作品名

緋色の風

ペンネーム

四号戦車

作品内容

 ――――――とある国の山深く。

 打ち棄てられた古城にそれはある。
 ――――――悪堕研究機構。
 悪堕ち、という一見耳慣れない言葉を研究するこの機構は、古今東西ありとあらゆる”悪”に堕ちる者達を観察し、研究し続けている。

 吸血鬼、邪竜、世界征服を企む秘密組織。
現実社会の巨悪から異界の幻想種までありとあらゆる”悪”。
それらによって堕落していく者達――――つまり
”悪堕ち”がこの機構の研究対象である。

 この世に正義がある限り、その対となる悪が存在する。
規律と自制、博愛と献身。堕落に対する強い強い対抗心。
そういった正義をわらい陶酔の元に堕としていく悪。
――――そして、その魅力に抗えずに堕ちていく者達。
正義があれば悪があり、その悪に堕ちる者達がいる。それこそが悪堕研究機構の研究対象であった。

 何故そんなものを研究するのだろうか?なぜ悪そのものでは無くそれらに堕ちていく者達を研究するのか?
その答えを知る者はただ一人。

 手入れをする者がほとんどいないためか、ほとんどの部屋が廃城のようなその一室。
古びた書斎が、悪堕研究機構の本部である。
机の上にはうずたかく本が積まれ、白板には写真や文献の切り抜きが所狭しと貼られている。
 全ては悪とその悪によって堕ちた者達の資料。
そんな書斎のその奥に、一人の女性が座っていた。

 涼しげな目元に蒼い瞳。すらりと通った鼻筋にキッと一筋に閉じた口元。
眼帯で覆われた片眼は豊かな金色の髪で隠されて、その上にやや不似合いな赤いスクエアフレームのメガネをかけている。
 赤いノースリーブのカッターシャツの上に白衣を着込んで、リクライニングのチェアに気怠そうに深々と腰掛けながら資料を眺めているこの女性。

 『機構』と組織の名を付けられた1人の女性。
たった1人で彼女はこの機構を維持し続けていた。
 かつてはここも『悪堕研究機構』の名にふさわしく数多の人間達がいた。
彼女にも彼女自身を表わす名前もかつてはあった。
だが悪という深淵を覗くものはまた深淵からも覗かれている。

 悪とそれに堕ちていく者達を研究する彼等は、悪にとって邪魔者以外の何物でも無い。
1人、また1人とその数を減らした悪堕研究機構のメンバー達。
今ではもう彼女1人しか残っていない。
<緋色の風スカーレット>という彼女の名前を呼ぶものはいない。
彼女こそが――――悪堕研究機構そのものだった。

 ―――そして今日も。悪は彼女の前に立ち塞がる。

「ん?18番の警報に反応……侵入者か。やれやれ、まったく彼等は勤勉だね」

 けたたましく鳴る警報に彼女はおずおずと立ち上がる。
メインホールに出た彼女の前に、正門を爆破した侵入者達が立ち塞がる。
 黒ずくめの戦闘服に身を固めた5人の男達。
無線でどこかと連絡を取りながら周囲を索敵する侵入者達が彼女の姿を発見する。

「いたぞ!あれがターゲットだ!」
「賞金はデッド・オア・アライブ生死を問わずだ。射殺しろ」

 ババババババババババババババッ!

 男達の持つ22口径のライフルが火を放ち、容赦なく彼女のシルエットに鉛の弾を撃ち込んでいく。
男達は決して街のチンピラなどではあり得ない訓練された兵士達である。
連携の取れた射撃に死角は無い。
だが一瞬前までそこにいたはずの彼女の姿は既にそこにいない。

「消えた!?どこに行っ――――グガッ!?」
「お、おい!?どうし――――ぎゃっ」
「さっ……散開しろ!俺達が的にされてる――――おごっ!?」

 突然倒れる男達に残された2人が半狂乱になりながら銃を乱射する。

「やめろ……!やめろぉぉぉっ!!――――うぐっ」

 残りは1人。
訓練を受けた彼等すら恐怖するこの状況に、残された最後の男は撤退を決断する。
だが――――

「君はメッセンジャーだ。雇い主達に伝えたまえ」
「ヒッ……!」

 闇の中逃げだそうと振り返った男の首元にあてがわれた1本のナイフ。
彼女の声だった。
一体どこにいたというのか。男はパニックになりながらも務めて平静を装って両手を挙げる。

「こ……降参だ。俺は撤退する。見逃してくれ」
「無論さ。人殺しは趣味じゃないし、それこそ君達”悪の組織”の専売特許だろう?彼等を撃ったのも非致死性のゴム弾だ。誰も死んじゃあいないから、君が全員を連れて行ってくれ。だが――――――――その前に」

