよく映えた。
「これでいいのか?」
「バッチリ! 思ったより手慣れてるじゃん」
「孤児院で小さい子の世話をすることもあったからな」
 へぇと感心すると同時に、初めて聞いたカイルの過去がレナの心をチクリと刺す。
 カイルが家族を失った理由に魔王軍が絡んでいることは間違いない。だとすれば魔王討伐以外は眼中にないような普段の態度も無理からぬ話なのだろう。
「ん、どうした」
 急に押し黙ったレナを訝しんだか、カイルが声をかけた。
「えっ? ううん、何でも」
 慌てて誤魔化すように笑顔を作るが、上手く笑えたかどうか自信がない。そうか、とカイルは特に気にする風もなく、大通りの喧騒へと視線を戻した。
「カイルは……さ、家族とか欲しいと思ったことないの?」
 気がつけば、レナはそんなことを尋ねていた。カイルはキョトンとした表情でレナを見返し、やがて苦笑を浮かべる。
「どうかな。正直言ってよく分からない。今は魔王を倒すことしか考えられないからな」
 カイルは頭の後ろで手を組むと、流れる人混みをぼんやりと眺めながら答えた。
 二人の間の距離がどことなく遠く感じる。今はまだ、この距離を縮めるには早いのかもしれない。だがいつかはきっと、彼が自分の傍で笑ってくれる日を来させてみせる。レナは心の中で静かに誓った。
 その道程は平坦ではないだろう。なにせ、すぐ近くに手強いライバルがいるのだから。
 自分とカイルが一緒にいる時、グレースはいつも一歩引いた位置から眺めているが、彼女の切なげな顔に秘められた想いに気づかないほどレナは鈍感ではない。レナの直感が正しければ、グレースも自分同様、カイルに対して特別な感情を抱いているはずだ。
 グレースは優秀な術士であり、頼れる仲間であり、なにより大切な友人である。できることなら、彼女の恋を応援したいと思う。しかしカイルを譲ることだけは絶対にできない。
 そして恋敵を侮る気も毛頭ない。グレースには自分にはない、極めて強力な武器があるからだ。
 普段はブカブカした格好ばかりしているせいで目立たないが、一緒に入浴したこともあるレナは知っていた。彼女のバストが自分とは比較にならないほど豊満であることを。
 昨日の一件を見る限り、今のところカイルがグレースのそれに関心を示す様子はないが、所詮は男、いつ心変わりしてもおかしくない。
 それに今自分がグレースよりも優位に立てているのは、グレースの性格が引っ込み思案で奥手なおかげでしかない。しかしこの先グレースが積極的になり、自分の魅力を最大限に活用してアプローチを仕掛けてきたらどうなるか、考えただけで背筋が凍る。
 ライバルに先を越される前に、一刻も早くカイルを攻略しなくてはならない。レナは決意を新たに、カイルの腕へと抱きついた。
「カイル、次はあっちに行ってみよ!」
「おい、ちょ……」
 突然の行動に困惑するカイルを引っ張りながら、レナは人混みの中を勇ましく突き進んだ。

 * * *

 大市場の表通りから少し外れた裏通り。どことなく胡散臭さを感じさせる商店ばかりが軒を連ねる一角で、グレースは途方に暮れたようにトボトボと歩いていた。
 マクシムの励ましを受け、せめて見た目だけでも可愛くできないかと一念発起したものの、表通りに立ち並ぶ陽のオーラ溢れる煌びやかな店には気後れしてしまい、少しでも落ち着ける場所を探すうち、いつの間にかこんなところまで来てしまっていた。
 ただでさえ狭い路地を埋め尽くすようにひしめく店に並べられた品々は、どれもこれもが胡散臭いものばかり。魔法薬に呪術具、果ては怪しげな仮面まで陳列されており、これもまた商業都市ならではの光景かと妙な感心さえしてしまった。
 何か使えるものがないかと店先を覗き込みながら歩いてみるが、魔法薬屋の惚れ薬やら、魔道具屋の魅了の魔法書やら、検討にすら値しない品ばかりで目ぼしいものは見つからない。
 と言うか、そもそも自分は着飾るための服を買いに来たのだと思い直し、女性向けの服飾関係を扱っているらしき店に入ったものの、目玉商品として飾られていたのは、胸と股間部を申し訳程度に隠せるだけの面積しかない鎧や、ただの紐にしか見えない下着ばかりであった。
 売られている以上は需要があるのだろうが、とてもじゃないが自分には着られそうもない。自分の胸が一般的な同年代のそれより大きいことは自覚しているが、それでもこれはない。第一、こんな格好で迫ったところで誘惑されるような相手ではないことこそ、考えるまでもないことであった。
 それに、どうにか見てくれを取り繕えたとしても、この根暗な性格をどうにかしなければ意味がないだろう……と思考が最初の地点へと立ち戻ってしまう。結局自分は、いつまで経っても変わらないし変われないのだろうか。
 グレースとて、物心ついた時から今の性格だったわけではない。レナのように誰とでもすぐに仲良くなれるほど明朗ではないにせよ、幼い頃はそれなりに友達もいたし、もっと前を向いて過ごせていたように思う。
 それが段々と殻に閉じ籠もるようになっていったのは、やはり教会で術士としての修行を始めたのがきっかけだろう。
 自分に術士の適性が、特別な才能があると分かった最初は素直に嬉しかったし、頑張って修行を積めば、いずれは国中に名前を轟かせる英雄にもなれるかもと信じることができた。
 だが現実は違った。どれだけ過酷な修行に打ち込もうとも、グレースはデバフ系の魔法しか習得できなかった。
 無論デバフ魔法は敵戦力を弱体化させられる有用かつ重要な能力だし、人間よりデバフ魔法を得意とする、闇の眷属たる魔物にも通用する魔法を操るグレースの才能は称賛されて然るべきなのだが、直接的な戦闘力が皆無という短所だけはどうしても覆しようがない。
 正式な騎士となった後も教会内でお荷物扱いされることも多く、そのせいで元々引っ込み思案だった性格が輪を掛けて卑屈になっていったのだ。
 だからこそ、そんな自分に初めて真正面から向き合ってもらえた、あの日の記憶はかけがえのない宝物であり、今も彼女の心に深く刻み込まれている。
 教会での扱いは知っていたはずなのに、グレースのデバフ魔法を「凄い」と言ってくれた。仲間として一緒に戦おうと手を差し伸べてくれた。あの言葉の温かさ、手の温もりは今でもはっきりと思い出すことができる。
 自分はこの場所にいていいのだと、この時ようやくグレースは自分の存在価値を肯定することができた。それ以来、グレースに芽生えた淡い恋心は消えることなく、今日までずっと続いている。
 想いが届く可能性がないことなど分かりきっていながらも、この想いを捨てることだけはどうしてもできないでいた。
「はぁ……やっぱり無理だよなぁ……」
 それでも、流石にそろそろ現実を受け入れなければならない時が来たのかもしれない。叶わない恋なら潔く諦め、友人として傍にいられる関係を目指す方が余程建設的だ。
 溜息を吐くと、肩を落としてグレースは店を後にした。あてもなく裏通りをブラつき、結局何の収穫もないまま表通りへと戻ってくる。
 すると人混みの中によく見知った後ろ姿を見つけ、グレースは足を止めた。
 カイルとレナの二人が、仲睦まじく歩いているところだった。こっちには気づいていないようで、何やら楽しげに談笑している。
 楽しそうに話す笑顔にグレースの胸がズキリと痛む。自分が隣にいたのだとしたら、きっとあんな風に笑ってはくれないだろう。
 どこまでも後ろ向きな思考に嫌気が差し、思い切って話しかけてみようかと、勇気を振り絞って一歩を踏み出そうとして、しかし彼女の足は動かなかった。
 レナの鮮やかな赤髪に結ばれた、白いリボンが目に留まって。
 彼女が出かける時、あんなリボンは身につけていなかった。だとしたら、あの白いリボンはカイルからのプレゼントということになるのだろう。
 カイルの性格からして、何の意味も理由もなくレナに贈り物をするとは思えない。今日まで二人の関係を眺めてきて、まだそこまで親密な間柄ではないだろうと安心していたのに。自分の観察眼が甘かったのか、それともこの短時間で一気に進展したのか。
 いずれにせよ、グレースが入り込む余地など残されていないのは火を見るよりも明らかだ。その事実に直面すればするほど、二人の笑顔が眩しくて仕方がなくて、グレースは逃げるようにその場を走り去るしかなかった。
 裏通りに駆け込み、大市場から遠ざかるように走り続ける。
 どれだけ走っただろう、元より乏しい体力が尽きてグレースの足が止まるまで、それほど時間はかからなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 乱れた呼吸を整えながら周囲を見渡すと、そこは騎士宿舎の裏手だった。今まで何度も通った場所だが、今は妙に寂れて見える。まるでグレースの心を映し出しているかのように、静寂が辺りを包んでいた。
 あまり手入れがされていない伸び放題の雑草に覆われた柱の陰は、一人きりになりたい時のお気に入りスポットだ。なにより、孤独の闇に沈んでいた自分を見つけてもらえた思い出の場所でもある。
 だが今は、その思い出さえも心を締めつける枷になっていた。いっそ全て忘れることができたなら、どれだけ楽になれるだろう。
 グレースは壁にもたれかかりながらズルズルと地面に崩れ落ちる。前髪で顔を隠すようにして項垂れ、膝に顔を埋めて縮こまる彼女の姿は、まるで捨てられた子犬のようでもあった。
「どうして……私じゃダメなの……?」
 自然と口をついた言葉。一度口に出した途端、堰を切ったように溢れ出す感情は誰にも止められない。止め処なく頬を伝う涙と共に、グレースは今までずっと心の奥底に押し込めてきた本音をぶちまける。
「もうやだ……! どうして私は、こんなに弱くて臆病なの……! 私だって強くなりたい……もう独りぼっちになんかなりたくない……っ!」
 お願い、私を見て。私を一人にしないで……!
 子供のような駄々を捏ねる自分のみっともなさに呆れつつも、それでも心は止まらない。
 その時だった。

 ――力がほしいか?

