作品名
聖女の在処
ペンネーム
明太もずく
作品内容
「天におられるわたしたちの父よ──」
教会の礼拝堂。ステンドグラスを通して陽光が注ぐ十字架の下で、私──シスター・アンナは跪いて祈りを捧げていた。翡翠色の目を瞼で塞ぎ、両手を合わせ無心であろうとする。それでも自然と眉間に皺が寄り、握ったロザリオの鎖が揺れた。
「──わたしたちの罪をおゆるしください──」
「シスター! シスター・アンナ!」
声に続いて、礼拝堂の扉が音を立てて開く。驚いた私が振り向くと、そこに一人の男の子が立っていた。修道服のあちこちに土汚れをつけ、泥だらけの両手で白百合の花束を握り、私の下へ駆けてくる。
「花壇のお花、綺麗に育ったから持ってきたんだ!」
「まあ、ありがとう。シャル」
花束を受け取ると、男の子は──シャルは照れくさそうに鼻の頭を擦った。顔に付いた土汚れが広がっていく。ハンカチを取り出して顔を拭いてあげようとしたら、彼は嫌がるように身をよじった。
「ほら、動いてはだめですよ」
「やめてよシスター、恥ずかしいよ」
恥ずかしかったら、次からは忘れずに手を洗いましょうね。
前もそう言い含めたのだけれど、また忘れてしまったのかしら。少し呆れてしまう。この子に悪気はなく、私に花を届けたいあまりに起こした行動だと分かっているから、むやみに厳しく叱るのも躊躇われる。
「次は忘れずに手を洗いましょうね、私もついてあげますから」
「手くらい一人で洗えるって!」
手のかかる様が可愛らしく、思わず微笑みが浮かぶ。孤児だった彼を拾い、二人で教会に暮らすようになってからも相変わらずの無邪気さに、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。
しかし、穏やかな時間は長くは続かなかった。血相を変えた青年が礼拝堂に転がり込んできたのだ。
「シスター・アンナ! 大変です! 騎士様が‼」
青年に付いた血を見るまでもない。ただならぬ事態が起こったのだと──また、私の力が必要になったのだと、すぐに分かった。先導する彼の後ろを走りながら、私は密かに煩悶するのだった。
◇
私たちの世界には魔物と呼ばれる存在がいた。魔物たちは人間を襲い、その生活を脅かしていたのだ。人々を守るべく国から騎士たちが派遣されたが、矢面に立つ彼らが無事でいることはなかった。
傷を負い痛みに呻く者、天に召された仲間を憂う者、魔物の集団によって住居を追われて悲痛な面持ちを浮かべる者。私が幼いころから、それらは常に隣り合わせだった。故郷を失い、逃げる中一人はぐれてしまい、知らない町に転がり込んだ私のように。
私は教会に引き取られ、神父様に育てられた。神父様はいつもおっしゃっていた。今私たちがこうして生きていられるのは、幸運であり、日々の糧を作る人々のおかげであり、守ってくれる騎士たちのおかげだと。そして私たちを見守ってくれる神様のおかげだとも。
神父様が亡くなり、私がシスターとして後を継ぐことを決めたのは、彼の教えに報いたいと願ったからだ。嘆く人々を労り慰め、医療を学び騎士たちの傷を少しでも癒し、日々を暮らしていられることの感謝を神様に伝えたいと。
そんな私の行いを神様は見ていたのだろうか。ある日、夢枕に神様が現れて、私に癒しの力を授けてくれたのだ。シャルが持ってきた萎れた花に触れると、光と共にそれは再び瑞々しさを取り戻したのだ。驚く彼を置いて、私は騎士団の詰め所へ駆け込んだことを覚えている。騎士たちが負った傷も、私が手をかざすと、みるみるうちに癒えて傷跡すら残さなかった。
これまで騎士が負っていた傷は、精々が包帯を巻いて清潔にする程度の処置に任せていた。当然、完治するまでに時間がかかり、その間は痛みに耐えなければならない。だが、癒しの力はその苦痛を容易く取り払ってしまったのだ。目撃した騎士たちから噂が広がり、人々の間で癒しの力は奇跡と呼ばれるようになった。奇跡の力を持つ私は一目置かれ、聖女などと大げさに呼ばれることさえあった。
気恥ずかしさこそあったものの、私も皆の力になれることを喜ばしく思い、力を授けてくれた神様への祈りを一層深めていった。いつの日か、幸いが皆にもたらされると信じて。
◇
「シスター・アンナ、こちらです!」
町外れに人だかりが出来ていた。何が起きたのかと野次馬が集まり、騎士たちがそれを止めている。シスターが通る、と青年の声を聞いて人だかりが割れ、その合間を抜けていく。
何が起きて誰がどうなったのか、不安混じりのの声が変わっていった。シスター・アンナだ、聖女様だ、聖女様が来られたからもう大丈夫だ、助かるんだ。いくつもの畏敬の視線を向けられたが、気に留める余裕は私にない。勲章を付けた騎士──騎士団長の下へ駆けていく。
