作品名

災厄の化身

ペンネーム

風音

作品内容

「逃げてっ……みんな逃げてーーーっ!!」

 平和だった村に悲鳴と怒号が響き渡る。
 黄金を溶かしたかのような金糸の髪に青い瞳が美しい豊満な躰つき女……シズカの叫びに子どもたちは雲の子を散らすように、泣き叫びながら村の外へ逃げていく。しかし、村にはあちこちから火の手が上がり、村の外に出ようとするだけのことが容易にはいかない状況だった。
 血と死と火で赤く染まる村は、シズカの五感を刺激し、心を恐怖と絶望に染め上げていく。

「どうして……どうして、こんなことを……っ」

 シズカは唇を嚙みしめ、目からは大粒の涙をぽろぽろと零しながらこちらへと悠然と歩み寄ってくるこの事態の元凶を睨みつけた。
 どすん、と元凶がシズカの前に何かを投げつけた。それを確認したシズカは反射的に口元を抑える。そうしなければ胃の内容物を吐き出してしまいそうだったからだ。
 シズカの目の前に投げつけられた……投げ捨てられたものは彼女の父親だった。優しく力強い父親の瞳は絶望に染まり、二度と動くことはない……身体を袈裟に切り裂かれシズカの父親は絶命していた。

「そりャあ、お前たちが鬼だからさ、うん」

 友人に相対するかのような気さくさで元凶……退魔士と思われる真っ黒な狩衣を纏った男は笑いながらシズカに声をかけた。その手には父親の命を奪ったと思わしき朱色の刀が握られている。
 そう、シズカは……シズカ達は人間ではなかった。ここは山の奥に潜む、鬼たちの村。シズカの額からは一本の立派な角が生えている。
 きっ、と涙は止めぬままシズカは男を強く睨みつける。

「ふざけないでっ!私たちは人間に何もしていないのに、山の奥で静かに暮らしていただけなのに……っ!」

 シズカの言葉に嘘はない。
 鬼の中には都を襲い血肉を貪り人に仇なす鬼がいることは確かだ。だが、シズカ達が暮らしている村はそういった鬼を嫌う、穏健な鬼だった。人を襲ったことも喰らったこともない、ましてや都になんか近づいたこともない。そもそも村は普段は人除けの結界に覆われているので誰かが迷い込むこともない。人に迷惑を掛けずにシズカ達は静かに生きてきたのだ。
 それが目の前の男……顔だちは悪くないがどこか濁った眼をした男の襲撃によって終わりを告げていた。
 シズカの心の底から捻りだしたようなことばに、男は笑顔のまま首を振った。

「うんにャ、鬼がただ生きているってだけで人は迷惑してるのさ。お前たちが死ぬか隷属するか道具になるかしていないと、人はおちおち夜も寝れんのよォ」

 「おお怖い怖い」とわざとらしく身震いする男の態度を見れば、そんなことを微塵も思っていないのであろうことはシズカにも簡単に推測できる。そもそも争いを嫌う穏健派の鬼たちとはいえ、何十人かの鬼が住んでいる村をここまで一方的に壊滅させられる男が、いったい鬼の何を恐れるというのか。

(なんだそれは……ふざけるな―――――――!)

 ここまで来て初めて、シズカの絶望や恐怖よりも怒りが勝った。
 恐らくこの男にとってはシズカ達の村を滅ぼすのは遊びなのだろう。その遊びを正当化するための理由を口から吐いているに過ぎない。そんな遊びで村を滅ぼされ、大切な家族を殺されたシズカの心は烈火のごとく怒りに燃えていた。

「お前は、許さない……絶対に!」

「おお、女の鬼が善良な俺に対して理不尽に怒った……怖ェ怖ェ」

 この期に及んでなおふざけた言葉を吐き出す男に対しシズカは拳を握り締める。
 恐らく、いや、絶対に自分はこの男には勝てない……殺されるであろう。自分よりも強い父親が傷一つ男に付けた様子はないのだ。だけど、引くわけにはいかなかった。この男をここで野放しにしてしまえば、子どもたちが殺される。

(少しでも時間を稼がないと!)