 彼の首元にあてられたナイフに力がこもる。
男の耳元で彼女の声が囁く。

「君達の首領に伝えてくれたまえ。『これ以上私に関わるな。私も暇じゃ無い』とね」

 スッ……とナイフが首元から離れ闇に消えていく。
男は自らが解放されたことを確信すると同時に即座に振り向いて背後にいるであろう彼女に銃口を向けた。
だがそこには誰もいない。照明が落とされた廃城のホームのなか、漆黒の闇の中に男が1人立っているだけだった。

 よそう。あれ・・は自分たちに手の追える相手ではない。
全身から汗を噴き出しながら彼は撤退を決断した。

    ***

「まったく、毎度毎度面倒な連中だ。私の研究対象は『悪堕ち』であって彼等『悪』ではないんだがね。人が道を踏み外した成れの果てになんぞ興味はないんだ私は」

 ふぅ、と息を吐く彼女。
人が道を何故踏み外すのか。どのように踏み外していくのか。
堕ちる過程こそが彼女の興味の対象であり、悪そのものの研究はその副次的な資料に過ぎない。
 彼女は正義の味方では無い。正義の為に研究をしているわけではないのだ。

「シエラ、エリシア……」

 彼女が口にしたのは愛する彼女の娘達。
ここではない異世界で吸血鬼を狩るヴァンパイアハンターを生業にする2人の娘。
だが、彼女達は今狩られる側の吸血鬼になってしまった。
人ならざる力を得て人間であることを捨ててしまった愛しい娘達。
彼女達を救い、元に戻すために彼女は悪を研究している。

「正義の味方になぞなるものか……」

 たとえ相手が悪の手先であっても不殺を貫く気高い倫理観と躊躇無く倒す敵愾心てきがいしんを心に秘めながらも、彼女は自分自身が正義の味方として振る舞うことを嫌う。
なぜなら正義の味方はいつか堕ちるのだ。
その使命に疲れ果て、報われぬ正義に心身をり潰されて悪に堕ちていく。
 数々の正義の味方とその結末を見てきた彼女だからこそ、自身がそのサンプルのひとつになることはよしとしなかった。

「だが――――もし、私が堕ちるとしたら?」

 ふとした疑問が彼女の口から漏れる。
彼女は自分を正義の味方だなんて思った事は無い。自分はただ娘達のために奔走する母親に過ぎない。
 だがそんな彼女の事を悪はそうは思わない。
正義の味方で無くても、彼女は悪の敵である。
ならば自分自身が悪に堕ちていく、その可能性は本当にないと言えるだろうか?

「だとすればマズいことになるな……!」

 彼女は書斎の本棚のひとつに手をかけて開く。
重そうな外見にもかかわらず軽い力でスライドされた本棚の奥には所狭しと並べられた道具の数々。
ライフルに剣、法儀式のかけられた聖水に魔祓いの護符。彼女が研究の一環で手に入れた対『悪』用の兵器の数々がそこには収められていた。

 それらを次々と手に取った彼女は太腿に据え付けられたホルスターに収めていく。
普段は――敵の襲撃に対してすら――平静な彼女には珍しく鬼気迫り慌てた様子。

 ――――もし自身が悪に堕ちたなら。
 彼女はためらいなく並行世界の自分を殺して回るだろう。
彼女にとって最大最悪の敵になり得るのは、彼女自身しかいないのだから。
一見荒唐無稽に思える彼女の想像は、最悪の形で顕現することになる。

「へぇ……この世界の『私』はその可能性に気付いたのか。中々に優秀だな」

 彼女の背後から聞こえる耳慣れた声。
 振り向いた彼女の前に忽然と姿を現したのは、漆黒の髪を揺らす1人の女。
彼女にとっては初めて見る姿であるが間違いない。間違えようも無い。

 そこにいたのは――――彼女自身だったのだから。
漆黒の髪色に血液のような紅の差し色。
その間から伸びる琥珀のような2本の角。
体表には竜の鱗が貼り付き、手脚はゴツゴツした邪竜の爪がついている。
背中には忌々しい邪竜の翼と尻尾が伸びて、目の前にいる『彼女』が人間では無いことを如実に物語っていた。