「団長様、状況を!」
「重傷者が三名! 一人は胴体をやられて意識がなく、残りの二人は脚に傷を負っています!」
団長が屈み、すぐ傍の担架を指し示す。担架に寝かされた三人はいずれも患部に布を被せられていた。布に赤黒い染みが滲んでいる。二人は鎧を脱がされ痛みに呻いていたが、胴体に傷を追った者は鎧を身に付けたままで、意識を失っているようだった。
「板金が変形しています、圧迫してどうにか止血はしましたが、これではもう──」
「いえ、彼から治療しましょう──お二人ともあと少しの辛抱です、もう少し待っていて下さい」
自分は平気です、どうかこいつを助けて下さい。沈痛な面持ちと共に吐き出された願いを受け、意識が戻らない騎士の傍で跪く。鎧が爪や牙で抉られた惨い有り様だ。まだ脈はあるが血色がない。ここに運ばれるまでに血を多く流してしまったようだ。
──けれど、この力があれば。
患部に手をかざして力を放出する。ふわりと風が巻き起こると白い光が渦巻き出した。私の体から生れ出た光は患部へと集束していき、ゆっくりと傷を癒し、変形した鎧すら盛り上げる。失われた肉体が復元していく。周囲から感嘆の声が聞こえてくる。
しかし、騎士の意識は戻らない。血を失いすぎたのか、顔色は青白いままだ。
──お願い、間に合って!
私の意思のままに光が強さを増した。額に汗が滲む。光の奔流に修道服が舞い上がり、吹き飛んだフードに隠されていた金色のショートヘアーがはためいた。ぼやける視界と薄れる感覚を、歯を食いしばってどうにか耐え凌ぐ。
「……ぅ、ぐ、うぅ……げほっ、ごほっ!」
「シスター! 意識が戻りました! ……シスター!」
傍で控えていた団長の声が響き、我に返った私は力の放出を止める。見ると、気を失っていた騎士は意識を取り戻していた。呻き声をあげて気道に入った血痰を吐き出す彼を、団長が揺さぶっている。
「ごほっ……だ、団長……ここ、どこっすか……? 俺、確か……」
「無事か? 無事なんだな⁉ シスターが助けて下さったんだ! 良かった……本当に……」
状況に戸惑う騎士と喜び感極まる団長を置いて、私は残りの二人に向き直った。それぞれの傷に片手をかざし、同じように光を集束させる。苦痛に耐えていた彼らの顔が、光に照らされて和らいでいった。
「お二人とも……痛く、ありませんか……?」
「平気です、むしろ、痛みが引いて行って……」
「温かくて、力が湧いて来る感じです」
怪我の具合を見ようと患部の布を解く。血痕の付いた布の下で、穴の空いた傷や裂傷が光で塞がれて、盛り上がる様が露わになった。傷は蚯蚓が這ったような赤い跡に変わり、やがて痕跡さえもなくなった。
そうしてようやく私は力を解くことが出来た。額を伝う汗を拭い、肩で息を付きながら、精一杯体裁を整える。
「これで、大丈夫です……まだ、治りたてなので、しばらくは、安静に……して、ください、ね……」
立ち上がろうとして、体に力が入らないことに気づく。ふらついた体を支えることも出来ず、そのまま前につんのめって倒れてしまった。
「……ター、シ…タ…!」
「大……です…! し…かり……く……い!」
ああ、まただ。また、倒れてしまった。どうしたのだろう。以前の私は、こんなに心配されるほどではなかったのに。
仰向けにされ、担架に寝かされる感覚を最後に私は意識を失った。私を案じる人々の視線と声を受けながら。
◇
癒しの力を得ても、全てを救える訳ではなかった。奇跡の力を持つのは私ただ一人。何人も同時に治療出来るはずもないのだ。
ある時、致命傷を負った騎士が二人運ばれてきた。背中を貫かれた者と、腹部を抉られた者。当時の私は二人とも助けられると思い上がり、同時に力を行使して、無理がたたり気絶したのだ。治療が途切れたことで一人は命を失い、もう一人は助かりこそしたものの後遺症で二度と戦えない体になってしまった。
──命を拾えただけでもうけものです。
彼はそう語っていたが、本当にそうだろうか。人々を守る使命を半ばにして、剣ではなく杖を片手に歩く生活に満足しているだろうか。目の前で死んでいった仲間を思い返すことはないだろうか。いまや聖女などと呼ばれる私に、当てつけなど出来ないだけではないか。
二度とこんな事態を招かないよう、私は力の習熟を求めた。祈る時間を削り、草花を相手に癒しの力を行使して鍛錬にあてる。町中の花壇の花が咲き誇るようになったころ、私はある違和感に気付いてしまった。
──癒しの力は、私の命をもって行使しているのではないか?