 少しでもこの男を足止めできれば、村の外に所用で出かけている自分の婚約者やその他の鬼が逃げる子どもたちと出会うはずだ。そうすればいざというときの隠れ家に避難できるかもしれない。シズカの怒りと優しさが勝てぬはずの存在と対峙することを決意させていた。
 身体の奥から力が湧いてくる。人を傷つけるのを嫌うシズカが忌避する鬼の力が底のない泉の様に湧いて出てくる。
 
(いけるかも――――)
「はあっ!」

 シズカに戦いの心得などない、ただ鬼の身体能力で大地を踏み抜いて男に駆け出して拳を振るうだけ。男もシズカに戦いの心得などないことは察しているのだろう、笑みを浮かべたまま身構えすらしなかった。

「やああああっ……!?」

 男に拳が当たる直前、見えぬ壁がシズカの行く手を阻んだ。だが、シズカは止まらない。「はあっ!」という声を出すと、バリン!という音と共に見えない壁をぶち破る。

「!おやおや」

 その音を聞いた瞬間、初めて男の笑みが消え目を細めてシズカを見やった。
 シズカの拳が男に直撃する瞬間、男はまるで姿が消えたかのように後ろへ飛びぬく。ぶおん!と力強く空気を切り裂く音と共にシズカの拳は空を切った。
 音もなく後方へ飛び退った男は空いた手を顎に当てると一瞬何かを考えたようだった。

「んー……我、罪清めの火をもって悪しき鬼を滅ぼさん!招来火!飛べ、火の鳥よ!」

 男が手のひらをシズカの方へ向けると、人を簡単についばんでしまいそうなほどに大きい火でできた鳥がシズカへと向かって飛翔する。
 鬼の中にも術師はいるが、その鬼ですらここまでの火の塊を呼び出すのは難しいだろう。それほどに強力な術を男はいとも容易く行使していた。
 空気すらも焼き尽くす火の鳥がシズカへと襲い掛かる。常の彼女なら、抵抗することも出来ず骨の髄まで焼き尽くされていただろう。だが、今の彼女は違う。

「邪魔だあっ!」

 ぐっと足に力を籠めると、火の鳥へ向けて回し蹴りを放つ。彼女の繰り出した回し蹴りは火の鳥の横っ面を叩き、その身を火の粉へと霧散させる。

「ほほゥ、火の鳥を正しく一蹴するとは、いやはや……」

(私にこんな力が……!これならっ!)

 火の鳥を文字通り蹴散らしたことに一番驚いているのはシズカだ。自分のどこにこんな力が潜んでいたのか分からない。こんな誰かを傷つける力なんて嫌いだが、今はそれがありがたかった。大切な人の敵を討ち、子どもたちを守れるかもしれないとシズカの心に希望が芽生え始める。

「流石は鬼神の末裔ッてとこかい?こりャ、いいもんめッけたなあ」

「鬼神?私が……?」

「なんだ、おさん自分のことがわかッてねェんかい?」

 やれやれ、と男は呆れた風に首を振った。

「さッきの火の鳥はただの火の鳥じャねェ。ありャ、煉獄ッちュうところにある罪を清めるための火さァ。たとえ、どんな強大な力をもッてよーと、鬼が触れて火傷の一つも負わないわけがねェ。なのに、おさん、全くの無傷じャねえか。鬼の中でそれは鬼神の血を引いている以外ありえんよ」

「鬼神の血……」

 鬼神、それは伝説にうたわれる鬼の神。鬼でありながら神々の末席に名を連ねるその鬼は、人を食らう牙を持ちながら決して人を襲わず、悪しきを罰する鬼であったという。
 シズカの村にも伝承として名を残しており、その血を引く末裔が地上のいずこかで静かに暮らしていると聞いたことはあったが……

(私が鬼神の血を引いているなんて、信じられない……でも、この力があれば!)

 悪しきを罰する鬼神の力、シズカに湧き出るこの力があれば、悪しきこの男を食い止めることが出来る。シズカの拳が静かに力強く握られる。父がその血を引いていたのか母がその血を引いていたのかはわからない。争いを嫌う両親も恐らくこのことを知るまい。だが、シズカにとってどこから鬼神の血が流れてきたのかなどどうでもよい、ただ目の前の暴虐に立ち向かう力があったことに先祖へ感謝し、守護の闘気を纏いながら男を強く見つめ返した。
 その様子を見た男は、やれやれとため息を吐き出すと鼻歌を一つ愉しそうに唄う。そして瓢箪をどこからか取り出した。