 不意に何者かの声がグレースの耳に届く。慌てて顔を上げ、辺りを見回すが人影はない。
 空耳かと一瞬思ったが、しかし続いて聞こえた声に、そうではないことを確信する。
「グググ……もう儂を忘れおったか? 冷たい奴よ」
「そ……その声は……! どうしてお前が……?」
 忘れるはずもない。その忌まわしき声はつい昨日、死闘の末に打ち倒したはずの魔王軍幹部、ドルボッグのものだったからだ。
「言ったはずだ……グッグッグ、儂は「不滅」のドルボッグ。コアを破壊した程度で儂を殺せたと思うたか?」
 頭の中に直接響く声。
 だが、そんな馬鹿な。例え最上位級であろうと、コアを失ったスライムが存在を保つことは不可能なはずだ。
「いいことを教えてやろう……儂はコアのみならず、我が肉体全てに魂を宿らせておるのだ。いわば儂そのものが儂のコア……ちっぽけな塊一つ潰したところで、この儂は滅びぬわ!」
「そんな……!」
 言葉を失うグレースに、ドルボッグは高らかに哄笑を浴びせかける。脳に直接響く嘲りに耐えかねて、グレースは思わず耳を塞いで蹲った。だがそれで声が途切れるはずもなく、むしろより強くグレースの中で反響する。
 笑い声が響く度に恐怖と絶望が心を塗り潰していく。倒したはずの強敵が復活してしまったことだけではない。奴の言葉が本当なら、自分は取り返しのつかない状況へと追い込まれてしまったのだ。
「グググ……その通りよ! 儂は今、貴様の身体の中にいるのだ!」
 改めて告げられた事実にグレースの表情が凍りつく。ハッタリだと一笑に付したかったが、皮肉にもこれまでグレースが懸命に学んできた知識がそれを許してはくれなかった。
 スライムはコアを中心に、周囲の魔力を吸収して肉体を生み出す。ドルボッグの全身がコアであるというのなら、肉体が一欠片でも残っていれば、そこから何度でも復活を果たすことができるのだろう。
 だがそれ以上に恐ろしいのは、昨日の戦闘で自分がドルボッグの一部を飲み込んでしまっていたことだ。そして今、ドルボッグは自分の中で意識を保てるほど再生が進みつつある。
「通常ならコア以外からの再生にはもっと時間がかかるのだがな……貴様の魔力は我ら魔物の性質に近いようだ。あと半日もあれば、儂は貴様を完全に取り込めよう」
 ドルボッグの言葉と同時に、グレースの下腹部が大きく脈打った。まるで体内で何かが暴れているかのような苦痛と嫌悪感に呻きながらも、グレースは必死に歯を食い縛り、その感覚を耐え凌ぐ。
「そん……な……」
 考えただけで気が狂いそうだった。魔王軍と戦い平和を守る教会騎士である自分が、よりにもよって魔王軍幹部に身体を乗っ取られるなんて。
 ドルボッグはどこまでも楽しげに笑う。絶望に打ちひしがれる獲物を前に、至高の喜びに浸っているようだ。
 だが、そんな奴の思惑など知ったことではない。腐っても自分は主神の使徒たる教会騎士。平和な世界のために身を捧げる覚悟などとうの昔にできている。
 今考えるべきことはただ一つ。ドルボッグが完全復活する前に、今度こそ肉体の欠片も残さず消滅させる手段だけだ。
「威勢のいいことだが、下手な真似はせぬ方が身のためぞ。儂は既に貴様の心臓深くまで根を下ろしておる。儂を殺せば間違いなく貴様も道連れよ」
「だったら……私もろとも他の騎士に焼き尽くしてもらう! 私の体内に収まっている今ならまだ……」
「おお! なんたる気高き自己犠牲精神! まさに騎士の鑑よ! だが本当にそれで良いのか? ここで死ねば、貴様の想いは永遠に報われぬのだぞ?」
「っ……!?」
「儂と貴様はもはや一心同体、貴様の想いは痛いほど伝わってくるわ! 貴様ら人間がほざく「愛」など、何の価値もない戯言と思っていたが……こうして直に触れてみると、なかなかどうして悪くないではないか。果たして平和などという幻想と引き換えにできるほど安いものなのかのう?」
 グレースは言葉を失う。確かに自分はまだ、秘めた想いを伝えられてさえいない。
「貴様が死ねば仲間もしばしは悲しもうが、やがて忘却の彼方へと消えるだろう。そして貴様の想い人は違う者の腕に抱かれる……貴様のいない未来でのう!」
「いや……そんなの嫌……!」
 グレースの瞳から大粒の涙が溢れ出す。彼女の心を支える騎士としての誇りに、岩を溶かすスライムのように絶望が染み込んでいく。
「所詮は儂とて魔王様の数ある駒の一つに過ぎぬ。儂が消えたところで新たな駒が送られるのみよ……それでも貴様は死を選ぶのか? この狂おしいほどの愛を捨て、ただの犬死にで満足だというのか?」
「やめて……っ!」
 耳を塞ぎ、頭を振り乱してもドルボッグの声は止まらない。否が応でも頭の中に響き渡る。折れかける心を必死に奮い立たせようと、グレースは両手の拳を地面に叩きつけた。
「あの人には……私より相応しい相手がいる……! 私はただ、その幸せを願うだけで……!」
「己を偽るのは止めよ! 一心同体と言ったであろう……貴様が想いを抑え込もうとする理由も手に取るように分かるわ!」
「黙れ! もう聞きたくない!」
 グレースは涙ながらに叫び、杖を抜いて自分の胸に突きつけた。これ以上ドルボッグの声を聞いていては心が壊れてしまう。その前に全てを終わらせなければならない。
「人間とはまこと愚かな生き物よ……下らぬ鎖で自らを縛り、他人の顔色ばかり伺い心を殺す! 我ら魔物は皆、己が心の赴くままに生きられるというのに!」
「黙れと言ってる! 私と一緒に消えろ!」
 心を蝕む雑音をかき消すように、グレースは杖の先端を身体に押しつける。このまま体内に魔力を放出して暴走させれば、この苦しみから解放されるだろう。
「なぜ諦める必要がある? 魔に身を委ねさえすれば、全てが手に入るのだぞ? 貴様が本当に望むもの全てが!」
 それはまさに悪魔の囁きだった。押し殺し続けてきた欲望が、理性を呑み込んで膨れあがっていく。ドルボッグの言葉を肯定しろと脳髄に囁きかける。
 想いを伝えたい。自分だけに笑いかけてほしい。手を取りたい。抱きしめ合いたい。愛する人と結ばれたい。幸せになりたい。
 願いは尽きることなく、グレースの心を埋め尽くしていく。その全てを叶えるチャンスが目の前にぶら下げられている。
 決意がぐらつき、手にした杖が細かく震え始める。あと少し……あと一歩踏み出すだけで全てが救われるのだ。
 ダメだ。誘惑に屈してはいけない。主神の神託と教会の教義に従い、人々を魔王軍の脅威から守ることが自分の使命だ。その使命を自ら投げ捨てることなどできるはずがない。
 しかしそんな決意とは裏腹に、杖を持つ手は少しずつ、しかし確実に下へと下がっていく。掌に汗が滲み、心臓は張り裂けんばかりに脈打った。溢れる涙で視界が霞み、呼吸は荒く乱れる。
 ドルボッグの見せる未来はあまりにも甘美だ。麻薬のように思考を溶かし、正常な精神力を奪っていく。
「私……私は……」
 杖が手の中から滑り落ち、震える声と共に湿った地面に転がる。同時に、グレースの中で何かが音を立てて崩れ去った。
「私は……ただあの人の隣にいたいだけ……他に何もいらない……!」
 それが彼女の本心だった。教会騎士として人々の平和を守る使命も、主神への信仰も全て、自分の居場所を手に入れるための手段でしかない。
 だが教会に従っている限り、その居場所は永遠に手に入らない。自分の望みが叶わない世界ならば、そんな場所にしがみつくことに何の意味があるのか?
「教会なんてどうでもいい! 世界の平和も知ったことか! もう私を自由にして!」
「グッハハハ! よくぞ言った! それでこそ我が依代に相応しい!」
 歓喜に満ちた声が頭の中に響く。グレースの慟哭に応えるように、彼女の身体に根付いていたドルボッグが蠢き始める。全身の血管が沸騰するかの如く熱を帯び、骨という骨が軋みを上げた。
「ぐっ……! ああぁぁぁぁぁっ!」
 全身に走る痛みに苦悶するグレースだったが、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。自らの身体を侵す毒を歓迎するかのように、彼女は熱い吐息を漏らす。
 止めどなく流れる涙が黒く染まる。スライムに変化した体液はグレースの瞳から洪水のように溢れ出し、彼女の周囲を黒く塗り潰していく。
「さぁ、儂に身体を明け渡せ!」
 叫ぶドルボッグの声が遠く聞こえる。漆黒に覆われる視界の中、自分が自分でなくなる感覚を心地良く感じながら、グレースはそっと瞼を閉じた。