癒す対象の損耗が酷いほど、癒す対象が多いほどに疲労は増すと分かった。幾度力を行使しても慣れることはなく、気だるさが積み重なるばかり。朝になってもベッドから起き上がれず、心配したシャルがやってきて、ようやく私は自らの愚かさに至った。
──授かった力に溺れた末路だろうか。
シャルに水を汲んできてもらい、水面に映った私の顔を見る。酷いものだった。瞼がずり落ち、翡翠の瞳は濁っている。目の下に隈が縁取られ、こけた頬はかさついていた。滑らかな金色の長髪はくすんで見る影もない。シャルに頼んで短く切ってもらったが、密かに気に入って伸ばしていた髪の有り様を見るとやるせない気持ちになった。
──顔色悪いよ、シスター、平気?
──シスター・アンナ、お体に気を付けてくださいね。
──我々の聖女様だ、何かあっては大変ですからな。
私の体は私だけのものでないと、気付かないままなら良かったのだろうか。彼らが労わっているのは、シスター・アンナか、それとも奇跡を行使する聖女か? いずれにせよ私が始めたことだ。皆から求められているのなら、例え愚かな選択だとしても、私は己の務めを果たさなければならないだろう。
◇
「シスター、大丈夫?」
目が覚めると、私は自室のベッドに横たわっていた。私に寄りかかるように身を乗り出したシャルが、心配そうに私を覗き込んでいる。疲労だけでない重みに小さく呻いた私を見て、ようやく彼は体をどけてくれた。胸元やお腹に彼の温もりが残っている。
「ごめんなさい、シスター。もう起きても大丈夫?」
「……ええ、少し立ち眩みしてしまって」
「それならいいけど……今日はもう休んだ方がいいよ」
シャルは水差しを手に取ると、コップに注いで私に手渡した。冷えた水が心地良い。
「晩になったらご飯を持ってくるから! 今日は寝てなきゃだめだからね!」
分かりましたと微笑みで返し、慌てて部屋を去っていくシャルを見送った。一回り歳が離れた彼が、いつの間にか頼もしく見える。神父様が亡くなり、二人きりになった時から弟のように想っていたが、もう少し大人扱いしてあげるべきだろうか。
一人残され、手持ち無沙汰に飾り気のない部屋を見渡す。すぐ傍の机に花瓶が──シャルが持ってきてくれた白百合が活けてあった。水気を失っている。水を入れ忘れたのかと苦笑して、花瓶に水差しの水を与えようと手に取った。
「えっ……?」
私が手を伸ばした瞬間、白百合の花が解けるように散ったのだ。白い花弁がひらひらと舞い、伸ばした手をすり抜けて床に落ちていく。その様はまるで、人間の首が落とされたように見えた。
伸ばした手を戻し、大人しく床に就く。今の自分が酷く汚らわしいものに見えてしまった。命を救うはずの手で、命を奪ってしまったような気がして。眠ってしまえば忘れられるだろう。そう願って目を閉じた。
◇
「シスター! ご飯だよ、起きて!」
「起きていますよ、シャル。ありがとう」
陽が落ちて窓の外が暗くなったころ、シャルが大きな声で私を起こしに来た。彼が戻ってくるまでに表情を取り繕えるほど回復出来たのは幸いだった。花瓶の花を取り替えているシャルから、顔色が良くなったねとお墨付きも得た。
「おいしい?」
「ええ、おいしいですよ」
持ってきてくれた粥を食べる私を、シャルは微笑みながらじっと見つめている。また上手くなりましたねと付け加えると、彼は子犬のように目を細めて笑った。可愛らしいと言えばそうなのだが、見られながら食事をするのは少し落ち着かない。かといって私が見つめ返すとシャルは視線を外すのだ。悪戯のつもりかしら、と内心首を傾げる。
「でも良かったよ、シスターが元気になって。何度もお花を替えた甲斐があったのかな」
「えっ? お水じゃなくてお花をですか? それに何度もって……」
「うん。シスターが寝ている間、不安で何度も様子を見に来たんだけどさ。その度に花が萎れちゃってたんだ、お水はちゃんと入れたはずなんだけど、不思議だなって」
ひょっとしたら、シスターに元気を分けてくれたのかもしれないね。
何気ないつもりだろうシャルの言葉が、私に一つのことを想い至らせる。もしそうだったら、私は──
「でも今日はもう遅いから寝ること! おやすみなさい、シスター!」
「はい、分かりました。おやすみなさい、シャル──ほんとうにありがとう」
扉が閉まり、去っていく足音を聞いてから、私は白百合に手を伸ばした。かさりと音を立てて、私が触れたところから花が乾き始める。淡い光が灯り、私の中に吸い込まれて消えていった。