「~~~~♪これは特製なんだけどなあ、仕方ないなァ」

 男は取り出した瓢箪の口を開けると、朱色の刀の方へと向けた。男が瓢箪を傾けると、そこから液体が朱色の刀へと注がれる。すると、朱色の刀はまるでそのものが生きているかのようにその液体を啜り上げていくではないか。
 シズカの耳に、朱色の刀が液体を啜り上げる音が届く。それが幻聴か本当に聞こえているのかはわからなかったが、どちらせよ聞いていて気持ちの良い音ではなく、シズカは顔をしかめた。

「随分と趣味の悪い刀を使っているのね……」

「うん?ああ、こいつぁ特別な刀でねェ。造るのに苦労したもんさ」

 男がわざとらしく懐かしむように遠い目をする。その間にも瓢箪からどくどくと液体が刀へと注がれていく。

「なんせ素材がなあ……おっかねえ鬼の角と牙と骨と心の臓だからなあ、苦労したよ。少し材料を分けて欲しいってお願いしてもあいつらケチだから分けてくんねえんだもんなァ……人を襲わない鬼って言ってもなあ、分かり合えねえんだって思ったよォ!」

「!どこまでも……見下げた奴だ!」

 けらけらと当時を思い出して笑う男にシズカの怒りが強くなっていく。同時に湧き出る力の量がさらに増していく。

(こいつは、生かしてはいけない……!)

 この男は今は面白いから鬼を襲っているだけで、そのうちありとあらゆるもの……同じ人間にすらも面白いからとその牙を向けるだろう。そんな存在をシズカは許すことが出来なかった。
 拳をより強く握りしめる、心臓が爆発しそうなほどに鳴り響く、全身の毛が逆立つ……シズカの力はまるで底なしだ。彼女の求めに応じてどんどんと高まり続けていく。
 シズカが一歩踏み出した。それだけで大地も空間も悲鳴を上げたかのようにひび割れる。発生した衝撃が男を襲うが男は風に撫でられたかのように涼し気な表情をしているのみ。

「行く、ぞおおおおおおっっ!」

 咆哮と同時にシズカは駆け出した。
 踏み抜いた大地はクレーターを作り、爆風の勢いで男に接敵する。

「ははははははッ!」

 男もまた疾風の如く駆け出す、愉しくて楽しくて仕方ないといわんばかりに笑い声をあげながら。
 疾風と爆風で互いに迫りあう二人は中間地点で交差する。シズカは拳を、男は刀を振りぬく。

(捉えた!)

 シズカは勝利を確信した。すれ違う一瞬のさなかではあったが、男の心の臓を打ち砕いた感触を確かに感じていたからである。
 足を止め、右手の甲を見るとべったりとした血が付いている。ふー、と安堵の息がシズカの瑞々しい唇から漏れた。

「これで……平和になる、のかな……」

「……う~ん、鬼がいるからそれは無理じゃあないかなァ?」

「!?な……!?」

 男の変わらぬ声が聞こえたシズカは慌てて背後を振り向く。シズカの目に飛び込んできたのは、口から血をいくらか吐いているものの変わらぬ様子の男だった。

「あり、えない……確かに私は心臓を……」

「はははははッ!悪いねェ、俺のここに埋め込んであるのは偽物さァ、本物は別の場所にある。それを破壊しない限り、死なんぜ?」

 シズカは知らないであろうがそれは外法の術であった。
 心臓を別の場所に移し、代わりに術でできた心臓を配置することで死を遠ざける術。まっとうな人間であれば心臓を抜くという行為に忌避を覚えるものであるが、男にはそんな感情はないのだろう。

「いやはや……流石だねえ、こいつァ結構頑丈なんだがなァ……」

 男は手にしている朱色の刀を見やる。その刀身には無数のひびが入り、今にでも粉々に砕け散ってしまいそうだ。

「神便鬼毒酒まで使って角一本か、まあそれだけの価値があるってこった」

「何を言って…………え?」

 ぱきぱき、という音がシズカの額から聞こえてくる。
 聞きなれないその音を確認しようとシズカの手が額に触れた時、彼女の鬼の象徴である角がガラス細工の様に粉々に砕け散った。同時に、男の持っている朱色の刀も砕け散る。

「ぁ……あ……」

 ぺたり、とシズカは膝から崩れ落ちた。先ほどまで無限に高まりそうな力を感じない。
 鬼にとって角は力の象徴であり大切な器官だ。どの鬼もこの角によって己の力を引き出している。その角が無くなれば、どれほどシズカの身に強大な力が眠っていようと引き出すことが出来なくなってしまう。
 たかぶる怒りも思いも、角と共に砕け散りシズカは絶望の淵へと立たされてしまった。