 * * *

「なん……だ、これ……」
 カイルは目の前の光景が信じられず、呆然と立ち尽くす。レナも隣で絶句しているようだ。
 無理もない。二人が目にした惨劇はそれほどに衝撃的だったのだから。
 十分ほど前、大食い大会を終えたカイルとレナは自然公園の遊歩道を並んで歩いていた。昼夜を問わず喧騒に包まれる商業都市にあって、この公園は数少ない静謐な憩いの場として市民に愛されていた。
 色とりどりの花々が咲き誇る花壇を抜けると、そこには大きな噴水があった。水面に浮かぶ花びらが緩やかな風に乗って舞い散り、水飛沫が陽光を反射して煌めく光景は見る者の心を穏やかにさせる。
 噴水の中央には小さな天使像が浮かんでいる。両手を胸の前に差し出した姿をしたこの像は、魔法仕掛けで噴水の中をウロウロと移動しており、噴水の縁からコインを投げて見事天使像の掌に乗せられた者には幸せが訪れると伝わっていた。
 せっかくだからとレナが天使像にコインを投げると、それは天使像の掌の上に優しく収まった。レナは思いがけず気分が高揚するのを自覚する。もしかしたらこれは、天が自分の恋を後押ししてくれているのではないか? そう考えると、この奇跡の瞬間を逃す手はない。
 自分もコインを投げようかどうか迷っているカイルへ声をかけると、彼はどうかしたのかといった様子でレナの方へ振り向いた。
「あのさ、カイル! あたしね……!」
 高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を当てて深呼吸し、意を決して口を開きかけたその時だった。
 教会の鐘が鳴り響く。一時間毎に時を告げる鐘が本来鳴るべき時刻まではまだ三十分以上も余裕があった。にも関わらず、この鐘が鳴らされた理由は一つしかない。
 魔王軍の襲撃だ。
「行くぞ!」
「あ……ちょ、カイル!」
 言うやいなや、カイルはレナを一瞥もせずに走り去っていく。
 一世一代の告白を挫かれたレナは行き場のなくなった両手を震わせていたが、本当に都市内に敵が侵入したのであればデートなどと言っている場合ではない。教会支部に喧嘩を売ってくるなど一体どこの命知らずだ恋する乙女の邪魔をした罪は重いぞ塵も残さず消し去ってやる覚悟しろと怒り心頭でレナも後を追いかけた。
 そして駆けつけた教会支部で、二人は信じられないような惨状を目撃する。
 血だまりの中に倒れる同僚騎士の姿がそこにあった。教会騎士の本拠地の一つが襲撃を受けたという事実も十分に衝撃だったが、何より二人を驚愕させたのは、全員が漆黒のスライムに呑み込まれていたことだ。
 犠牲者の体内からまるで花が芽吹くかのようにスライムが湧き出し、純白の鎧を赤黒く染めあげている。既に息絶えた騎士をなお弄ぶかのように蠢くスライムの表面を見つめながら、レナは震える声で呟いた。
「カイル……これ、まさか……」
「あり得ない! ドルボッグは俺達が倒したはずだ!」
 カイルは頭を振って必死に否定しようとする。だが目の前の光景をまざまざと見せつけられてはどうしようもない。嘘であってくれと願いながらも教会内へ駆け込むと、願いも虚しく、既に騎士の死体とスライムで溢れ返っていた。
 夥しい数のスライムが部屋中を埋め尽くしている。吹き抜けになったエントランスの中央に立つ、教会の象徴たる純白の主神像もあちこちが黒ずんで溶かされていた。
 二人がまだ息のある者がいないか探そうとした時、上階から爆発音が聞こえた。壁が吹き飛ばされ、破片と共に何かが落下してくる。
「ぐあっ!」
 落ちてきたのは全身傷だらけになったマクシムだった。床に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「マクシム、大丈夫か!」
 カイルが駆け寄り抱き起こすと、マクシムは呻くような声で呟いた。
「お前達……無事、だったか……すまない、俺では……」
「喋るな! 今、ヒールポーションを!」
 だがカイルの言葉を遮るようにマクシムは首を横に振る。
「右腕が折れた……全身もズタズタだ……普通の回復では追いつかん……」
「そんな……! お前ほどの騎士が、どうしてここまで……」
 マクシムが震える声で答えようとしたその時、天井が崩れ、巨大な影が三人の目前へ落ちてきた。見上げるように巨大な漆黒のスライムが、グネグネと形を変えながら伸び上がる。その巨体の全面に、忘れようもない醜悪な笑みが浮かび上がった。
「これはこれは……グッグッグ、わざわざ貴様らの方から儂に殺されに集まってくれたか。手間が省けて助かるぞ、礼を言わねばのぅ!」
「ドルボッグ! 何故お前が生きている!」
 憎々しげに叫ぶカイルと憤怒の視線を向けるレナに、ドルボッグはさも愉快そうに表情を歪めながら、肉体の一部を膨らませて見せつける。その中に浮かぶグレースの姿を見て、二人の全身から血の気が引いた。
 ぐったりとして動かないグレースの目に光はなく、意識があるかどうかも分からない。衣服も半分近くが溶けて失われ、ボロ切れが身体に引っかかっているような有様だ。
「貴様……グレースをどうした!」
「この人間は既に儂の新たな肉体となった! 今ここに「不滅」のドルボッグ、完全復活を宣言しようぞ!」
 高らかな嘲笑に呼応するように、周囲の騎士の遺体に群がっていたスライムが身体を弾けさせ、天井高く吹き上がる。さながら魔王軍幹部の復活を祝うファンファーレだ。
「ふざけるな……グレースを、返せっ!」
 逆上したレナが近くに倒れた騎士から剣を取り上げ、怒りに任せてドルボッグへ切りかかった。
「良いのか? もはや儂とこ奴は一心同体。貴様の刃は儂だけでなく、大事な仲間の身をも斬り裂くぞ!」
「っ……!?」
 レナの動きがピタリと止まる。血管が破裂しそうなほどの怒りと殺意を滾らせながらも、彼女の剣は小刻みに震えるばかりで振り下ろされることはない。
「それがそうした!」
 だがカイルは違った。死んだ仲間の剣を構えたまではレナと同じだが、躊躇うことなくドルボッグへ突進する。
「教会騎士たる者、例え命と引き換えにしようとも魔王軍を討つ! グレースもそれを望んでいるはずだ!」
 聖なる魔力を込めた剣が、光の軌跡を描いてスライムの巨体を横一閃に薙ぎ払う。だが先日の戦いのように、ドルボッグは即座にその傷を再生させた。ドルボッグの体内のグレースの腕が斬りつけられ、スライムの中に血が滲み出す。
「待ってカイル! このままじゃ本当にグレースが!」
「仕方ないじゃないか! これ以上力を取り戻される前に、何を犠牲にしてでも奴を倒さなければ! それが俺達、教会騎士の使命だ!」
 レナの説得を跳ね除け、決して立ち止まらずカイルは剣を振り続ける。
「グググ……貴様ならそう言うと思ったわ」
 ドルボッグが後ろへ下がり、身を屈める。また逃げるつもりかと、カイルは全身に力を込めて飛び込んだ。
「止せ……逃げろ……」
 呻き声のようなマクシムの警告が届くはずもない。床を蹴ったカイルが勢いよく跳躍した次の瞬間、スライムの巨体が光を放ち、紫の魔法陣が浮かび上がった。
「フィジカルホールド!」
「ぐわぁあああっ!」
 ドルボッグが吐き出した魔力の電撃がカイルの全身を絡め取り、動きの止まった身体は着地もままならないまま床に打ちつけられた。すかさずスライムの巨腕が迫り、小石のように殴り飛ばされたカイルは成す術なく壁に激突する。喉の奥から鮮血が迸り、四肢を震わせながらぐったりと崩れ落ちた。
「今のはグレースの魔法……どうしてお前が!」
 カイルの元に駆けつけたレナが驚愕に目を見開く。ドルボッグは勝ち誇ったように高笑いした。
「一心同体と言うたはず。己の能力を使えて何がおかしい?」
 咄嗟にレナがマクシムへ視線を向けると、彼は小さく首を縦に振った。ドルボッグは不死身の再生力に加え、グレースのデバフ魔法をも手に入れたのだ。
 地方支部とはいえ、メルカント程の大型都市に駐在する教会騎士ともなれば、教会本部の騎士にも引けを取らぬ実力者揃いだ。マクシム始め、その猛者達がこうも簡単に葬られた理由を、ようやくレナは理解した。
 ドルボッグがのそりと近づき、三人のすぐ側で動きを止める。レナは自分を覗き込む悪意の視線から目を逸らすまいと剣を持つ手を握りしめた。もうまともに戦えるのは自分しかいない。
「安心するがいい。貴様らは大事なメインディッシュ……そう簡単には終わらせん。まずは我が肉体を散々傷つけてくれおった、そこの術士からいただくとしよう」
 何本もの細い触手が伸び、動けないマクシムの四肢を拘束して持ち上げる。腹や胸を締めあげられ、マクシムの口から血が溢れ出した。
 それだけではなく、触手が絡みついている部分の身体が徐々に萎びていく。逞しく鍛え抜かれたマクシムの肉体が、枯れ木のように乾いて痩せ細っていく。ドルボッグに生気を吸い取られているのだ。
「マクシム……攻撃しろ……! 魔王軍を、倒すんだ……!」
 床に倒れ伏したカイルが必死に呼びかけるが、マクシムは何ら抵抗を見せない。
「頼む……グレース……目を……」
 弱々しく呟くマクシム。だが、彼の視線の先にいるグレースが反応を返すことはない。
 やがて全身がミイラのように変わり果てたマクシムの肉体がひび割れると、悲鳴もあげられないまま粉々に握り潰された。
 レナの手から剣が滑り落ち、全身から力と戦意が失われていく。
 いつだって自分達を導き、励まし、背中を守って戦ってくれた頼れる先輩。そんな精神的支柱を目の前で失ったレナの心は、もはや限界を迎えようとしていた。
「さて……次は貴様らの番だ。どちらから喰ろうてやろうか?」
 余裕綽々といった態度で、ドルボッグの巨腕が持ち上げられる。レナは恐怖に震える身体を押さえ込みながら、降伏だけはするまいと必死にドルボッグを睨みつけた。
 その時、レナは視界の端に違和感を捉えた。すぐに焦点を合わせると、それは確信に変わる。それまでただ虚空を眺めていただけのグレースの瞳が、はっきりとこちらを見つめていたのだ。
 レナが叫ぶよりも早く、スライムの中を漂っていたグレースの腕が動いた。明確な意思を持って開かれた細い指先から、魔力の弾丸が放たれドルボッグの全身を貫く。
「ぐぅあぁああ! な……何故動ける? 貴様、まだ意識が……」
 身も心も取り込んだとばかり思っていたグレースの反撃に、ドルボッグは激しく動揺する。水平状態で浮かんでいた身体を起こしたグレースは、さも愉快げに口元を歪めた。
「意識? そんなの……最初っからあったよぉ」
 声色そのものは以前と変わりない。だがその口調は別人のように冷たく、妖艶な響きを孕んでいる。
「自分で言ってたじゃん。私の魔力は魔物に近いって……お前が私を喰いやすいってことは、その逆も然りだって気づかなかった?」
 ゆっくりと広げられたグレースの両腕の間に、スライムの全身からドス黒く染まった魔力が集められ、心臓のように脈打つ不気味な球体が形成されていく。