 自分と同じ顔、自分と同じ姿ながらも全身から禍々しい瘴気を放つその存在に、彼女は眉間にシワを寄せて呟く。

「その姿……邪竜にでもなったのか、『私』」
「ああ。幻想世界の邪竜を取り込んで一体化したのさ。どうだ?種としての人間を捨てて個としての強さを極めた私の姿は」
「醜悪、その一語に尽きるね。まったく……一体どういう理由で堕ちたのかは後で聞かせてもらうとして、一体何だその姿は?きっと私が人間を辞めたらそうなるだろうと遙か昔に妄想した姿そのままじゃないか。はぁ……まぁそういう意味では滾りはするが、まるで過去の自らの恥部を晒されているかのようだよ」
「自らの無力を悟ってそれを踏み越えることを選択した結果に過ぎないさ。幻想種を取り込むのはそれなりに苦痛を伴うものではあったがね」

 自らの姿と変質した際の苦痛を語る邪竜となった彼女。
だが、その口元に浮かぶ笑みにまだ人間であることを捨ててはいない彼女は歯ぎしりする。
 自らが悪に堕ちたことを誇るかのようなその口調。その姿。
その全てが汚らわしく憎々しく彼女の目に映った。

「まったく……こんなモノに成って、成り・・果てた・・・のか私は。だが、自分のケリは自分でつけるさ」

 彼女は手に取った30口径のライフルを構える。

「「まったく……哀れだな。可哀想なヤツだよ……”私”」」

 2人が同時に同じ台詞を吐く。
人としての倫理観という抑圧に捕らわれている過去彼女未来邪竜わらい。
人としてつなぎ止める抑圧から逃げ出した未来邪竜過去彼女が嘆く。
同じ存在であるが故に決して相容れない不倶戴天の存在。
 そうお互いがもう1人の自分自身を認識する。

 一瞬の静寂を破ったのは彼女が引いた引き金だった。
彼女が構えている中欧製のそのライフルは弾倉マガジンの代わりに弾帯箱ベルトリンクを使う特別製。
分速600発の咆哮が邪竜を襲う――――!

ガガガガガガガガガガガガガガガ!!

 だが、邪竜はまるで事も無げにその弾雨を受け止める。
口元には人間を踏破した邪悪な笑みを浮かべながら、人間の枠を捨てきれない”かつての自分”を嘲笑うように邪竜はその場に立ち銃弾を防いでいた。

「そんな鉛玉で殺せる程度の存在に成るために私が人間を捨てたとでも?見くびられたものだな」
「なに、ほんの目くらましさ――――それに、私がお前にどういう感情殺意を抱いているかの証さ……っ!」
「グッ……!?」

 弾雨の奥で閃光手榴弾が炸裂する。
突然の眩しい光に邪竜が思わず眼を閉じたその一瞬で、彼女は部屋から姿を消していた。

「クックック……自分の”魔眼”がどういうものか知っていれば、逃げられないことくらいわかるだろうに。私自身の愚かな振る舞いというのは存外恥ずかしいものだなァ」

 邪竜はわらう。
哀れな子羊としてしか認識出来ないかつての自分の姿に。

    ***

「ハァ……!ハァ……!ハァ……っ!!」

 廃城の中を彼女が駆ける。
あの場ではこうして目くらましで逃げることしか出来なかった。

(くそ……認めたくないが厄介すぎる……!)

 邪竜と化して変質した自分。
戦略も、戦術も、自分の全てを持った上で邪竜としての力まで手に入れた自分。
多くの悪の組織や存在と戦って勝利を収める彼女を青ざめさせるほどに、”自分自身”は凶悪な敵となって立ちはだかった。

 だがここは彼女にとってホームとも言える居城である。
ありとあらゆる場所に侵入者を嵌めるための罠はしかけてある。

(時間稼ぎにしかならんとは思うが……無いよりはマシか)

 その時間こそ今の彼女にとって最も欲しいものだった。
突然の襲撃。まるで彼女が自らが悪堕ちするその可能性に気付いた瞬間を狙ったかのような邪竜の登場に、彼女はとにかく体勢を立て直すだけの時間を必要としていた。
しかし――――

「アッハハハハハ!この城の設備を仕掛けたのは私だぞ『私』!それに……もはやこんなモノで私を傷つける事が出来るとでも思っているのか!」

 爆発、落とし穴、鉄柵に槍衾やりぶすま
ありとあらゆる罠を全て起動させながら破壊して後からゆっくりと歩いて追いかけてくる邪竜。
罠を避けることが出来ないのではない。
あえて起動させることで逃げる彼女の心をへし折ろうとしているのだ。
 絶対的な力を持つ邪竜にとって人間である彼女を殺すことは容易い。
だがただ殺すのではなくその精神ごと破壊して殺すことに意味がある。
 人間を踏破して邪竜になった彼女だからこそわかる自分自身の執念の深さ。
それを残したまま命を奪う事はこの並行世界の『彼女』が人間を捨てるためのきっかけになりかねない。
より面倒な事態を避けるためにも、屈服させてから殺す。
それが邪竜の狙いだった。