「ほんとうに力を分けてくれたの……」
落ちた花を前に、私はあることを決心した。音を立てないようこっそりとベッドから抜け出すと、誰にも見つからないように教会を離れ、夜の町へ歩みを進める。これからすることは、決して誰にも知られてはならないのだから。
◇
朝早くに目覚めた私は、自分の中に活力が戻ったことを実感した。鏡を見ると、生気に溢れた自分の姿が映っている。瞳はかつての宝石のような輝きを取り戻し、隈どころか肌にシミ一つ付いていない。切り落としたはずの髪が少し伸びている気さえした。
「上手くいって、しまいましたね……」
後ろめたさはあったが、この力は無駄にしてはいけないという思いもあった。決意が揺らぐ前に迅速に行動しなければならない。おはようの挨拶をするシャルに返事もそこそこに、私は教会を出た。
「お早うございます、シスター。朝早くにどうされましたか?」
私が向かったのは騎士たちの詰め所だ。昨日の今日で現れた私を見て、彼らは心配半分訝しさ半分の様子だった。試したいことがあるとどうにか話を付ける。聖女の名を持ち出したことで、内心はどうであれ彼らは嫌とは言わなかった。
「シスター、皆を集めました」
「ええ、ありがとうございます」
駐在している騎士たち全員に集まってもらった。彼らの三分の二は傷を負っている。聖女様に癒してもらうほどではないと彼ら自身で治療を拒んだ、騎士たちの勇猛さ、意思の強さを表す傷だった。その強さだけでは守れない残酷な現実があると、彼らも身をもって知っているはずだ。気まずさと緊張を和らげるため、大きく深呼吸をする。
「皆さん。私たちを守るため、魔物と戦っていただき本当にありがとうございます。ですが、そのために貴方がたが傷つくことは、私たちも、もちろん貴方たちも望んでいないでしょう」
私はずっと、皆の支えになるために何が出来るかを考えてきました。皆のために戦う騎士様たちの傷を癒す、それも一つの方法だとも思っていました。
しかし、それでは足りません。私の力では肉体は癒せても、心の傷はすぐに治らないでしょう。受けた苦痛も、魔物に脅かされた人々の恐怖も、それらを忘れるには長い時間が必要となるでしょう。
「──ならば、初めから奪われないようすれば良いのです。私の力を、加護として貴方たちにお渡しします。どうか、皆様の無事を祈らせて下さい」
跪いて祈りを捧げると、私の体から光が、溜め込んだ力が溢れ出した。騎士たちのどよめく声が聞こえてくる。無理もない。いつもの淡い光ではない、目を開けていられないほどの光が渦巻いているのだ。光の粒子は騎士一人一人に溶けこんでいった。枯れた花を蘇らせる活力が、彼らの肉体に宿っていく。
わっと歓声が上がった。腕の包帯を解いた騎士が、鎧を外した騎士が、肌にあっただろう古傷を探している。ある騎士は武器を高らかに掲げ、またある騎士は鎧を着たまま胸を張った。湧き上がる力に驚きながらも高揚しているようだった。
「力が湧き上がってくる!」
「これなら魔物になんざ負けやしない!」
私が起こした儀式は、予想を超えて彼らに戦意の高揚をもたらした。与えられた力に発奮し、鬱屈した感情を晴らそうとしている。仲間が傷つき、命を脅かされる様を直に見届けてきたのだから当然かもしれない。
「シスター、これほどの力を使って貴方は平気なのですか?」
「ご心配なく、そのために準備をしてきましたので」
あくまで冷静に私を案ずる騎士団長に、微笑みながら返す。彼らの命に比べたら、なんてことのない準備だったと、そう自分に言い聞かせて。
◇
私が力を与えてから、騎士たちは快進撃を続けていた。誰一人傷を負うこともなく魔物たちの侵攻を妨げている。成果が現れたのは防衛だけではない。一昨日、斥候が魔物の住処を発見したのだ。今頃、襲撃をかけているころだろう。彼らは無事に帰ってくるはず、また一つ、私は皆の力になれたのだ。
「シスター、どうも気がかりなんですが……」
教会内の告解室。格子越しに姿が見えない相手から、私は告解を受けていた。人々の悩みを聞くこともまた、私の役目の一つだ。
「最近の騎士様がた、少しおっかないのです。いやなに、乱暴狼藉を働くのではないですが、ただその……あまりにあっさりと、魔物を退治してくるもので……」
「ええ、それは騎士様たちの努力の成果でしょう。神様が、彼らが傷つかないよう見守ってくださっているのですよ」