「馬鹿な……! 儂の魂が、無限の生命が、固定化されていくだと! あ……有り得ぬ! この儂が……「不滅」のドルボッグが!」
「有り得ちゃうんだよねぇ、それが」
 グレースの両手が、完全に実体化したドルボッグの魂を締めつける。指先が表面に食い込んでいく度、ドルボッグの肉体は激しく震え、スライムの表面が泡立って弾け飛んだ。
「止めろ……止せ! それに触るでない! 頼む、止めてくれぇええ!」
 先日の戦いで止めを刺される時ですら出さなかった悲鳴を、形振り構わず喚き散らす。その情けない叫び声が嗜虐心を一層掻き立てたのか、グレースの顔に喜悦が滲み出た。
「てめえはもう用なしだぜ~!」
「ウギャアア~ッ!」
 グレースが両手を閉じて魔力の心臓を霧散させる。断末魔の叫びと共に、ドルボッグの魂は跡形もなく消滅した。何度でも復活を繰り返してきた不死鳥は、遂にその灯火を失ったのだ。
 心底スッキリしたとでも言いたげな表情で、グレースは身体を伸ばす。その様子を、カイルを支えながらレナはただ茫然と眺めていた。
「どう……して……?」
 震える唇を動かして問いかける。グレースが生きていたことに対する喜びよりも、大勢の教会騎士が、かけがえのない仲間であるマクシムが殺されるのを黙って見ていたことに対する困惑が遥かに勝っていた。
 グレースはゆっくりとレナに向き直ると、軽やかに両腕を振って見せた。その動きに合わせて、彼女を包む巨大なスライムの身体が形を変える。相手に恐怖や敵意を与えるような禍々しい異形から一転、優雅で美しいドレスを思わせる姿へと。
 体色も漆黒から鮮やかなコバルトブルーに染まる。全身に無数の小さな光の玉を散りばめた巨大なスライムは、まるで宝石で作られた彫刻のようだった。
 同時にグレース自身の肉体も変化する。僅かに張りついていた衣服の破片が全て溶け消え、豊満な肉体が浮き彫りになった。元々白かった肌はさらに病的なほど白くなり、表皮が水面のように揺らめいて向こう側の光が透過する。
 三つ編みを解くと、腰に届く程度だった紺の髪が足元まで伸び上がり、スライムの中に浮かんだボリュームのある波打った髪が、グレースの背中で貴族のマントのように広がった。
「グレース……あんた……!」
 変貌した姿を目の当たりにして、レナは怒りに肩を震わせる。
 彼女はもう人間ではない。自分を乗っ取ろうとしたドルボッグを逆に喰い尽くして全ての能力を奪った、正真正銘の魔物なのだと直感が告げた。
「やだなぁ、そんなに怖い顔しないでよ、レナ。私だよ、私」
 レナのあからさまな怒気に苦笑しながら、グレースは両手を上げて無抵抗をアピールするが、レナにとっては神経を逆撫でする材料でしかない。
「あんた、自分が何をしたか分かってるの? よくも教会のみんなを、マクシムを! どうして教会を裏切ったの! 答えなさい、グレース!」
 目を吊り上げて激昂し、全身から殺気を漲らせたレナの叫びに怯むことなく、グレースは肩を竦めてゆっくりと溜息を吐いた。
「なんか、色々バカらしくなっちゃったんだよね」
「どういう意味……?」
「教会は魔王軍さえ滅ぼせば平和な世界が訪れるって言い続けてるけど、そうなると思う? 今は人類共通の敵がいるから辛うじて結束してるけど、それが消えたら絶対人間同士で争い出すよ。実現するはずのない幻の理想のために、どうして私達が命を懸けて戦わなきゃいけないの?」
「そんなはずない! 人間はそこまで愚かじゃない!」
 拳を握りしめて身を乗り出すレナ。それを制止するように、グレースが掌を向けた。
「ちなみにだけど、この支部に残ってた騎士達で命を捨てる覚悟で私に向かってきた人はほんの一握りだったよ。大半は勝てないと分かった途端に戦いを投げ出した。司教様なんて、真っ先に金貨袋と札束抱えて飛び出して行っちゃったよ」
 グレースはケラケラと笑いながら続ける。
「面白かったなぁ……今まで散々私のことを役立たずだの無能だのと蔑んできた奴らが、私の魔法で身動きできなくなると、皆して惨めったらしく命乞いしてくるの。本当は直接この手で捻り潰したかったけど、まぁドルボックの中から見てるだけでも十分すぎるほど楽しめたよ」
「何が……何が面白いのよ!」
 レナの怒りは収まらない。だがグレースの余裕に満ちた態度を見れば見るほど、その怒りは虚しさに変わっていく。グレースにとって教会騎士を殺したことは、本当にただの余興でしかないのだ。
「マクシムさんも、できれば逃げ延びてほしかったけど、そんな似非騎士じゃないことは分かってたからね。恩もあるし、流石にあの人を自分の手で殺すことは忍びなくて、ドルボッグがマクシムさんを殺すまでは奴の中で死んだふりしてたんだ」
 グレースだったはずの少女は、まるで別人のような顔で高笑いする。スライムの身体が震え、半分ほど溶けかけていた主神像を粉々に粉砕した。
「魔物になって改めて分かったよ……人間って、ホント面倒臭い! どうしてあんな窮屈な世界で生きていられたのか、自分でもさっぱり理解できない!」
 晴れやかな顔で笑うその様は、皮肉にもいつも陰のある様子だった今までより、余程人間らしく見えた。
「そんな顔して笑えたんだね……グレース……」
 レナが呟く。その目には怒りと共に、零れ落ちそうなほどの涙も浮かんでいた。
「私はもう、何にも縛られない。余計なことは考えない。ただ自分のやりたいように、自由に生きる。だからまずは……」
 コバルトブルーのスライムの少女の瞳が妖しく輝き、鎌首をもたげるように巨体が動き出す。
「ずっと一番欲しかったものを……私のものにする」
 スライムから細い腕が伸ばされ、二人の前に真っ直ぐ差し向けられた。
 レナは涙を拭うと、カイルを庇うように前に出て剣を構える。カイルはもう立ち上がることも難しいだろう。そして間違いなく、自分の力では魔に堕ちたグレースには勝てない。
 だがそれでも、この一戦だけは引くわけにはいかなかった。
「グレース……貴女のこと、一番の親友だって思ってたよ。カイルのことは譲れないけど、できればこんな形で決着をつけたくはなかったな」
 大きく息を吸い込むと、ありったけの魔力を剣に込める。全身をバネにして飛び出し、叫んだ。
「絶対にカイルは渡さない! お前を倒す……憎むべき魔王の僕、グレースッ!」
 輝く白刃を振りかぶり、スライムの中のグレース目掛けて斬りかかる。グレースは防御も回避もすることなく、両腕を広げてレナを待ち受けていた。
 勢いよく突き刺さった剣はしかし、グレースに届くことはなかった。衝撃を完全に吸収されてしまい、剣はスライムに深く食い込んだまま微動だにしない。剣を手放して距離を取ろうとするが、それより早く四方から押し寄せたスライムがレナの身体を飲み込んだ。
「くっ……このっ!」
 外に抜け出そうと手足に力を込めるも、全身に纏わりつくスライムの圧力にはビクともしない。露出した肌の部分がピリピリと痛む。それに今は鎧ではなく私服だ。骨まで溶かされてしまうまで、そう時間はかからないだろう。
 スライムの中を泳いで、グレースがゆっくりと近づいてくる。せめて一撃でもと足掻くレナの目の前に、グレースの顔が迫った。
 両腕が首元に伸びる。直接触れたグレースの掌は、氷のように冷たかった。
 このまま絞め殺す気なのか。既に勝ち目はないが、せめて目だけは逸らすまいとグレースの瞳を睨みつける。白目の部分が黒く変わった魔物の瞳と、視線と視線がぶつかり合った。
 殺られる……!
 レナが覚悟したその時、グレースの手が首元から頬へと滑る。そのまま優しく引き寄せられたかと思うと、彼女の唇に自らの唇を重ねた。
「ん……? んん……ッ!」
 思いもかけない口づけに驚愕し、抵抗しようとするが、スライムに包まれた身体は身じろぎすら許してくれない。グレースの舌が口内に侵入し、レナの舌と絡み合う。
 その甘美な感触に思わず脱力しそうになるが、すぐに我に返り、グレースの舌に噛みつこうとする。だがゴムのような感触の舌には文字通り歯が立たず、逆に勢いづいたグレースの舌に貪るように蹂躙されてしまった。
 たっぷりと唾液を送り込まれる度に、身体が熱くなり力が抜けていく。隠されていたものが引き出されていくような感覚に恐怖し、なおも暴れようとするレナの顔を押さえつけたまま、ようやくグレースは唇を離した。二人の唇の間に、いやらしく銀色の糸が伝う。
「ぷはっ……はぁ、はぁ……!」
 離れて数秒経つまで、時間が止まっているのではないかと錯覚するほど濃密なキスだった。グレースはスライムの中に浮かぶ唾液の雫を指で掬い取ると、恍惚とした表情で自らの唇へと運ぶ。
「ああ……美味しい。これがレナの味なんだ……」
 夢見心地の表情を浮かべるグレースに、レナは怒りの叫びをぶつける。
「あ……あんた、なんの真似よ! 私を殺すんじゃないの!」
「殺す? 私がレナを? どうして?」
 グレースは全く意味が分からないという表情で首を傾げる。そこに冷徹な魔物の印象はない。ついさっきまでの、仲間だと信じていたグレースの面影があるだけだ。
「どうしてって、あんた今、ずっと欲しかったものを……!」
 そこまで言って、レナはハッと息を呑む。もしかして、自分はとんでもない思い違いをしていたのではないか。
「あ……あたし!?」
 叫ぶと同時に、頬が熱くなるのを感じた。顔全体が耳の先まで熱くなっているのが分かる。
「あんたが好きな相手って……あたしなの!?」
「そうだよ?」
 もう一度、今更何を言っているのかという顔でグレースは首を傾げた。
「待って! カイルが好きだったんじゃ……!」
「……むしろ、レナはどうしてそう思ったの?」
 レナを見るグレースの視線が完全に冷たい。呆れ返っている。
「だって、ずっとカイルのことを見てたし……それに、カイルといる時が一番楽しそうだったし……」
「そりゃまぁ……レナとカイルは大抵いつも一緒にいたから、レナを見たらカイルも見えるし、レナといて楽しい時はカイルとも一緒にいることにはなるかなぁ」
 的外れな指摘を受けて、グレースが頬を指で掻く。
 事実、グレースはカイルのことなどまるで眼中なかった。レナを巡る恋敵としてなら話は別だが、恋愛対象として見たことは一度もない。レナが勝手に勘違いしていただけだ。
「ずっとこうしたかった……レナの唇も、胸も、手も足も……全部私のものにしたかった……!」
 嬉しさがこみ上げたように喉を震わし、再びグレースの唇が迫る。レナは咄嗟に身をよじった。
 自分でも意外だが、先程のグレースとのキスは心地良かった。これ以上続ければ、その快楽に抗えなくなってしまう。レナは必死にグレースの顔から逃れようとする。
「止めてよ! 私はあんたなんか……!」
「嫌い? 私のこと、嫌い?」
 グレースは哀しそうに目を伏せる。まるで叱られてしょげた子犬のような表情に、レナの心は大いに揺れた。
「そ……そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どうして受け入れてくれないの?」