(……などと、あの邪竜は考えているのだろうな)

 逃げる彼女はそう邪竜を評価する。
自分自身相手の戦いは、己の深層世界により深く潜り込んで己の弱点を見つけたものが勝つ戦いでもある。
手の内を知り尽くした自分同士の戦い。
不安要素は――――彼女がまだ知らぬ”邪竜”の力だった。

「こうして逃げるのもいつまでも出来るわけではないからな。反撃の手段はこれしかなかろう」

 彼女は太腿のホルスターからナイフを取り出す。
銃も爆弾も剣も魔術もありとあらゆる攻撃手段を使いこなす彼女だが、最も得意とするのはこのナイフ。
古竜の牙の間質に銀を溶け込ませて作られた刃身に、多重の法儀式で祝福されたこのナイフは彼女自身の体術と合わせて邪なるものに対して特効必殺の武器である。
 今は遠き異世界で吸血鬼を狩る娘に唯一伝えることの出来た技術。
このナイフこそが彼女の最後の切り札だった。

「どうした?追いかけっこはもうお終いにするのか?」

 ケタケタとわらいながら彼女に追いつく邪竜。
邪竜の眼に彼女の持つナイフが映る。

「なんだ。まだそんなものにすがっているのか?」
そんなもの・・・・・?貴様、このナイフがどういうものかすら忘れてしまったのか?」
「覚えているさ。惰弱だった人間であった頃に寄りすがっていた武器だろう。だから貴様はダメなのさ『私』。今の私にはこの爪がある。そんな作り物に頼らずとも敵の肉を裂く事が出来る私にとっては”古いオモチャ”に過ぎないさ」

 邪竜の言葉に、彼女の全身が総毛立そうけだつ。
それは怒りだった。

「貴様――――私の姿で、私の声で、このナイフを侮辱したな?このナイフの技術だけが私が愛しい娘に伝えることが出来た唯一のもの。私と娘を繋ぐこのナイフを……貴様は侮辱したな!娘達との絆を捨てたか邪竜ッ!!貴様は――――私が倒す!!」

 激昂した彼女が邪竜に斬りかかる。
彼女が手に握るナイフを侮辱することは、彼女と娘達を繋ぐ絆を侮辱することだと彼女は考えている。
それをたとえ堕ちたとはいえ自分自身の口から聞かされることに、彼女は憤怒していた。

「チィ……ッ!小賢しいッ!!」

 彼女の剣閃を避ける邪竜。
自らの爪の方がはるかに強いとはいえ、邪竜の因子によって汚染されているその身体に刃が触れれば邪竜とてただでは済まない。
 飛び込んできた彼女を仕留めようとその爪を振るうが、怒りで我を忘れている彼女はそれをことごとくかわしていく。

 だが、彼女が優勢かと問われれば決してそうでは無い。
もし邪竜の爪がかすりでもすれば、あくまでも人間に過ぎない彼女の肢体は易々と引きちぎられその生命を絶たれてしまうであろう。
娘達への愛を侮辱された怒りと、忌々しい邪竜に堕ちた自分への悲嘆。
それが彼女に邪竜の爪を紙一重でかわさせ、決死の白兵戦を成立させていた。

「チッ、面倒なヤツ――――!」

 爪の先で軽く撫でるだけでもその命を刈り取れるのに、その爪が紙一重でかわされる。
邪竜は苛立ちを覚えながらも十重二十重の爪撃を彼女に向かって放っていく。
かわされた爪撃は彼女の後の柱を切り裂き薙ぎ払う。
それほどの攻撃にもかかわらず、彼女はなんとかそれを避けて自らの握るナイフの刃を邪竜に突き立てんと振るい続けた。

 ガキィン!ヒュッ――――シュバアッ!!

 邪竜は爪を、彼女はナイフを。
互いが互いの必殺の武器を相手の肌に刺し切り裂かんと振るい続ける。
 だが互いにその体術は同じもの。なかなかに相手に届かない。

 遠くから見ればまるで優雅に舞を踊っているかのような2人の戦い。
肌に軽くかすっただけでも相手を殺せる必殺の一撃の振るい合い。
永劫に続くかと思われたその戦いの天秤は、次第に彼女にとって不利に傾いていく。
その原因は――――疲労。
邪悪な幻想種と一体化して無尽蔵の力を得ている邪竜であれば何時間でもこの戦いを続けることもできるだろう。
だがあくまでも人間である彼女には限界が存在する。
そしてその限界は刻一刻と近づいていた。

