江戸幕府の三代目将軍、徳川家光がこの世を去った。
 慶安けいあん四年、四月二十日の出来事である。四代目将軍の座は長男の徳川家綱が受け継ぎ、将軍世襲制は確固たるものになっていた。
 そんな折り、徳川家に代々仕えてきた忍衆の長、服部半蔵はっとりはんぞうはとある尼寺を訪問する。
目当ては白髪の女僧が飼っている三毛猫だった。
「ほほう。確かに立派な三毛猫のおすでございますな」
 半蔵は嫌がる三毛猫を抱き上げて、股に陰嚢ふぐりが付いているのを確認する。
「お客人。その辺で放してやってくれないでしょうか。ミケは大人しいので、人様を引っいたりはしませんが、嫌なものは嫌なのです」
 優しげな女僧は半蔵の意地悪を咎める。
「これは失敬。いやはや、何とも愛らしい猫だ。三毛猫の雄は珍しい。船乗りの間では幸運をもたらしてくれると信じられている。高値で買いたがる者がいたでしょうに……。どうですか? この三毛猫、私に売ってはくれませんか?」
「大判小判を積まれてもお断りいたしますわ。ミケは終生の連れ合いでございます。金品などより、私にとっては大切な伴侶ですわ」
「ははぁ、そうですか。まあ、そういうことなら致し方ない。この猫は貴方によく懐いている。私のような醜男では横取りできそうにありませんな。諦めるとしましょう。いやはや、本当に残念だ」
「将軍様にお仕えする御庭番の頭領が、なぜこのような寂れた尼寺に? まさか私が飼っている猫に会うためではないでしょう」
「はっははは。そのまさかですよ。他にも理由はありますがね」
「…………」
「そんな恐いお顔をなさらず。額から鬼の角が生えてきそうな表情をされておりますよ?」
「私の猫を返していただきたい」
「はっははは。この冗談は面白くありませんか?」
「ええ、あまり快くは思いませんわ」
「冗談に聞こえていないのであれば、なおさらそう感じるでしょうな」
「…………。ミケ、こっちにいらっしゃい」
 半蔵から解放された三毛猫は女僧の膝元に駆け寄った。
「話は大きく変わりますが、十五か十六年ほど前、柳生家やぎゅうけに迎えられた養子の噂をご存知か?」
「もちろんですわ。つまり、それは私の子供でしょう」
 女僧には子供がいた。
武の名門たる柳生家に預け、ちょうど今年に元服を迎えている。
「鬼人の如き強さ。剣豪の一門、柳生家が仕込んだとはいえ、あの若さであれほどの剣腕。なかなかお目にかかれない。ちまたで評判ですぞ。武者修行で北方を巡られているとか?」
「あの子なりの考えがあるのでしょう。私からは何も言っておりませんわ」
 意味深に笑う半蔵は別の話題をふっかける。
「これまた話は大きく変わりますが、先の将軍である徳川家光様が倒れられたとき、とある茶碗を持っていたのです。『花吹雪が……』と呟いて、卒倒されたそうな」
「その茶碗に毒薬が塗られていたとでも?」
「いやいや、毒であれば御庭番の忍衆が気付きましょう。ただね。茶碗の出所が問題でして……」
「出所?」
妻鹿貴之國めがきのくにで作られた代物だった」
 女僧の表情が強張った。半蔵は三毛猫の体毛が逆立っていることも見逃さなかった。
妻鹿貴めがきは忌み地でしてね。先代の服部半蔵が二度ほど忍軍を送り込みましたが誰一人として帰ってこなかった。一度目は二十六年前、二度目は十六年前……。あの地で何が起きたか。ご存知のはずだ」
「さすがは将軍お抱えの御庭番ですわ。私の正体を調べたのですね」
「ええ。おぼろひめ殿。貴方は妻鹿貴の姫君だった。十六年前に故国から逃げ延び、連れていた三毛猫と共に柳生家に保護された」
「その通りですわ。私の乳母が柳生家に縁のある人物でした。その伝手を頼りに匿っていただきましたわ……」
「当時は誰も気にかけなかったが今は違う。その三毛猫。随分と長生きですなぁ」
「……」
「猫が十六年も長生きするものかと思いましてねぇ」
「…………」
「仮に単なる猫だったとしても、私にはその猫が十六歳の老獣には見えない」
「この子を引き渡すつもりはございません。しかし、知りたいことがあるのなら、全てをお話いたしましょう。ただし、お約束ください。今後一切、私達に手出しをしないと……」
「ええ。構いませんとも。ただし、包み隠さず話してもらいますぞ。私は御庭番の頭領として知らねばならない。妻鹿貴之國に送り込まれた忍衆がどうなったのかをね」
 三毛猫を膝に乗せた女僧は、妻鹿貴之國で起きた忌まわしい事件について語り始めた。
「事が起きたのは私が八歳のときでした」
 十六年前、若い男女が一匹の犬を連れて、妻鹿貴之國に入り込んだ。
不穏な事件が立て続けに起こる忌み地。御庭番は北方に潜む闇を曝くべく、忍術使いの青年と少女に内偵任務を与えた。

 男忍の名は甲原かんばら虎太郎こたろう、甲賀流の系譜である。
 女忍の名は伊月いづき春華はるか、伊賀流の系譜である。

 二人が内偵任務に志願した理由は、お互いの両親が前回の潜入で行方知れずとなっていたからだった。しかし、妻鹿貴之國で起きた真相を知ったせいで、虎太郎と春華の運命は捻れ狂ってしまった。

【第一章】妻鹿貴之國に棲む業魔