「まァ、この刀の分までおェさんに働いてもらうとするかねェ」

「……何、を、言っているの……殺すなら、一思いに殺して……」

 ぽいと刀の柄を投げ捨てた男はにやにやと笑いながらシズカに近づいて来た。
 シズカには最早抵抗の術はない。ただただあっけなく命を奪われるだろう。だが、男はシズカの言葉に「いやいや」と首を振った。

「おェさん自分の……鬼神の血の価値を分かってねェなァ。さっき、言ッたろ?鬼は死ぬか隷属するか道具になるかしてねえとッて。おェさんには隷属してもらう事にしたかんなァ」

 嗜虐的に微笑む男の手にはいつの間にか黒々としたものが握られていた。
 男が何を言っているか何をしようとしているかシズカにはわからなかった。だが、禍々しいものは確かに感じている。特にその黒々としたものを視界にわずかでも入れると身体が妙にざわつく。
 そのシズカの様子に気が付いたのか男はにんまりとした様子でソレを見せつけてくる。

「これに興味があるとはお目が高いねェ、ほらよく見せてやるよォ」

 「ヒっ!」、男が見せたそれを完全に認識した瞬間、シズカの全身を悪寒が駆け巡った。
 その黒々とした光沢のあるモノは、どう見ても鬼の角であった。しかし、角が黒い鬼などシズカは聞いたことがない。それに、どう見てもあの黒さと光沢は不自然極まりない。
 それが何なのかはシズカはわからないが、鬼にとって己にとって嫌なものであるということは直感で理解できた。

「い、嫌っ……嫌ぁ……っ」

 腕を動かして何とか後ずさるシズカの瞳には涙が浮かんでいた。
 みっともなくても無様でも、とにかく男からあの黒い角から遠ざかりたかった。
 だが力を出すことが出来ないシズカでは当然のことながら逃げることは叶わない。男はニヤニヤ笑いながらとんっ、と地を駆けるとシズカの背後へと回った。一拍遅れて、後ずさったシズカの背が男の足にこつんとぶつかる。

「ほい、鬼ごッこはここでお終いだねェ」

「ひっ、あっ……」

「それじャあ、おさんには、俺のモノになッてもらうよォ。ほいッとなァ!」

 嗜虐的に目を細めた男は後ろから手をまわし、シズカの砕けた角の根元に己の持つ黒い角をがっちりと合わせた。
 瞬間、黒い角から根本に向かって黒い電がほとばしる。それはまるで蜘蛛の足の様で、獲物となったシズカの角を捕食しているかのようだ。

「う、わああああああああああああああッッッッ!!??」

 シズカはたまらず苦痛に悲鳴を上げさせられる。
 電に自分の身体の一部を焼かれる痛みはある。だがそれ以上に、黒い角からどろりとした異様なものが流れ込んでくる感覚がたまらなく気持ち悪く苦痛である。

 「あがっ、あがががががッッ!?おぐおぅぅぅぅぅッ!!」

 黒い角からどろりと流れ込んでくるソレはシズカの心身をひたすらに侵食していく。
 美しい青い瞳が濁った血の如き赤色に明滅し始めていた。

(か、変わるっ!消えるぅ!私が……消えてなくなってしまうっ!!)
「隱ー縺九?∬ェー縺句勧縺代※縺」縺」縺」??シ∵カ医∴縺溘¥縺ェ縺??縺峨▲?」

 助けを求めるはずのシズカの口から出るのは、まるで何を言っているかわからない、歯車がきしみ合う様な声だった。
 シズカが意味の分からない聞き取れない言葉を発しているうちに、シズカが危惧していた通り彼女の心身を黒い角は侵食していく。
 子どもの頃友達を泥まみれになるまで遊んだ夕焼けの赤い思い出が
 両親に誕生日を祝ってもらい大好物の餅を食べた白い思い出が
 婚約者でもある幼馴染と初めて手をつないだ時の青い思い出が
 村の子供たちにお姉ちゃんと慕われる黄色い思い出が
 全て全て色を失い意味のないただの記憶へと変わっていく

(あ、あ、ぁ、あ、ぁ、あ、ぁ、あ、ぁ……………………………………ア?)