「さぁ!いつまでこのお遊びを続けるつもりだ!?人間のお前には辛かろう!?」
「チッ――――よく喋る。私はそんなにおしゃべりだったつもりはないんだが……ねっ!」
「降伏勧告だよ……『私』!無駄な抵抗を諦めれば楽に殺してやると言ってるんだ!」
「フンッ、生憎邪悪な存在に下げる頭は存在しないのでね……!その程度のことも忘れてしまったのかよ…………『私』!」

 邪竜の言葉に屈せぬ彼女だが、少しずつ、少しずつその身体の動きが大振りになっていく。
邪竜の爪を避けている彼女自体理解はしている。もうすぐ避けきれなくなるであろうことを。

(そろそろ限界か……気は進まないが、背に腹は代えられないな)

 地面に脚を付けた彼女は次の攻撃をあえて避けずに邪竜に正対する。
当然邪竜はその千載一遇の隙を見逃さずに彼女にその爪を振るう。

「どうした!?とうとう諦めたか――――!」
「諦める?クク、人間であることに耐えられなかった『私』らしい言葉だね。私は諦めない!私の勝利も、娘達の事も――――!!」

 邪竜の爪が彼女の右肩に深々と食い込む。
勢いのついた爪はそのまま彼女の右肩の肉を削いで吹き飛ばす。
勝利を確信する邪竜。
だがそれこそが彼女が決死の思いで作った『隙』だったのだ。

「ハッハハァ!これでこの世界の『私』も終わりだ――――ガッ!?」
「終わるのは……お前だよ……『私』」

 正対する邪竜の左肩に――――彼女のナイフが食い込む。
古竜の牙に聖堂の銀十字を溶かして聖別されたその刃身は、易々と邪竜の鱗を貫いて肌に食い込む。
互いの肩に己の武器を突き立てた両者。
だがこの特別製のナイフはただ相手を切り裂くのみでは無い。
その刃に彫刻された強力な退魔の呪法が発動して邪竜の存在を根幹から否定していく。

「ガッ!?がガッ……っ!お゛っ、お゛ま゛え゛ぇぇ……っ!」
「ど、どうだ……?多くの幻想種や邪悪な存在を屠ってきたナイフの味は……?お前がかつて邪悪な存在相手に振るい消滅させてきた力だ……!お前は自らの力に溺れて忘れてしまっただろうけど……な、なかなかに効くだろう?」
「ぐっ……ぐぞがぁ……っ!!」

 ガクガクと全身を痙攣けいれんさせながら邪竜が彼女をにらむ。
憎悪に満ちたその瞳。自らの存在を否定する者に対する圧倒的な憎悪と憤怒のその表情に、彼女は心底軽蔑したかのように邪竜を哀れむ。

「なんてザマだ。お前は……ッグ、その姿を……ハァ、シエラと……エリシアに見せることが出来るというのか?己の存在以外を軽んじる邪竜よ……!」
「グガッ……!グガガガガ……!殺すっ……ゴロズぅ……っ!」

 苦しみ悶える邪竜を見下ろす彼女だが、決して無傷というわけでは無い。
右肩の肉を吹き飛ばされた彼女は、かろうじて腕が繋がっているという状態で血を噴き出している。
ボタボタと滴り落ちる彼女の鮮血は白衣を赤く染め、彼女が立つ床に血だまりを作っている。
大量の失血は遠からず彼女を死に至らしめるだろう。
だが、自らの命を引き換えにしても彼女は邪悪な存在と化した自分の存在を否定しなければならなかったのだ。

「グッ……ググ……脆弱ナニンゲンゴトキガァ…………ワタシヲ……ナメルナァ…………ッ!!」

 苦しむ邪竜は自らの肩に突き立てられたナイフを握り引き抜く。
聖別されたナイフの柄を握る邪竜の手が焼けただれていくが、お構いなしに刃を外すことを優先する。

「ガッ……がが、ぐ、わ……わたしの……勝ちだ……!その身体で……この爪は避けれまい……!」

 這々ほうほうていで爪を振るわんと左腕を掲げる邪竜。
彼女はそれをただ静かに見つめ続けている。
はなから彼女には邪竜の一撃を避ける力など残されてはいない。
先刻の一撃が正真正銘彼女にとって最後の一撃だったのだ。

「あれだけ退魔の呪法に身をかれながらも動けるのか……私の計算違いだったな」
「貴様ダケハ……必ズ殺ス……!」

 ――――もはやこれまでか。
彼女はこれから確実に訪れるであろう自身の”死”に、覚悟を決めて目を閉じる。
 命を賭した決死の一撃。
その一撃が僅かに、極めて僅かに邪竜の命に届かなかった。
そのことに彼女に後悔はない。
ただ彼女の脳裏に浮かぶのは、愛しい愛しい娘達の姿だけだった。