何も恐れることはありません。彼らもまた私たちと同じ人間なのですから。
「……ですが、そういった話が広がるのは好ましくありませんね。彼らもまた人の子です。騎士様たちが無為に恐れられないよう、私からも働きかけてみますね」
「そう言ってもらえるとありがたいです、それともう一つ……伝染病のことですが……」
最近になって、町の植物が次々に弱っていく現象が多発していた。特定の植物が弱り枯れていく様を、未知の伝染病だと人々は恐れたのだ。水や肥料をやっても改善の兆しは見えず、いつしか町で観賞用の草花は貴重になっていた。
「麦や果実が無事なのは幸いですが、いつ病がうつるのかと思うと気が気でないのです……どうか、聖女様のお力をいただきたく……」
「ええ、分かっています。微力ながら尽くしましょう」
お願いします。格子越しに会釈をし、告解者は部屋を後にした。足音が遠ざかり、やがて消える。
「ふう、困ったことになりました……」
この手の告解は初めてでない。騎士たちに力を与え、魔物という脅威が遠ざかった今、人々は他に意識を割きやすくなっているのも理由の一つだろう。
「人がいなければ、草花を芽吹かして育むことも出来ないでしょうに……」
伝染病の原因は、私が草花から力を奪っているからだと明かす訳にもいくまい。仮にそうすれば聖女の名は失墜する。私が与えている加護を失えば、騎士たちも彼らが守る人々も無事では済むまい。
多少乱暴な手段を取ってでも、騎士たちに与える加護をもたらすだけの、力を調達する必要がある。可能な限り穏便に済ませたかったが、人々を守るためにはやむを得ないだろう。幾度も力の授受を行使したおかげで、対象の力を完全に奪ってしまう失敗は起こさないはずだ。
「やはり、危険を冒すしかありませんか……」
伝染病の噂を揉み消し、なおかつ新たな力の供給源を確保する。二つの問題を一挙に解消する方法はあった。使いたくないと避けてはいたが、もう忌避してはいられない。
──私は聖女として、皆が生きる手助けをしなければならないのだから。
ロザリオを握り祈る。私の成すことが上手くいくように、どうか、人々が一つにまとまり、健やかに暮らせますようにと。
◇
数日後のことだ。深夜、力の収奪を終えた私は帰路を急いでいた。見張りの騎士たちに詳細は伏せた上で事情を説明したが、あまり騒ぎになるのは好ましくない。だが、頭では分かっていても忘れさせてしまう、力を得た高揚感が私を満たしていた。
「お帰りなさい……シスター」
「シャル! あなた、どうしてここに?」
だからこそ、教会の扉を開けた先に待ち受けていたシャルの姿に、私はとても驚かされた。こんな夜遅くに灯りも点けずにどうしたのか。月明りで照らされたシャルの顔は暗い。眉をひそめて唇を噛み、重苦しい表情が露わになっていた。
「どうしたの? 夜遅くまで起きていたら、明日起きられなくなってしまうでしょう?」
膝を折り目線を合わせて問いかけても、シャルは何も話してくれなかった。私と視線を合わせようとして、すぐに逸らす。口を開こうとしては閉じている様は、何をどう言うべきか迷っているようにも見えた。私がじっと見つめる中、とうとう彼は俯いてしまう。
「……もしかして、寂しくさせてしまったかしら。それなら今夜は一緒に寝ましょう? それなら──」
「シスター・アンナ! ……シスターは、こんな夜中に、何をしてたの」
精一杯出しただろう大声が私の言葉を遮った。シャルは私の話を忘れてしまうことはあっても、話を遮ったことは一度もない。
「ちょっと前に倒れたばっかりなのに、そんな無理してまでしなきゃいけないことなの?」
「身体はすっかり良くなったから──」
「じゃあ夜中にこっそり抜け出したのはどうして? 皆に知られてほしくないことがあるの?」
そんなシャルが、私の返事を待たずにまくし立てる。
「シスター、最近お花のお世話もしてないよね。そんなに忙しいの?」
「それは、町中に伝染病が広がっていて、原因を調べようと──」
「だったら町の外まで出ていったのはどうしてさ?」
言葉に詰まる。何故、シャルがそれを知っているのだ。
「ぼく、見ちゃったんだ。シスターが夜中にこっそり出かけているところを。騎士様たちとお話しているところを。何を話していたの?」
「……それは、退治した魔物についてお話ししていたのですよ。彼らも生き物ですから、弔ってあげないと」