 濁った血の色となった瞳でシズカは幻視する。
 子どもの頃に遊んだ友達を足で踏み砕いた、誕生日を祝う両親の首を爪で切り裂いた、手をつないだ恋人を腕で叩き潰した、姉と慕う子供たちを牙でかみ砕いた。その凄惨な光景を演出しているのは黒い角を持った一人の悪鬼……嗜虐的に妖艶に微笑むその女の顔は、

(わ、たし……わたしだ……私が……やっているの……)

 シズカそのものだった。シズカが今まで浮かべたことがないような残酷な表情で鬼たちを嘲笑あざわらい、愉しそうに血を啜っている。それは、なんて

(…………す、素敵…………♥)

 幻視のシズカとシズカの表情が重なり、唇は妖艶で嗜虐的な笑みを形作った。
 黒い角に心を侵食されたシズカは、色を無くした思い出たちを黒い感情で破壊していくことに喜悦を感じ、その喜悦こそが黒い感情こそが己の真実だと歪んだ認識で上書きされていく。
 シズカが幻の光景に恍惚の表情を浮かべるかたわらで、幻のシズカは振り返り誰かを見つけるとまるで雌犬の様にその誰かに駆け寄り、豊満な身体をこすりつけ媚びへつらい始めた。
 
(あれは……ああ……♥)

 幻のシズカが媚びへつらう相手を確認すると、シズカの表情もまた蕩けた雌の顔となっていた。
 そこにいたのは先ほどまで対峙していた名前も知らない飄々ひょうひょうとした美しい顔立ちの目の濁った男。その男が軽薄にわらいながら幻のシズカの頭を撫でた。

『ようやッたなァ。それが本当のおさんよ。暴虐を振りかざして愉悦し主人にへつらい股を開く……幸せじャろう?』

(幸せ、これが幸せ……ああ、からだが幸せで震えてしまうッ♥)

 幻の男の言葉をシズカは正しいと感じる。暴虐を振りかざして破壊を撒き散らしご主人様に媚びをうる雌……それが己の本性だと完全に書き換えられてしまう。

(あはっ、あははははははははッ!これが、私っ!私の本性っ、あははははははッ!)

 シズカが己の書き換えられた本性を完全に受け入れたところでシズカの身体も変わっていく。

 絹のようなきめ細やかな白い肌は褐色へと
 美しい金糸の髪は光を通さぬ漆黒へと
 透き通るような青い瞳は血の濁った赤色へと
 唇に紫色をした紅が塗られ、目元は朱色の隈取で彩られていく
 薄い桃色の健康的な爪にも黒色の爪化粧が施されていた
 最後に黒い角が折れた角の根元と完全に定着するのと同時にシズカの下腹部に太極図が刻まれていた。

 心身の変化を終えたシズカは、よろよろと立ち上がり背後へと振り向いた。そこにいる男……ご主人様を血の濁った二つの瞳で捉えると、恍惚に微笑みひざまずいてうやうやしく頭を下げた。

「ご主人様……♥今までの無礼をお許しください、ご主人様のお陰で私は己の真実を知ることが出来ました。その礼と言ってはあまりに釣り合いが取れませんがこのシズカ、命果て魂が砕け散るその時までご主人様のために己の身を捧げさせていただきます♥」

 今までのシズカであったら決して言わないであろう従属宣言。妖艶な笑みと共に男に捧げられたその言葉に、男は満足そうに声を出さずにわらった。

「そりャ、ありがたいねェ。鬼神の血を引くおさんを手に入れられたとありャあ、さっきの刀なんて安いもんさ」

「ふふ、愚かだった過去の私の角を砕いてくれた刀の材料となった鬼たちに感謝をしなければなりませんね」

「ちげェねェ!」

 先ほどまでの彼女ではありえない、鬼の命を何とも思っていない言葉に男は耐えきれずげらげらと笑いだし、シズカはくすくすとたおやかにわらった。
 腹を抱えて笑っていた男だったが、何かに気が付いたように手をぽんと叩く。そして、呪符を取り出し、己の人差し指の腹を歯で軽くちぎった。

「おお、忘れるところだッた。せッかく俺のモンになッてくれたんだから、褒美をやらにャあな……うし、今日からおさんの名前は【ウルサ】だ。うん、魂に新しい名前を刻んでやるからなァ」

 呪符に己の血で【ウルサ】と名前を書くと、その呪符をシズカの額にぺたりと貼り付けた。
 額の呪符はまるで溶けて消えるかのようにシズカの身体の中に入っていき、シズカの魂に張り付いていく。