(シエラ……エリシア……最後に……もう1度だけ貴女達の姿を見たかった…………)

 まるで時間が極限に引き延ばされたように、時間がゆっくりと感じられる。
振りかぶられた邪竜の爪が、ゆっくりと彼女に近づいて行く。
きっと目を閉じた彼女に迫る邪竜の爪。

 ――――だが、その爪が彼女に届くことは無かった。

「ガッ!?ガァァァァァァァァッ!?」
「なん……だっ……!?」

 目を開けた彼女の目に拡がるのは、鮮血を撒き散らしながら宙を舞う邪竜の左腕。
次の瞬間、後を振り返ろうとした邪竜の首が同じように宙を舞う。
何者かに首を切り飛ばされた邪竜は黒い粒子となり、その力の源泉である魔眼を残して消滅する。
あれだけ苦戦した邪竜を一撃で屠り漆黒の瘴気として霧散せしめたのは――――

「まさか……私……か?」

 そこに立っていたのは真紅の剣を振るう白髪紅眼の女。
生気の乏しい青白い肌をしたその女は、まぎれもなく『彼女』だった。

「なにせ並行世界から邪竜が襲ってくるくらいだ。 ”他の可能性”も……考えてなかったわけじゃないがな……」
「…………手負いの邪竜に用はない。私が会いたかったのは――――お前だ」
「よもや……吸血鬼とはね…………」

 瀟洒しょうしゃな赤いドレスを身に纏うその女。
その特徴は、まぎれもなく彼女の仇敵。愛する2人の娘を変質させた吸血鬼に成り果てた自分の姿だった。
 生きている人間の姿を取りながらも、生物としての生気を消失したその姿。
たとえ並行世界の話だとしても、生きとし生けるものの全てを否定するかのようなその姿に自分がなっていることに、彼女はまるで自分の存在そのものが穢され冒涜されているかのような屈辱感を覚える。
だが今の瀕死の彼女にはそれに抗う力は残されていない。
邪竜の爪でもうすぐ死にゆく彼女には、悪態をつくのが精一杯の抵抗だった。

「貴様も……人間のままの私を殺しにきたのか?」
「……少し違う。あの邪竜は己の弱さを嘆き力を求め、己を殺す可能性に怯えて並行世界の私達を殺して回っていた。だが私はそうじゃない。そんな無駄なことを私はしない」

 抑揚の無い声でボソボソと呟く吸血鬼。
まるで感情というものが抜け落ちたかのような吸血鬼の言葉に、彼女は倒れ込んでしまいたくなる気持ちを必死に抑えて気丈に立ってその話を聞き続けた。

「死にかけの邪竜を殺すくらいのことはできるが、今の『私』は多数の呪法で蝕まれてもう後が無い。私には新鮮な肉体がいる。唯一残った新鮮な『私』、その身体を譲ってもらう」
「穢らわしい吸血鬼の言葉に、私が耳を貸すとでも?」
「必ず『オマエ』は『ワタシ』を受け入れる――――――――シエラとエリシア……娘達を人間に戻すために」
「なん……だと……!?」

 永遠の命も、多くの財貨も彼女にとっては価値が無い。
だからこそ吸血鬼なぞの誘惑に耳を貸すことはないと思っていた彼女に、吸血鬼は彼女が決して無視することが出来ない言葉を出す。

「このままではお前は死ぬ。あまり時間が残されていないから手短に話す。私がこの姿になったのは娘達を人間に戻すため。吸血鬼の力を得なければ彼女達を人間に戻すことはできなかったからそうしただけ。私にとって大事なのは娘達。その優先度が私自身より高かっただけ。お前ならば理解できるはず。お前自身が穢れるのが、お前にとってあの子達より大事だというのならこの話はここで終わり。死にゆく人間に用はない」

 娘達のため――――吸血鬼はそう彼女に語る。
彼女自身、もし自分の命を捧げれば娘達を救えるというならば喜んでその命を指す出す覚悟はある。
だとすれば、目の前に現われたこの吸血鬼はそうして『差し出した選択をした自分』なのか――――

「あ……あぁ…………!あああ…………っ!」

 彼女はその場で膝をつく。
ゴシャッ!と血だまりに彼女の肢体がおちる。

「これから私はお前の血を吸う。お前に吸血鬼としての全ての能力を与えて私は死ぬ。私の記憶と全てを引き継いで、これからはお前が吸血鬼として娘達のために死を生きるのよ・・・・・
「ああ……そんな……!そん……な…………っ!」