 上目で甘えるようにして詰め寄ってくるグレースに、レナは言葉を詰まらせた。
「だ、だって……私達、女同士じゃない!」
 どうにか絞り出した反論に、グレースがきょとんとする。
「だから?」
 レナはグレースの常識外れな反応に目を剥いた。同性愛が許されないことは、この国に住むものなら誰もが知っている。
 教会でも魔王軍との内通に等しい重大な禁忌として戒められており、破った者は即座に主神への背信とされ処刑される。だからこそグレースも、ずっと自分の想いを秘め続けていたのではないか。
 だがレナはまた自らの思い違いに気づく。グレースはもう人間ではないのだ。人間が勝手に定めた倫理観や価値観など、今のグレースには何の価値もない。
 彼女にあるのは、ただ己の願望を満たそうとする欲求と、レナへの純粋な愛情だけだ。
「ねぇ、レナも魔物になろうよ。魔物になれば、性別だとか種族だとか、そんなつまんないこと気にしなくて済むんだよ? 二人でずっと、気持ちいいことだけして生きていこう?」
「あ……あたしは……」
 花の蜜のように甘いウィスパーボイスが鼓膜を揺らす。レナに人間を捨てて魔に堕ちることを促す誘惑の言葉に、拒絶を口にしようとしていた唇の動きが止まる。
 力なく開かれたレナの掌にグレースの手が重なる。指と指を絡ませながら、グレースはレナの耳元に唇を寄せて囁いた。
「教えてあげる……私がどれだけ、レナを想っているのか……」
 また唇を奪われる。今にも溶かされてしまいそうなほどねっとりと絡みつくディープキスに、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。止めどなく流し込まれる唾液を飲み込まされる度、魔物としてのグレースの魔力がレナの中へ入り込んでいく。
 魔力を介して、レナの心にグレースの心が流れ込んでくる。さながらスライムが蕩け合うように、二つの感情が混ざり合いながら渾然一体となって全身へ広がっていく。
 誰からも必要とされなかった過去。孤独な日々を打ち破ってくれた出会い。差し伸べてくれた手。太陽のように暖かなレナの笑顔にどれだけ救われたか。
 レナのいない人生など考えられない。その想いが、愛情が、グレースの心が、レナの心に染み渡っていく。
 全身が蕩けそうなほど熱くなり、グレースに愛される幸福感で満たされていく。教会騎士の誇りと人間の生を捨ててでも、彼女の想いに応えたいという欲求が少しずつ膨らんでいく。
「ダメ……このままじゃ私、本当に魔物になっちゃう……! カイルが見てるのに……!」
 ギリギリで理性を保つレナの意識に、グレースの口が離れる。レナの唇を名残惜しそうに見つめながらも、グレースの表情はレナに惚れ直すかのような穏やかな微笑みだった。
「レナは優しくて、強いね……だから私、そんなレナが大好きだよ」
 グレースは腕を伸ばして、レナの後頭部に回す。彼女の髪を結んでいた白いリボンを両手で包み込むと、ジュッと音を立ててそれを溶かした。ポニーテールが解け、レナの赤髪がスライムの中に広がる。
「あ……!」
 焼け焦げたリボンの残骸がスライムの中に溶け消えていく。それはまるで、カイルとの思い出を焼き尽くされるような喪失感だった。
「リボン……私の……」
 力の抜けたレナの目を見つめながら、グレースがレナの身体を撫で回す。グレースの手が触れた部分から服が溶けていく。素肌を傷つけることはないが、カイルに褒めてもらおうと選んだブラウスやロングスカートが灰となって消えていくのは耐え難い苦痛だった。
 だがその感情もすぐに押し流されていく。グレースの掌から伝わる魔力がレナの身体と心を包み込み、自分が別の何かに作り変えられていくのが分かった。
 訓練を重ね、日に焼けて痣や傷の絶えないレナの肌が、グレースと同じ滑らかで傷一つない、透き通った白に染まっていく。剣士として鍛えた筋肉が溶けて消え、華奢で柔らかな少女の肉体が形作られていった。
「あ……ああ……!」
 レナは恐怖と絶望の声を漏らした。自分の中の大切な何かが、倫理や常識といった価値観が消え、グレースと溶け合おうとしているのが分かる。自分が自分でなくなるという恐怖すらも、グレースが与えてくれる愛情に上書きされてしまいそうになる。
「イヤ……! 私は魔物になんてならない! カイルを裏切ったりしない……!」
 僅かに残った精神力を振り絞ってレナが念じる。だがその抵抗は、ふとした疑問によって途切れてしまう。
 あれ……そもそも自分は、どうしてカイルのことが好きなんだっけ?
 えぇと……そう、まだ剣を振るのも覚束ない見習いの頃、凶暴な野犬の群れから体を張って自分を守ってくれたときの、あの背中が頼もしくてカッコよくて……それで一目惚れしたんだ。
 だけど、どれだけアピールしてもカイルは全然振り向いてくれない。それどころか、勇気を出して告白したところで「魔王軍を滅ぼすその日まで恋愛なんかに現を抜かす暇はない」とかなんとか有無を言わさず突っぱねられるだろう。うん……アイツはそういう奴だ。
 そんな男を相手に叶わない恋を引きずり続けるくらいなら、グレースの想いに身を委ね、二人で魔物の世界で生きていった方がずっと幸せだ。そうに決まってる。
「ああ……そっか」
 レナの顔に笑みが浮かぶ。それは教会騎士として魔物と戦い続けてきた彼女からは想像もつかないような、淫靡で退廃的な笑顔であった
 今まで自分が積み上げてきたもの全てを捨てることへの躊躇いなど微塵も感じさせない、安らかな「女」としての表情。彼女の心が完全に堕ちた瞬間だった。
 全身に粘りついていたスライムの拘束力が失われる。自由になった両腕を広げて見せると、グレースもぱっと表情を輝かせ、レナの胸の中に飛び込んだ。その身体を受け止めて固く抱き締めると、今度はレナの方からグレースの顎を持ち上げ唇を奪う。
「グレース……好きぃ……!」
「んふっ……レナぁ……嬉しい……!」
 二人の少女は互いの舌を絡ませながら愛の言葉を囁き合った。
 グレースを受け入れたレナの身体が、急速に魔物のそれへと作り変えられていく。色素の抜けた肌は水のように揺蕩い、背丈ほどに長く伸び上がったストレートの赤髪が、密着して絡み合う二人を包み込むように広がった。
 スライムの体色に鮮やかなピンクが浮き上がり、コバルトブルーとの美しいコントラストを描いて眩く輝く。二人分の魔力を得て教会支部の天井を突き破らんばかりに巨大化したスライムが、歓喜の咆哮を上げるように激しく蠢いた。
「ん……ぷはぁ」
 長いキスを終えてグレースの顔が離れると、レナは自らの変化を実感する。
「あはっ……凄い、これが魔物の身体……」
 全身がスライムに包まれているのもあり、どこからどこまでが自分なのか曖昧だ。体表の境界線さえ強く意識しなければ感じ取れない。
 だがそれは決して不快なものではない。むしろグレースと蕩け合い、一つになったという実感に、より強い愛情が湧きあがってくる。
「とっても綺麗だよ、レナ」
 グレースの甘い囁きが頭の中に響き渡る。幸福感に身を任せていたレナは、うっとりしながら目を細めた。
「はぁ……ありがと、グレース。ねぇ、もっとキスしよ……?」
 さらに強い快楽を貪ろうと、レナは抱き合う足をくねらせる。その濡れた瞳に理性や恥じらいと言った感情は微塵も残っていない。しかしグレースは小さく首を横に振った。
「待って。私もそうしたいけど、その前にやることあるでしょ?」
 グレースはレナを抱き締める両腕を緩めると、そのまま二人の身体を引き離した。もっと味わいたかった愛情が遠ざかっていく寂しさを感じながら、レナは可愛らしく小首を傾げる。
「やること……?」
 そんな彼女を慰めるように、グレースは優しい手つきで頭を撫でた。
「カイルだよ」
 グレースに言われて思い出す。そう言えばそうだった。自分達が教会を裏切り、魔に堕ちたことを本部に報告されるわけにはいかない。間違いなくこの場で始末しておかなければ。
 避けられない選択を前に、カイルとの日々が脳裏に蘇ってくる。だがそれもすぐに消え去った。
 グレースと一つになったことで、彼女の想いは余すところなく自分のものになった。それは同時に、カイルへの未練など欠片も残ってはいないという証でもあるのだ。
 だがまぁ、仲間のよしみで一思いに楽にしてやるくらいの情けはかけてやってもいいだろう。レナとグレースは顔を見合わせて頷くと、スライムの巨腕をカイルの頭上へと伸ばす。
 カイルは逃げるでも抵抗するでもなく、膝をついて項垂れたまま動かない。あとはこのまま叩き潰すだけだ。
「じゃあ、やっちゃおっか」
「うん!」
 だが、その腕を振り下ろそうとした瞬間、二人の耳に奇妙な声が届いた。
「うぅ……うぁ……」
 思わず手を止める。カイルの口から漏れ出ているのは、間違いなく嗚咽だった。肩が小刻みに震えている。
 二人はまた顔を見合わせた。彼が涙を流すところなど一度も見たことがない。長い付き合いの仲間を一度に失ったのは、さすがに堪えるものがあったのだろうか。
「あぁ……ああ……!」
 カイルが叫び声を上げ、身体が仰け反らせる。両目からは滂沱の涙が溢れ、両腕を天に突き上げている。まるで神に救いを求める狂信者のようだ。
 ドン引きして動きを止めた二人に、カイルの絶叫が浴びせられる。
「ああ……なんてことだ……! まさかこんな最高の日に立ち会えるなんて!」
 えぇ……と二人の顔が呆れ果てたものに変わる。だがそんな視線などお構いなしに、顔を上げたカイルの表情は歓喜に満ち満ちていた。心の底から幸せそうな笑顔を見せながら、彼は涙で濡れた顔を二人に向ける。
「なんて美しい……いや尊いんだ……! どれだけ魔物を倒しても満たされなかった心が浄化されていく……! 今分かった! 俺はこの瞬間のために生まれてきたんだ!」
 熱に浮かされたようにまくし立てるカイルに、二人は完全に言葉を失った。
「な、何こいつ! キモッ!」
 レナは嫌悪感を露わにして吐き捨て、グレースも魔に堕ちる前の彼女のような、おろおろした表情でレナの背中へ隠れる。
 だが当のカイルは二人の侮蔑に気づく素振りすら見せない。その目は狂気に満ちていた。
 教会騎士としての使命感や正義感など欠片もない。ただただ自分の欲望を満たすためだけに生きる、醜く浅ましい豚の目だ。
「ど……どうしよう、アレ……」
 グレースが不安げな声でレナに尋ねる。レナはカイルと目を合わせないようにしながら、グレースを抱き寄せて頭を撫でた。
「あの様子じゃ教会に報告される心配はないかもだけど……ほっとくのも後が怖そうだし、でもぶっちゃけ近づきたくないなぁ……」
「だよね……どうしよう?」
 額をくっつけて頭を悩ませる二人を他所に、ひたすら歓喜の雄叫びをあげ続けるカイル。
 あらゆる敵を喰らい尽くせる力を手に入れたはずの巨大な魔物は、たった一人のちっぽけな人間を前に、恐怖に震えるかのごとく、激しく波打つスライムの肉体を捩らせていた。