「ウルサ、ウルサ……ああッ、なんて素敵な名前ッ♥私の過去の名を捨てて下さるどころか新しい名をお恵み頂けるなんて……ご主人様、ウルサは最早この身が尽きる程度の奉仕ではその恩に報いることが出来ません!例え、この身が滅びようと何度でもご主人様の元へ転生し、隷属することを誓わせていただきますッ!!」

 滂沱ぼうだの涙を流し男への激しい感謝の言葉を述べると、ウルサとなった鬼は鬼神の力を黒い角を経由して引き出し行使する。
鬼神の力を引き出したウルサは魂に先ほどの感謝の誓い……転生しても隷属することを刻み込む。そして、数秒もしないうちに、ウルサの胸元には八の字に己の尻尾を食らい続ける蛇の紋様が刻まれた。

「ホント、いいモンを手に入れたよ、オレ。さ、まずはやらんといけねェことがあるんだ、わかッてんよなァ?」

 胸元に刻まれた紋様に満足気に息を吐いた男は試すかのようにウルサに問いかける。
 男の問いにウルサは嫣然えんぜんと微笑んだ。

「勿論、ご主人様のことならばわかッておりますわ♥この隷属悪鬼ウルサにお任せあれ♥」

 嫣然えんぜんとした微笑みとは逆に、細まったその眼は嗜虐的に邪悪に濁っていた。


「あっ、ああああ……」「ぐぅげぇっ!」「どうして、こんなっ……」「うわあああっ!」

「あ、あああああ……やめろ、やめてくれシズカ……どうしてこんな、ことを……」

 ぐちゃりぐちゃり、と血肉がまき散らかされる。
 その手で村から逃げ出した鬼を老若男女関係なく屠るウルサの顔は恍惚に蕩け唇は嗜虐的に歪んでいた。
 ぶおん、と軽く手を振るえば余波で数人の鬼の子が絶望の断末魔を上げながら、その姿を肉塊へと変えさせられた。
 シズカと呼び、ウルサに静止を願うのは男が現れた時にたまたま村の外に出ていたシズカの幼馴染にして婚約者の鬼の青年。  涙を流し、シズカと何度もウルサを呼ぶその姿があまりに滑稽すぎてウルサは笑い声をあげていた。

「あははははははッ♥いい、いいですよォ……その姿、無様さ、とッてもおかしい♥でも、ごめんなさい、私はシズカでないのご主人様から頂いた名はウルサ……ふふ、いい冥土の土産になッたでしョう?」

「そういうこッたなァ。ま、おさんの元婚約者は俺がちャあんと使ッてやッから、安心しろい」

 じゃ、死にな
 男のその言葉と共に、ウルサは鬼の青年の首を素手で引きちぎった。その死に際の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が面白くてウルサはわらった。
 ウルサは鬼の青年の首を天にかざし、そこから滴る血を口を開いて艶めかしい真っ赤な舌で血を受け止める。そのまま、見世物の様にごくりとどこか淫靡いんびに喉を鳴らして血を胃へと送る。すると、ウルサは顔をしかめた。

「不味ッ!こんな不味い血がこの世にあるなんて……」

 ひどいものを飲まされたと顔をしかめるウルサは鬼の青年に興味がなくなったといわんばかりにその首を近くの川へと投げ捨てた。川が血で真っ赤に染まるが、ウルサは知ったことではない。
そして、その鬼の青年が死んだことで周囲には生きているのはウルサと男の二人きりとなった。

「ご主人様、村から逃げ出して鬼は全員仕留めましたァ……♥」

 跪いて男を艶やかに見上げるウルサ。
 男によって着替えさせられた黒の着物はウルサの豊満な胸の北半球が転び出ており、なんとも欲情を誘う衣装だった。さらには下半身は下腹部に刻まれた陰陽図を見せつけるかのように紐の下着のみという、男を愉しませるためだけの服とも呼べぬ姿をウルサはさせられていた。

「ようやッた、鬼どもが逃げた先までは俺ではわからんからなァ。おさんのおかげよ、ウルサ。どうだい、村の鬼を、かつての仲間達をその手で殺した感想は」

「……ふふっ、勿論、最高に決まッておりますわァ……♥ああ、あの子たちの絶望の表情、肉を蹂躙する感触!どれをとッてもたまりません、私はしたなく身体がうずいてしまいました……♥まあ、最後の血が不味かッたのが唯一の不満ですが……」