「ぼく、ずっと気になってたんだ。やっつけた魔物がどうなったのかって。……昨日、こっそり抜け出してみたんだ」
気づかなかったでしょ、シスター。今日みたいにいつも出掛けていたんでしょ、皆に知られないように。叱られることを恐れる子供のように、シャルは私の様子を窺いながら続けた。彼の視線は私の顔に向いていない。
「町外れにお墓を見つけたんだ。……骨と干からびた皮しかなかった。角があった頭があったから、魔物だって分かったよ。……ぼくが掘る前に、掘り起こされた跡があった」
「……」
「シスターの服、土で汚れちゃってる。……お花の世話じゃなくて、お墓を作ってたんだよね? ……そうだよね?」
「…………」
「シスター……シスターが使う奇跡って、お花を咲かせたり傷を治したり出来るんだよね。でも、無理をして使うと倒れちゃうこともあって、大変だって……」
でも、最近はそんなこともなくて。代わりに町中のお花が枯れちゃって。なのに、ぼくたちが食べるパンを作る麦は元気なままで、おかしいなって。
「だから、ぼく、こう思ったんだ。シスターの奇跡は、シスターやシスターが選んだお花から借りているんだって。……それで、シスターは──」
「魔物の死体を掘り起こし、骨と皮になるまで力を奪い、素知らぬ顔で皆に分け与えていると。……それで正解ですよ、シャル。あなたは聡い子ですね」
でもいけませんよ、シャル。私の成すことを妨げてしまっては。
私の発言に呆然とするシャルの隙をついて、教会の扉を閉める。私から遠ざかろうとした彼の服の裾を掴んで止めた。ステンドグラス越しの月光は私たちまでは届かない。闇が互いの表情を隠してくれた。
「シスター・アンナ! やっぱり──」
「いけないことですか? 皆を助けるために、命を奪うことがそんなにいけないことでしょうか?」
「でも──」
「私たちが日々の糧に頂いているパンもまた、いくつもの命で出来ています。魔物たちもまた同じ。同じ命であるならば、お恵みに感謝を捧げ利用することは悪いことでしょうか?」
それでもまだシャルは納得いかないようだった。優しい子だ。私の教えを、神父様からの教えを守ろうとしていることを嬉しく思う。
しかしその優しさは、時に救える命を取りこぼしてしまうこともある。私が知ったように、彼にもその事実を教えるべきだったのか。出来れば知らないままでいてほしかったが。
「魔物が私たちの命を脅かすのなら、私たちは立ち向かわなければなりません。……そのためになら、私は手段を選びません」
「それでもっ……それでも、隠れてこんなことをして、皆が知ったらどうするつもりなんですか⁉」
「ええ、皆が知れば聖女の名は陰るでしょう」
だから、知られなければ良いのですよ。
「──貴方が私を邪な目で見ているように、ね」
「シスター・アンナ──むぎゅっ⁉」
シャルを抱き寄せて唇を奪う。家族として共に暮らしていた相手の不意打ち気味の暴挙に、シャルは目を白黒させる。文字通り彼の口を塞いだ私は、抱きすくめた相手の命を──力の源を探り当てると、おもむろに啜り始めた。シャルの体から淡い光の粒子が生まれていき、繋がった口を通じて私に運ばれていく。
(あぁ、残念です──シャル、貴方が知らないままなら、私が気づかないままなら、こうはならなかったのに)
腕の中で抵抗が弱まっていく。呼吸を塞がれたにも関わらず、シャルの瞳はとろんと甘く蕩けていた。
私は草花や魔物の死体から力を奪っていた。乾いた大地に水が染み込むように、消耗した私は花の命を吸う感覚を理解し、力を得る悦楽を知ってしまったのだ。力を行使する鍛錬の成果は、生物から死なない程度に力を奪うことに遺憾なく発揮してしまった。
「──ぷぁ、はぁ、はぁ……し、シス、タ……」
「ええ、貴方の言う通りですよ。ですが……皆が見ているのは聖女であり、私──シスター・アンナではありません。聖女として皆の支えになれるためなら、シスター・アンナはどこまで汚れてしまっても構わないのですよ」
シャルの口を再び塞ぎ、彼の反論を許さない。信じた相手の口から信仰を冒涜する言葉を聞き、命まで脅かされて、今の彼はどんな気持ちだろうか。死にたくないと思っているだろうか。私に失望しているだろうか。意識を失い瞳を閉じ、かさついて筋張った掌で私に縋りつき凍りつくシャル。今にも消えそうな命の灯火で私を止めようとしているのか、それとも──
(命の危機に瀕しているのに喜んでいるなんて──まさか、私から迫られて悦んでいるのですか?)