 * * *

 商業都市メルカント。
 大陸中から様々な商品が集まる交易の中継地であるこの町は、今日も活気に満ちていた。大通りを行き交う人混みの中には、商人や冒険者だけでなく観光客の姿も多く見受けられる。
 誰もが明るい笑顔を浮かべ、通り沿いの店や露天での買物を楽しんでいる。だがそんな賑やかで楽しげな空気の中、人目を憚るように路地裏へと入っていく二つの影があった。お互いを支え合うようにしながら路地裏を進んでいく。
「ふぅ……」
 しばらく進んだ一人が壁に手をついて立ち止まると、もう一人がその背中にぶつかりそうになる。
「わっ……ちょっと、急に止まらないでよ、ルミア」
「ごめん、テレサ……少し休憩させて。ずっと緊張しっぱなしだから疲れちゃって……」
 そう言って、二人は息を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。薄汚れたフード付きローブで全身を覆い隠しているが、声色からどちらも少女であることが察せられた。
「はぁ……どうにかここまで辿り着けた……」
 先に立ち止まった少女、ルミアが疲れを滲ませた声で呟く。フードの下からちらりと覗く顔は酷く憔悴しており、まともに睡眠も取れていないのか、目元には濃い隈が浮かんでいる。
「ねぇ、本当に大丈夫なの? この町、教会支部があるんでしょ? もし見つかっちゃったら……」
 ルミアより少し背の低い少女、テレサが不安げに問いかける。こちらも極度の疲労で息は荒く、時折えずくような咳を繰り返している。
「でも、もう他に行く場所なんてないじゃない……村にだって帰れないし……」
 ルミアは悔しげに身を震わし、自分の纏ったローブの裾をぎゅっと握り締めた。
「……そう、だね」
 テレサは小さく頷き、壊れて道端に転がっていた樽に腰を下ろす。ルミアもそれに倣い、寄り添い合うように並んだ。
 どちらも言葉を発することはなく、少しでも体力を回復させようと呼吸を繰り返す。時折通り過ぎる通行人がチラリと目を向ける度、二人揃って身を縮めて視線を逸らした。
 何度か繰り返すうち、自然と二人の手と手が重なる。やがてどちらからともなく指を絡め、固く繋ぎ合う。お互いの体温を、存在を確かめるように。
「……どうして」
 しばらくの沈黙の後、ルミアが口を開く。
「どうして私達が、こんなふうにビクビクしながら逃げ回らなきゃいけないの」
 その疑問に、フードに隠れたテレサの目が見開かれる。自分だって同じ気持ちだが、そんなことを考えたところで現実が変わるわけでもない。だから考えないようにしていたのに。
「おかしいよ、こんなの……! 私達はただ……」
 感情的に震わせたルミアの声に、テレサの顔がさっと青褪める。
 彼女が何を言いたいのかは分かっている。自分もまったく同じ気持ちなのだから。
 自分達は何も悪いことなんてしていないはずだ。それなのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないのか。
 だがしかし、誰に聞かれるか分かったものではない場所で、それを口にすることは身の破滅にも繋がりかねない。慌ててルミアを宥めようとした時。
「やぁ、君達」
 不意に背後から声をかけられた。二人は飛び上がらんばかりに驚きながら振り返る。
 そこに立っていたのは、革鎧を着て腰に剣を提げた人物だった。一見すると警備兵のようだが、兜を被った頭の下、包帯でグルグル巻きにして顔を隠した姿はどう考えても普通の相手ではない。
「あ……あの、何か……?」
 ルミアがテレサを庇うように立ち上がり、恐る恐る尋ねる。もしや教会の手の者だろうか……今の会話を聞かれたのでは。
 だとしたらお終いだ。せっかくここまで逃げ延びられたのに、体力も気力も尽きかけているせいで尻尾を掴まれてしまった。
「ああ、そんなに警戒しないでくれたまえ」
 だが包帯の怪人は、そんな二人の緊張など全く意に介さない様子でへらりと告げた。
「君達はこの町の噂を聞いて、教会から逃げてきたんだろう?」
 男の言葉にルミアとテレサが息を呑む。やはり話を聞かれていた。自分達の目的も見透かされている。これからどんな目に遭うのか……最悪の想像ばかりが頭を巡った。
「心配しなくていい。俺は教会の側じゃない。むしろ逆だ。君達を安全な場所へ案内しよう」
 男が親しげに手を差し伸べる。その提案は魅力的だが、同時に不気味でもあった。確かに教会の人間にしては怪しすぎる格好だが、だからといって信用できるとは限らない。
「あの……本当、なんですか……?」
 テレサが不安げに呟く。ルミアの手を取り、ぎゅっと握りしめる。
「この町には種族も性別も関係なく、ただ愛し合う二人が幸せに暮らせる場所があると……」
「うむ、本当だとも」
 男は即答する。その自信に満ちた回答に、二人の心に僅かな希望が芽生えた。
 彼女達は元々、小さな農村で暮らすごく普通の村人だった。幼い頃からずっと一緒で、成長するうちに自然とお互いに強く惹かれ合い、愛し合うようになったのだ。
 だが教会は同性同士の恋愛や婚姻を認めていない。村人の目から隠れて密かな逢瀬を重ねていたが、とうとうある日、村の人間に知られてしまった。
 神の教えに背く不届き者と村人達は怒り狂い、異端者として教会へ突き出されるところを命からがら逃げ出した。当てのない逃避行の中、二人は一つの噂を耳にする。メルカントには同性のパートナー同士で暮らせる場所があるらしい、と。
「その噂は真実だよ。ただ住人は全て魔物だがね」
 男の一言に、ルミアの表情が固まる。魔物は人間にとって忌むべき存在であり、無差別に命を奪う恐ろしい敵だ。そんな連中の住処に飛び込んで、果たして無事に生きていけるのか。
「……大丈夫だよ、ルミア」
 テレサがルミアの手を両手で包む。不安げな表情を浮かべる彼女に優しく微笑みかけた。
「私達だって教会のお尋ね者と変わらないじゃない。今更魔物なんか怖がることないよ」
「テレサ……」
 ルミアはまだ躊躇っているようだったが、やがて決心したように、こくりと小さく頷いた。
「お願いします。私達をそこへ連れて行ってください」
 小さく頭を下げるルミアに合わせるように、テレサも頭を下げた。その様子に男はうんうんと満足げに頷く。
「さぁ、着いてきな」
 男は二人に背を向けて路地裏の奥へと歩いていく。二人は警戒しながらその後に続いた。しっかりとお互いの手を繋ぎ合い、決して離れないようにしながら。
 しばらく歩くと、やがて大きな建物が見えてきた。それを目にした途端、ルミアは驚きに目を見開く。
「あ、あれって……教会?」
 男が向かっている方角の先に建っているのは、間違いなくメルカントの教会支部だった。
 なんで、なんで私達を教会に連れて行くの?
 ルミアは混乱と恐怖が入り混じった表情を浮かべる。テレサも不安げにルミアの腕に縋りついた。
「だからこそさ」
 男は二人の様子を察して声をかける。
「教会に楯突く奴らの住処への入口が、まさか教会に隠されているとは思わんだろう?」
 顔は見えないが、ルミアはその声の裏で男がニヤリと笑っているような気がした。
「それは……」
 一理ある気もしないでもないが、騙されている感の方が遥かに強い。二人の剥き出しの警戒心を感じ取ったのか、男は足を止めてキョロキョロと辺りを見回した。周囲に自分達以外の気配がないことを確認すると、徐ろに頭部に巻いた包帯を解き始める。
「「ひぃ……っ?」」
 ルミアとテレサが揃って悲鳴をあげた。
 包帯の下から現れたのは、人の顔ではなかった。と言うか、顔そのものがなかった。
 代わりに見えたのは、人間の頭蓋骨をスライムが肉のように覆っている異形の存在だった。
「見ての通り、俺も魔物だ。これで信用してもらえるかな?」
 飄々した口調で告げる魔物の男……いやこうなると性別があるかも怪しいが。
 ルミアとテレサは抱き合って震えていたが、何も言わないのを肯定と受け取ったのか、男はまたずんずんと先を進み始めた。
 どのみち、ここまで来て引き返すことなどできるはずもない。二人は覚悟を決めて男の後に続いた。
「着いたぞ」
 やがて辿り着いたのは、教会の裏手にあるボロ小屋だった。男は扉を開くと二人を中に招き入れる。てっきり地下に続く隠し階段でも待っているのかと思いきや、中はただ狭いだけの空間だった。出入口以外に窓すらなく、天井も低い。
 困惑する二人を置いて男は壁の一部に手をかざす。するとそこに魔法陣のような模様が現れ、淡く光ったかと思うと小屋の床全体が沈み始めた。
「ぅわわっ!」
「きゃあっ!」
 当たり前のように抱き合いながら悲鳴を上げるルミナとテレサ。そんな二人の様子を眺める男。醸し出すオーラがそこはかとなくウザい。
 しばし浮遊感が続いた後、ようやく床の動きが止まる。二人はふぅと小さく息を吐くと、さっさと出ていってしまった男を追って恐る恐る部屋の外へ出た。
「ようこそ、アンダーメルカントへ」
 小屋を出た先で待っていた男が両手を広げて告げる。ルミアとテレサは呆然と周囲を見回し、そして絶句するしかなかった。
 そこはまるで別世界だった。地下に作られた魔物の町と聞いて、おどろおどろしい光景を予想していたのだが、そんなイメージとは全くかけ離れている。
「凄い……綺麗……」
 思わず感嘆の呟きが漏れるほど、そこは美しい場所だった。
 見渡す限り一面に緑が溢れ、色とりどりの花が咲き乱れている。小鳥が囀り、小川のせせらぎが耳に心地良い。まるで童話に出てくる妖精の国のような風景に、二人は目を奪われたまま立ち尽くした。
 なにより驚くべきは、地下であるにも関わらず青空が見えるということだ。降り注ぐ柔らかな陽光が町全体を包み込み、地面を暖かな光で照らしている。
「魔法で空間を歪めているんだ。幻や作り物なんかじゃない、本物の空だよ」
 芝生の道を進みながら男が解説する。ルミアとテレサは手を繋いて並んで歩きながら、アンダーメルカントの風景に魅入られていた。
 徐々に木々の高さと密度が増してきて、周囲が森のようになっていく。景色が切り替わるに連れて、チラホラと町の住人らしき魔物の姿を見かけるようになってきた。様々な種族の魔物が暮らしているのかと思いきや、誰もが同じ一つの種族だった。
 スライムだ。
 ただし一般的に知られているそれとは全く異なる外見をしている。全てのスライムが、内部に白い肌の少女を飲み込んでいた。
 最初は人間を食べているのかと慄いたが、スライムの中の少女達は皆、活き活きとした表情で動き回っている。よく見れば、スライムの方が中の少女達に合わせて形を変えていた。恐らくあの少女達がスライムの本体なのだろう。
 もう一つ特徴的だったのが、誰もが例外なく二人一組でスライムの中に入っているということだ。彼女達はお互いに手を繋いだり、抱き合ったり、中には人目を憚らずおっ始めている少女達もいる。その姿は明らかに恋人同士のそれだ。
「……ねぇ、ルミア……あれ……」
「うん……多分、そういうことだよね」
 二人は小声で言葉を交わすと、男に向かって尋ねる。
「あの……あのスライム達って、もしかして……」