 彼女の双眸そうぼうから涙が溢れる。
その涙に浮かぶのは後悔か、それとも諦観ていかんか。
 彼女は悪に屈したりはしない。例え自分の命を捨てることになろうとも、彼女はためらいなく自分の命を対価に支払うことが出来る。
だが、そんな彼女にとって唯一渡すことの出来ない対価があるとすれば、それは2人の娘達のことだけ。
 自分自身の言葉だからこそ、彼女は吸血鬼の言葉が真実だと確信してしまった。

 人間として吸血鬼に抗い娘達を救う手立てを失うか、人間を辞めてこの吸血鬼とひとつになって娘達を救うか。
 人間としての尊厳か、2人の娘か。
そう迫られた彼女は、とうとう2人の娘を差し出すことは出来なかった。

「うぅ……シエラ……エリシア……私……私……貴女達の事を捨てることなんて出来ない…………!」

 無表情のまま彼女を見下ろす吸血鬼が、涙を流す無抵抗の彼女の首元に近づいて歯を突き立てる。

「さようなら……人間の私。これからは貴女が『私』になる」

 ブシュッ!と柔らかい彼女の肌が吸血鬼の歯に貫かれる音が静寂の訪れた廃城に響く。
ゴク……ゴク……と瀕死の彼女の血を飲み干していく吸血鬼。
本来であれば人間である彼女が干からびて吸血鬼である彼女に吸収される流れ。
しかし、逆に血を吸っているはずの吸血鬼が真紅の血煙となって消えていく一方で邪竜に吹き飛ばされた彼女の右肩がその血煙によって再建されていく。

 血液を吸われ血の気の引いた彼女の肌に、まるで血液と入れ替えるように吸血鬼が魔力を注いでいくと、彼女の肌が吸血鬼のそれと同じものに変質していく。
 青い眼は眼帯で隠された魔眼と同じ赤い血の色に。髪は色を失って真っ白なものに。
 吸血鬼の知識と記憶の全てが魔力に乗って彼女に注がれる。

吸血鬼の戦い方や立ち振る舞い方に、かつて娘達のために人間を辞めることを決意した吸血鬼の想いが流れ込んで、彼女の精神とひとつに溶け合って混ざり合っていく。
 吸血鬼が完全にその姿を血煙と化して消滅すると、そこにはもう1人の新しいヒトナラザルモノが誕生していた。

 娘達を思い滂沱ぼうだの涙を流していた彼女の姿はもうそこにはない。
涙とともに人間としての自分を全て捨て去ったその姿。
そこにいたのは人間としての感情が欠落した――――吸血鬼だった。

「…………案外、どうということはないんだな」

 吸血鬼と化した彼女が呟く。
全身にみなぎる吸血鬼の魔力。肩を引きちぎられて失血死寸前だった彼女は平然と自らの血だまりの上に立っていた。
 流れ込んできた吸血鬼の知識で魔力を発動させると、床に染みこんだ自らの血が自らの肢体に回収されていく。

 黒い瘴気となって消滅した邪竜の残した魔眼を拾うと、彼女はためらいなくそれを飲み込む。
残された膨大な魔力を我が物として、この平行宇宙に存在した3人の『彼女』がひとつの存在になった。
 力を求めて果てたもう一つの自分の可能性である邪竜の残骸に、憐憫れんびんも、苦悩も、寂寥せきりょうも。今の彼女には何一つ感じることはなかった。
ただ魔力の供給源としてもう1人の自分を喰らい尽くしていた。

「まずは服をあつらえなければな」

 彼女がそう呟くと、大量の血が彼女の身に纏わり付く。
大量の血と回復した魔力によって変質していく破れた衣服。
先程彼女に一体化して消滅した吸血鬼と同じ真紅のドレス姿に彼女は変わっていく。

 そうして最後に彼女は消滅した吸血鬼が残した剣を拾う。
自らの血を剣に通わせると、剣は新たな主人の存在を認めたようだった。

「そうか……よろしくな。これからは私が主人だ」

    ***

 ドォォォン!!