快楽か、あるいは生命の危機に陥ったことで種を残す本能が働いたのか、シャルのものが膨らむ感覚を体で感じ取る。彼が私に欲情しているのだと、僅かに残された命は雄弁に語っていた。
(……少し、残念です)
生理現象とはいえ、弟のように想っていた相手からの欲情は、嫌悪と失望、それ以上の諦観を私に与えた。彼が私に求めていたように、私もまた彼に過剰な清廉さを求めていたのだと理解はしている。それでも、役目を果たすため閉じた鉄の心を、軋ませるだけの意味はあった。
(貴方には私を理解して、共に歩んでほしかったのかもしれませんね──シャル)
皆に慕われ希望の象徴として在るべき聖女ではなく、聖女の裏で汚れていく私──シスター・アンナのことを。しかし、シャルはそう望まなかった。綺麗なままの私を求めていたのだろう。
(まあいいでしょう。それはそれで、このまま全てを奪い尽くさなくても、利用価値はありそうですから)
命の流れを変える。失われた命を、奪った命を彼に与え直す。シャルを包むか細くなっていた光が蘇っていく。枯れ木のような四肢が瑞々しさを取り戻し、閉じた瞳が開くまで、そう時間はかからなかった。
「シスター……なん、で……ぼくを、たす、け……?」
「貴方の意思を聞きたかったからですよ、シャル」
目を覚ました彼の額に口づけをし、膨らんだ下腹部の辺りを撫で上げる。シャルは顔を赤らめると俯いてその身をもじもじさせた。可笑しな子だ。信じていた相手に殺されかけたはずなのに、こうして初心で無防備な姿を晒しているとは。
「シャル、私は貴方を家族のように想っています──ですから、協力してくれませんか?」
「きょう、りょく……?」
ええと頷き、修道服を開けた。脱いだフードでロザリオを包み床に置く。命を吸った影響か、以前よりも豊かになった体付きが露わになった。シャルは顔を背けようとするも、視線は私に──大きくなった二つの乳房に釘付けのままだ。与えた命を幼い股間に溜め込み膨らませている。
「貴方さえ黙っていてくれたら何も問題はないのです。……そうですね、貴方さえ良ければ、私のお手伝いをしてくれませんか? お礼として貴方の望みに応えられるかもしれませんよ?」
彼は私をどう求めるのか。姉のようにか、母親と重ねるか、それとも女としてか。どれでも構わなかった。いずれにせよ、篭絡の鍛錬になると割り切っていたからだ。
私の細い指先で触れてやると、シャルはぴくりと全身を震わせた。彼は私の行為に肯定も否定も、拒絶さえもしなかった。もしかしたら、彼も私を脅してこう持ち込むことが目的だったのかもしれない、というのは穿ち過ぎだろうか。
「求めないのですか? ……遅くまで起きていたんですもの、明日は少しくらい寝坊しても許してあげますよ」
シャルは覚束ない足取りで私に甘えに来た。私に抱き着くと胸にすがりつき、顔を埋めている。私を案じ、求める声が聞こえてきたが、それに大した意味はすでになかった。
ステンドグラスから差す月明りが二人を照らすことはない。二人は暗闇に溶けるよう、互いの体を重ね合うのだった。
◇
それからは安寧の日々が続いていた。騎士たちにとって最早魔物は脅威ではなく、殺戮と呼べるまでの一方的な戦闘が続いていた。彼らは他の地方まで進撃し、魔物たちから町を解放していった。
「──み名が聖とされますように、み国が来ますように──」
救われた人々は、騎士たちに、そして彼らが慕う聖女と呼ばれた女性に信仰を捧げ始めた。彼女の下で祈り、信じれば救われると、教えは広げられていく。聖女は解放された町々を周ると、各地で奇跡の力を振るった。人の手を入れようがない荒地が緑豊かな草原に変わり、生まれつき脚が不自由な病人は己の足で歩む喜びを知る。恩恵を得た人々は一様に彼女を讃え始めた。
「聖女様!」
「聖女様‼」
シスター・アンナ。その名を呼ぶことさえおこがましいと、彼らの信仰は飛躍していった。しかし彼女も、彼女に付き従う一人の少年も、それを嗜めようとはしない。乞われるままに奇跡の力を振るい、慕われるままに在る。それこそが、聖女の在るべき姿だと言うように。
信仰の顕れの花──白百合の花が咲き誇る大地を、彼女たちは守り続けていくのだろう。
◇
「シャル、首尾はどうですか?」
「上手くいきましたよ、シスター。ただ、気になる情報もありました」
夜も更けたころ。逗留する宿で、私たちは互いの成果を話し合っていた。灯りを消し、声をひそめて気づかれないよう気を配る。奪った力の恩恵を受け、私とシャルは夜の休息をとらずとも行動出来るようになっていたのだ。
「この町の人間はもう十分に聖女様を信仰するようになったでしょう。しかしこの先の村は、独自の宗教を信仰しているようです」
「説得は難しそうですか?」
「はい、村自体も排他的な雰囲気があると聞きました」
「それは──困りましたね」
私たちの手の届かないところで『魔物』に襲われてしまうかもしれませんね。