 恐る恐る問いかけるルミアに対して、男は事もなげに答えた。
「ああ。皆、君達と同じく迫害から逃れてここにやって来たカップルだよ」
 予想していたとはいえ、それでも衝撃的な事実に二人は言葉を失った。この町に住む魔物は全て、元々人間だった者達ばかりなのだ。
「言っておくが、我らの王は移住を希望する者に変化を強制したことは一度もない。全員、自らの意思で人間であることを捨てて魔物になったのだ」
「どうしてですか……?」
 テレサが掠れた声で聞く。確かにスライムになった少女達は皆、愛する相手と文字通り一つになって、とても幸せそうに見える。
 だが、それだけで本当に人間であることを捨てるなんてことができるのだろうか。自分はルミアと幸せになれるのなら魔物にでもなんでもなる覚悟があるが、ルミアも同じ気持ちでいてくれるかは分からない。
 不安に揺れるテレサの目を見た男は、無言で森の奥を指差す。そこには大きな湖が広がり、湖畔に数組のスライム少女達が集まって水遊びを楽しんでいる姿があった。
 彼女達の様子を見ていると、ふと違和感を覚える。しばらくして、その正体に気がついた。
 誰もが二人ではなく三人組、中には四人や五人組のスライムも混じっている。共通点として、必ず少女が二人、残りは幼い女の子か赤ん坊という組み合わせばかりだった。
 この組み合わせが意味する答えに辿り着いたルミアとテレサは、驚愕と歓喜の入り混じった表情を浮かべる。思わず「あぁ……!」と声にならない声を漏らした。
「その通り。あの幼子は正真正銘、彼女達の間に産まれた実の娘だ」
「そんな……そんなことって……!」
 ルミアが信じられないとばかりに声を震わせる。テレサも目に涙を浮かべて、スライムの赤ん坊をあやしている少女達を食い入るように見つめていた。
 女同士で子を成せる。どれだけ夢に見て、憧れて焦がれたか。それが現実になるというのなら、それこそ悪魔に魂を売ってでも手に入れたい。奇跡に等しい愛の結晶に比べれば、人間であることなど何の価値があろうか。
 二人に気づいたらしい家族連れのスライム達が手を振っている。ルミアは手を振り返すが、テレサの方は感極まってその場に泣き崩れてしまった。
「……テレサ、大丈夫?」
「うん……ごめんね」
 ルミアに支えられて立ち上がるが、まだ少しふらついている。ずっと夢見ていたことが叶うかもという期待と興奮で感情が制御できないようだった。
「すまんが急げるかな。俺はあまりこの町に長居できなくてね。尊死……ああいや、身体を構成する魔力のバランスとかその手の理由で」
「あ、はい……すみません。行きましょう」
 ルミアが慌てて謝ると、男は気にするなと言うように首を振った。どこかホッとした気配を感じたのは気のせいだろうか。
 二人は寄り添いながら男についていく。しばらく歩くと森を抜けて広場のような場所に出た。
 目の前には虹色のクリスタルで建てられた、大きな城がそびえ立っている。太陽の光を反射してキラキラと輝いている様がとても幻想的だ。
「王に宜しくな」
 男はそれだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。残されたルミアとテレサは顔を見合わせると、意を決して城の前に立つ。独りでに開いた門をくぐり抜け、城内へと足を踏み入れた。
 森の中と違って城内にスライムの姿は見かけない。至ってシンプルな造りの廊下を進み、突き当りの扉をそっと開けると、吹き抜けのホールに辿り着いた。
 大きく開かれた高い天井から降り注ぐ光に照らされているのは、森のスライム達の数十倍はあろうかという巨大なスライムだ。鮮やかなピンクとコバルトブルーのグラデーションが美しい。
 男の言っていた「王」だと一目で分かる。ルミアとテレサは緊張しながら、ゆっくりとそのスライムに近づいていった。
「あはは、そんなに固くならなくていいよ」
 頭上から突然、明るい女性の声が響いた。ルミアとテレサは驚いて見上げる。巨大スライムの頂部がぷるん、と震えたかと思うと、スライムの中を泳いで一人の少女が姿を現した。
 身長よりも長いストレートの赤髪を漂わせ、気の強そうな目つきをしているが、優しげな雰囲気を感じさせる。
 その背後からもう一人、波打った濃紺の髪を持つ少女が出てきて、赤髪の少女の右腕に絡みついた。おっとりとした笑みを浮かべてはいるが、同時にどこか底の知れない恐ろしさをも感じさせる。二人とも年齢はルミア達とそう変わらないくらいだろう。
「あ……あの……お二人がこの町の王、なのでしょうか……?」
 ルミアがおずおずと尋ねると、スライムの二人は揃って嫌そうな表情を浮かべた。
「ああ……うん、あのバカの言うことは真に受けなくていいから……私はレナ。こっちはグレース。一応ここの取りまとめ役みたいなことはしてるけど、王だなんてそんな大層な存在じゃないって」
 レナと名乗った少女は苦笑しながら自己紹介をする。傍らのグレースもクスクスと笑いながら続けた。
「それで貴女達は、この町への移住を希望ということで間違いない?」
「は、はい……!」
 テレサが上擦った声で答える。それからルミアと顔を見合わせ、大きく頷いた。
「お願いします。私達をスライムにしてください!」
 ルミアとテレサは揃って頭を下げた。
「一応言っておくけど、二度と人間には戻れないよ」
「構いません! 私達の子供が授かれない人間の身体なんて、もう要らない!」
 レナの警告にも躊躇うことなく答えるルミア。その眼差しには確固たる決意が宿っていた。テレサもまた同じだと言わんばかりに強く手を握り合う。
 そんな二人を見て、レナとグレースは微笑んで目配せすると、それぞれ隣り合う方の片手をスライムの外に突き出した。
 二人の掌に魔力が集まり始めると、そこから小さなスライムの球が形作られる。それは徐々に大きくなり、ルミアとテレサを包み込めるほどの大きさになると、ふわふわと揺れながら二人の目の前まで下りてきた。
 これから自分達が何をすべきか、説明されずとも理解できる。ルミナとテレサはスライムの球を前に改めて向かい合うと、お互いの両手を重ね、指と指を絡めて握り合った。
 相手の鼓動が伝わってくるようだ。息が詰まりそうになりながらも、最愛の存在を真っ直ぐに見つめ合う二人の表情はどこまでも穏やかだった。
「テレサ……ずっと一緒だからね」
「私もだよ、ルミア……大好き」
 額を合わせて言葉を交わし、二人はスライムの球に向き直る。そのまま一歩を踏み出し、臆することなく同時に球の中へと飛び込んだ。
 二人の身体がスライムの球体に取り込まれると、球体は光を放ちながら心臓のようにドクンドクンと脈打ち始めた。あとは一時間も経てば二人はスライムとして生まれ変わり、この町で平和に暮らせるだろう。
「はぁ……また増えたかぁ」
 レナがぽりぽりと後頭を掻きながら呟く。溜息混じりにグレースへ抱きつくと、彼女の豊満な胸にムギュウと顔を埋めて頬擦りした。
「ホントあのバカ、好き勝手してくれちゃって……やっぱりあの時、きっちり始末しておくべきだった!」
 物騒な言葉を吐くレナの頭をグレースの細い指が撫でる。不満げに膨らまされたレナの頬を摘みながら、グレースは「どうどう」と宥めた。
「まぁいいじゃない。確かに思ってたのとは違っちゃったけど、私は結構楽しいよ? 皆幸せそうだし、赤ちゃん可愛いし」
「そりゃそうだけどさ……」
 納得いかない様子のレナだったが、やがて諦めのついた表情で顔を上げる。苦笑いで首を傾げるグレースから身体を離し、スライムの中で変化を始めた二人を見やった。
 ドルボッグとの戦いをきっかけに、自分達が教会を裏切り魔に堕ちたあの日から、早三年。
 最初はメルカントの地下にでも居を構え、二人だけでひっそりと暮らすつもりだったのが、気がつけば百人を優に超えるスライム少女達と共にアンダーメルカントという魔物の町を創り上げてしまっていた。
 全ての元凶はカイルである。
 殺すまでもなさそうだが捨て置くのも危険だろうと、とりあえず魔物に変えて適当に放り出したのがそもそも間違いだった。
 ただのスライムにしたはずが何故か骨が残って妙ちきりんな魔物になったのはまぁどうでもいいとして、それから数日後、メルカントから何組もの少女カップルを引き連れて、自分達が潜む地下空洞に現れたことに唖然とした。
 地上で裏のコミュニティを作って支え合っていたのが教会に摘発され、見せしめに処刑されそうになっていたのを助け出したのだとか。何してくれてんだこの豚野郎と叩き潰した(死なない)が、自分達が支部を壊滅させたせいで権威の揺らいだ教会が汚名返上のために始めた異端者狩りに巻き込まれたのだと言われては放っておけず、止むなく全員をスライムに変えたのが今思えばこの町の始まりだった。
 その後もカイルはどこでどうやって見つけてくるのか、次から次へとカップルを連れ帰ってきた。その度にスライムに変えて受け入れていたら、あっという間に地下空洞は大勢のスライム少女ですし詰め状態になってしまった。
 仕方がないので空洞を拡張し、スライム少女達が暮らしやすいよう緑化を進め、川や湖を作り魔法で青空を持ってきて……とやっていたら、いつの間にやら立派な町ができあがっていたのである。
「私達だけより、今の方が絶対楽しいでしょ?」
「まぁ……ね」
 グレースの言葉にレナは素直に頷く。実際、幸せそうなスライム少女達の笑顔を見ていると悪い気はしないし、子供の誕生という自分達も意図していなかった奇跡さえ起きた。
 二人だけの狭い世界では、こんな幸福感は絶対に得られなかっただろう。
「ねぇ、レナ……私達も、そろそろじゃない?」
 するりと泳ぎ、レナの腰に手を回して抱きつきながら、上目遣いでグレースが言う。
「ん……分かってるんだけど」
 そう言いながら、レナは自分のお腹を擦る。レナだってグレースとの愛の結晶が欲しいと思うし、住民からも自分達の姫とも呼べる存在の誕生を心待ちにされている。
 しかし妊娠中は戦えない。元はただの一般人だったスライム少女達に戦闘能力がない以上、この町を守れるのは自分達だけだ。子供を身籠っている間にもし敵の襲撃を受けたらと考えると、なかなか踏ん切りがつかないのだった。
「今ならそこまで心配いらないと思うけどなぁ。地上の教会支部は掌握してるし、カイルのゾンビ軍団だってそれなりの戦力なんだし」
 グレースはレナの手に自分の手を重ねながら続けた。メルカント支部の司教は既に魔物が入れ替わっている。カイルはカップルを町に勧誘する際にとっ捕まえた、少女達の間に挟まろうとした野郎共をゾンビに変えて手駒として使っていた。
「そうかもねぇ……あのバカに頼るのは癪だけど」
「楽しんでる分はしっかり働いてもらわないとね♪」
 嗜虐的な笑みを浮かべるグレースに、レナはやれやれと肩を竦めた。
 二人はどちらともなく顔を近づけると唇を重ねる。舌を絡ませる深いキスを交わし、互いの唾液を啜り合うと、やがて満足したように口を離した。
「じゃあ……今夜あたり頑張ってみる?」
 グレースで耳元に囁かれた言葉は甘く蕩けそうな響きを伴っている。レナは頬を紅潮させながらも頷いたのだった。