 突如響く爆発音と、なだれ込む黒ずくめの男達。
先日逃した連中が、増援を引き連れてやってきたのだろう。

「まったく……無駄なことをする連中だ」

 廃城の奥の書斎で鳴る警報に、真紅のドレスを纏った女性が呟く。
自らの血で作られたそのドレスは、邪竜の鱗に勝るとも劣らない強度の”鎧”である。

 1度逃がしてやったにもかかわらずまた自分の命を狙う馬鹿共。
こうなることは聡明な彼女にはわかっていた。
命を奪わずに返せば、相手は殺されることは無いとつけあがってまたやってくる。
それでも殺さなかったのは、彼女が人間としての尊厳を愛していたから。

「もう二度と、無駄なことが出来ないようにすべきだな」

 だが、今の彼女は既に人間では無かった。
人間としての情緒が欠落した彼女にとって、男達の命を斟酌しんしゃくする必要はどこにも無い。
 書斎を出てホールに向かう彼女の姿に男達が気付く。

「いたぞ!あの女だ!」
「待て!報告と姿が違うぞ!本当にあの女か!?」
「間違いない、あの顔はあの時のあの女だ!」
「殺せ!相手はバケモノだ!油断するなよ!」

 彼女の目の前に現われてライフルを発砲する男達に、吸血鬼と化した彼女が視線を向ける。
その瞳には一切の感情の動きは無い。ただ屠殺場に向かう豚を眺めるような茫洋ぼうようとした瞳で、自らの命を狙う刺客達を見据えている。

しつけのなっていないいぬ共だな。まあいいさ、もうお前達がなにかを覚える必要はないのだから」

抑揚の無い声で彼女はそう呟くと、手にした剣を一閃する。
真横一文字に剣閃が振るわれると、次の瞬間ホールにいた男達全員が胴体から血を噴き出して両断される。
 確認するまでも無い男達の死。

「そうか……少しくらい心が揺れ動くかとも思ったが……そんなこともないようだ」

 剣を握る自らの手に視線を落とし、確かめるように呟く彼女。
滅多なことでは人をその手にかけることの無かった彼女の姿はもはやどこにも存在しない。
 そこにいたのは自らの死すら何の痛痒つうようも感じない生死の彼岸を越えた『バケモノ』だった。
 ホールの外に待機していた残りの男達も含め、廃城に送り込まれた全ての刺客がもの言わぬ骸に姿をかえたのは、それから10分もしない後の事だった。

    ***

 ――――とある国の山深く。

 打ち棄てられた古城にそれはある。

 かつて人類で最も悪を滅ぼす希望たり得るその城は、今や生命を冒涜する吸血鬼の居城となっていた。
 城の周囲に生命は存在しない。
人間も、動物も、生きとし生けるものは彼女の糧として立ち入るだけで命を吸われてしまうからだ。
 生命の存在し得ぬ地にて、意思を持つ存在は――――彼女ただ1人しかいない。
生命も、尊厳も、全てを失った彼女に残されたのは娘達への愛情だけ。

「シエラ……エリシア…………フフ、私が必ず貴女達を救ってあげるわ」

 今日も廃城で吸血鬼がわらう。
 緋色の風を吹かせながら。

―終わり―

講評

評価基準について

定義魅力提示企画総合
ACCCC
評点一覧

「悪堕研究機構」とそのマスコットキャラクターである「マスカログ」を題材にした、堕研賞を狙ったであろう作品。それぞれの設定をよく理解して作品に反映しようとしていることが理解でき、その姿勢には好感が持てる。
特に、邪竜と成り果てた自分を最後まで嫌悪することで、人間である自分と人間を捨てた自分との対比を克明にしている点、そして吸血鬼たる自分とも対比になっていながら、娘たちを愛す故に吸血鬼の自分の考えを理解し受け入れてしまう点など、キャラクターの設定を生かして心理的描写から悪堕ちに深く迫っている作風には魅力を感じられる。

一方で、既に設定があるものとしてそれぞれの設定やキャラクターを作品内で説明せず掘り下げが行われていないことで、世界観を知らない人を置き去りにしている流れは不親切であり、馴染みやすい物語ではない。また、特徴的な言い回し、読みや理解の困難な単語が頻出するため小説を読む初心者向けとしては読みやすい文章とは言えず、それぞれが重なって物語への没入感を損なう結果となっている。

人間・邪竜・吸血鬼の彼女それぞれの身体的特徴の描写や、彼女が吸血され吸血鬼に堕ちていく描写、それ以外にも彼女が悪堕ちを研究しているという設定の説明や、人間のときと吸血鬼になった後の行動のギャップなど、要素をそれぞれ抜き出して鑑賞すれば悪堕ちとして魅力的に感じられるものの、本来の設定を生かし物語の構成を重視しようとして思考や行動が唐突に発生する場面が多くあり、それが最終的に彼女たちが軽薄な存在に見えることに繋がってしまうのが非常に残念である。

前述のように悪堕ちらしさは十分に感じられるものの、悪堕ちと物語の見せ方に起因するそれぞれの項目に課題があり、最終的にこの評価となっている。

あと、いくつか誤字があり、娘の名前も間違っていたので掲載時に直しておいた。