「小さな村だそうですから、急な襲撃を受けたらひとたまりもないでしょう」
「まあ、急がないといけませんね──間に合わなかったら大変ですから」
言葉を交わしながら、私とシャルはそれぞれの身支度を整えていく。修道服を脱ぐと、下に身に付けたボディスーツが露わになった。闇に溶け込むかのように漆黒に染められた、聖職者に似つかわしくない服装を、私とシャルは当たり前のように受け入れていた。これからの仕事は聖女のそれではないと、二人共割り切っていたからだ。夜の冷気を薄い生地一枚越しに受け、さらに一回り大きくなった乳房が高揚して揺れる。
「シスター、そろそろ衣服を新調した方が良いのでは?」
「あら? 貴方はこちらの方が好みだと思うのだけれど」
からかわないでくださいとシャルは返し、持っていた歩行杖を捻った。黒く塗られた直刃の刀身が姿を現す。彼が手首を返すと、音もなく刃は元の鞘に収まった。
私も持っていた背嚢を探り、掌大の鉄球を取り出した。ところどころが鈍く凹んだそれを杖の先端に括りつける。杖の真ん中を指先で持って軽く振るい、取り回しがいつもと変わらないことを確かめた。
「それでは」
「行きましょうか」
二人は夜の闇に紛れるように宿から去ると、音すら置き去りにする速さで駆けていくのだった。
しばらくして、一つの村が地図から消えることとなる。人の姿はおろか襲われた痕跡すら残っていなかった。『魔物』は村人を一人残らず喰いつくしたのだと、巡回に訪れた騎士たちは結論付けた。魔物の脅威を思い出した人々は、聖女への信仰を深めていく。聖女もまたそれに応え、一段と増した力を民のために振るうのだった。
打ち捨てられたかつての村は慰霊碑が佇むばかり。供えられた一輪の白百合は、突如吹き付けてきた強い風に舞い上げられた。くるくると身悶えするように舞い踊り、散らされた花弁はどこかへ流れていく。
その身を紅く、虚栄に染めながら。
講評
定義 | 魅力 | 提示 | 総合 |
---|---|---|---|
B | C | B | C |
「聖女」と呼ばれる人物が、皆から求められる聖女であろうとして、道を踏み外していく物語。
今回のコンテストの作品の中では群を抜いて読みやすく、世界観の構築やキャラクターの深掘り、無理のない物語の展開など、作品として全般的に優秀である。
特に主人公がなぜ「聖女」と呼ばれているのかという説明から始まり、それに対する疑念や謎の提示を経て、その力の正体に気づき、力を拡張させていく中で道を踏み外し、最終的に自分を慕ってくれている従者の少年をも籠絡させて「聖女」としての地位を確固たるものにしていく、という流れは、主人公が変わっていく経緯として納得しやすく、堕ちる物語として見事と言える。
しかし作品としては優秀なものの、悪堕ちの観点では主に次の3点で惜しく、最終的にこの評点となっている。
1つ目は作品における悪の提示とその魅力の表現が弱いという点。これは評点の中でも定義点に関わる部分であるが、本作の「聖女とはどうあるべきか」などのように立場を変えれば善にも悪にも変わるという概念、または主人公が善だと信じるものが作中でほぼ否定されていないという状態では、悪堕ちとして堕ちる先の悪が具体化されていない。
2つ目は、主人公が聖女としてどのような人物でどういうことをしてきたかという、堕ちる前の姿の描写については十分になされているが、これに対して堕ちる過程の描写と堕ちた後の描写がセットで弱く、これが魅力点を大きく下げている。
確かに物語全体から見れば聖女が堕ちていく流れが見えるため堕ちる過程は十分とも考えられるが、実質的に「聖女が堕ちた」という結果しか表現されていない。つまり、聖女が堕ちていくという連続性が見えているようで、実際には連続性はなく、いつの間にか「堕ちた考え方を持った聖女」となっているのである。
そしてこの延長上で、どのように堕ちたかという堕ち後の描写が求められるところ、既に堕ちた聖女が登場してしまっているため、結果として堕ちた後の描写も軽くなっている、というわけである。
3つ目は、最後に村を襲撃する章が唐突に出てくる点である。すでに聖女が堕ちたことになった後に展開される章であるため物語の流れとしては前章を完全に受けきれていない。なぜ聖女がこのような姿で、このような行為をしているかという説明も省かれてしまっているため、堕ちた後の後日談ではあるものの、悪堕ちの展開としては結果的に蛇足となってしまっている。
実はこの3点は密接に関わっていて、1点目の悪堕ちにおける悪を明確に定めていないためにどこで堕ちたかが分からず、2点目のようにいきなり堕ちたことになってしまっており、堕ちてしまっているので堕ちの説明である3点目が蛇足になってしまっている、ということである。
前述の通り作品としては素晴らしい内容であるため、悪堕ち作品として悪堕ちの魅力を見せれるように、物語の展開や順番を変えてみるなどが改善の方針であろうか。