 それからさらに数年後。
 町どころか一国規模にまで膨れあがったスライム少女の勢力は教会も魔王軍も飲み込み、この世界に新たな秩序をもたらすことになるのだが……それはまた、別のお話ということで。

講評

評価基準について

定義魅力提示総合
AABB
評点一覧

「AIのべりすと」を使用した作品であり、文字数は約4.7万字と、今回のコンテストの応募作品の中で二番手の長さを誇る小説作品である。
前回応募の作品と比べると半分ほどの長さとなっているが、それでもかなりのボリュームである。

しかし作品のボリュームの大きさに対して大変読みやすい文章となっており、展開としても順を追って丁寧に物語が進んでいくため、最後まで詰まることなく通して読んでしまえる作品である。

前回課題となっていた点も多く解消されており、作品の見せ方としては磨きが掛かっているように感じる。
ただし、「AIのべりすと」の癖なのか、平易な文体の中に突然古風な言い回しが登場するなど、所々違和感を感じる表現があるほか、誤字脱字が多い。文体を統一するほか、できた文章をきちんと読んで誤字脱字を減らす努力を行い、あくまで「自分の作品」としてから提出すべきである。

また、きちんと悪堕ちを描けてはいるものの、悪堕ちした後にエピローグとして「悪」をひっくり返す展開となっているため、「なにが悪か?」という、悪堕ちの定義に絡む部分、悪の軸がぶれる要因が残ってしまっており、その観点では堕ちた後の展開が蛇足となっている。

悪堕ち作品としては筋が良いため魅力点は高得点だが、前述のように構成や作品の見せ方、または「作者らしさ」が見えないことにより提示点が低くなっている。
小説を多く書き、作品の見せ方をきちんと磨いていけば、より良い悪堕ち作品を生み出すことができるだろう。