 恍惚に微笑むウルサは己の行った破壊を思い返し、顔を赤らめからだを歓喜に振るわせていた。
 それだけに、最後に残しておいた鬼の青年の血が不味かったことが引っかかる。シズカの(ウルサのではない)元婚約者であれば、最後に相応しい味だと思っていたのだが、期待外れもいいところだった。

「じャ、次の鬼に期待しようや。いずれは人間の血もたッぷりと飲ませてやんから、楽しみにしてなァ」

 最後が締まらずに顔を曇らせるウルサに、男は散歩に行くような気軽さで残酷な予定を投げかけた。
 かつてシズカが危惧していた通り、男はいずれ人間にも牙を向ける予定だった。理由は楽しそうだから、それ以外の理由など必要ない。人を支配をするつもりなど毛頭ない、ただただ己の楽しみだけに破壊を撒き散らし不幸を招く災厄の化身、それが男だった。
 ウルサを手に入れたことで、自分が以前想像していた時よりもますます楽しくなりそうだと男はその時を想像し、濁った瞳で愉快そうに笑いながら手を打っていた。

「……素敵♥流石、ご主人様♥ああ、はしたないことに愉しみで愉しみで身体が殺気よりもうずいてきてしまいましたわァ♥どこまでも、どこまでもお供致しますご主人様♥」

 男の予定を聞いたウルサはまるで初心うぶな少女の様に顔を赤らめながら、その時の期待に胸を膨らませる。最高の主人に仕えることが出来ている喜びと、その偉大さをまだまだ理解できていないことに恥じらいを覚え、ウルサはからだをぶるりと震わせた。

(ああ、他の鬼たちは、妖怪たちはどんな血の味がするんだろう?どんな悲鳴を上げてくれるのだろう?人間の血はどんな味なのか……この世は愉しみだらけ、ご主人様と共に楽しみを味わい尽くせることがこんなにも幸せだなんて♥)

 男と同じ濁った瞳で微笑むその女の鬼は、鬼神の力を主人と己のためだけに利用するウルサは、男と同じ災厄の化身に他ならなかった。


 ……やがて、退魔士風の男と女の悪鬼の眼の濁った二人組は生きとし生きるすべての生命の宿敵で恐怖の対象として伝えられていった。
妖怪を踏み砕き、神々を辱め、人間を喰らうその二人の災厄の化身は、時代と共に何度でも蘇り、己の楽しみのためにわらい合いながら命を蹂躙していったという……

講評

評価基準について

定義魅力提示企画総合
ABCCC
評点一覧

秘められていた鬼神の力に覚醒した鬼の女性が、巨悪に屈してその力ごと主人に捧げるようになるという、性質の反転および得られた力による暴虐といった悪堕ちと相性が良い設定を取り入れており、特に淫靡に堕ちていく彼女の姿と相まって魅力的である。
また、鬼の角の特性を活かした行動や堕ち方、堕ちた後は恋人を無下に扱い、その血を不味いと言ってのけるという、堕ちる前からの反転具合など、悪堕ちを魅力的にする要素が作品に多く盛り込まれていることがよく分かる。

しかしながら、作品を読んでいて全体的に「正体不明さ」「不気味さ」を感じる。ひとつは、作品における巨悪となる退魔士の男の正体が掴めないことである。「正体が掴めない」ことを特徴としている巨悪というわけでもなく、普通の人間とは価値観が異なる、戯れに残虐な行為を行う「災厄の化身」を表現しようとして、逆に台詞や行動から感じられる人物像が練られていない薄いものと感じられ、これが堕ち後の女性の軽薄さにも繋がっている。
さらに、登場人物たちに設定を語らせることを含めて、あらかじめ用意している設定を順番に説明していくような物語の構成となっており、それが淡々とした味気のない物語という印象を強めている。

また、不必要に難しい単語が使われており、虐殺の描写があること、淫らに性を捧げる描写があることなどから、全年齢向けとしての評価は低い。誤字脱字の多さと前述の物語全体が掴めないことも相まって読みづらく、最終的にこの評価となっている。

悪堕ち後の女性の容姿など、悪堕ちとしてどういった要素が魅力的であるかを理解できているように見受けられるため、堕ちる対象となる「悪」の魅力を固め、文章を読み物として読者の心に響くまでに練り上げることができれば、優れた悪堕ち作品となるだろう。