作品名

空ろの聖女に救済を

ペンネーム

夢見夜七葉

作品内容

「娘を!娘を何卒お救いください!」
「ウオオオ……!」
「この通りずっと獣のような唸り声をあげていますが、本当はおとなしい娘なんです……!」
 教会には毎日悩める子羊たちがやってくる。特に近頃多いのは、「悪魔き」に関する相談だ。悪魔は人間の体に憑依し、穏やかな人が突然荒々しくなったり、医者に見せても体調不良が治らなくなったりなどの現象を引き起こす。それを解決するのが私たちの役目だ。
「エレシア、頼んだよ」
「はい、お任せください」
 悪魔に憑依された娘に触れ、そのまま抱きしめる。目を閉じて、その内にいる悪魔を”視る”。
「ウオオオアア!」
「大丈夫です。落ち着いて。すぐに終わりますからね」
 暴れようとする娘を周りの人たちが抑えてくれている間、私はずっと触れ続ける。すると彼女の中にいる悪魔が私の方に引き寄せられてくる。近づいて、近づいて、彼女の体と私の体、その境界線まで寄ってくる。水が高いところから低いところに流れるように、そのまま私の中に流れ込んでくる。
「ぅ……ぁ……え?何これ?どうなってるの?」
「大丈夫、もうすぐっ……うっ……はぁ……」
 私の心臓の鼓動が急に激しくなる。呼吸が苦しくなって、体中に痛みが走る。その代わり、さっきまで苦しそうだった彼女はきょとんとした顔になる。
「はぁ……あなたの中にいた悪魔は取り除きました。ぅ……もう、大丈夫ですよ」
 通常、悪魔を人間の肉体から追い出す時は、憑依先の人間の体にも負担がかかるため、後遺症などが残る恐れがある。しかし私たちのやり方なら大丈夫。まず悪魔を私の体に移してから、祓師ふつしによってこの世から追い出す。こうすればみんなは苦しむことなく悪魔を除去できる。私一人が苦しむだけで、何人もの苦しみをなくせる。
「ありがとうございます、聖女様!」
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 これを始めてから、人々は私を聖女と呼び始めた。自らの身を犠牲に民を助ける救世主だと。正直、それは身に余る評価だと思う。私はこれくらい苦しんで当然だし、実際に悪魔をはらっているのは私じゃなく神父様だからだ。
「私は大丈夫、です。あとはこちらで祓いますので、もう帰って大丈夫ですよ」
「はい!ありがとうございました!お礼と言ってはなんですが、こちらウチで採れた野菜です。お納めください」
「ありがとうございます」
 悪魔がいなくなった人たちは、悩みがスッと消えたようにお礼を残して去っていく。私なんかが少しでも役に立てていることは嬉しく思う。
「お疲れ様、エレシア。体は大丈夫かい?」
「ありがとうございます。ピエダ神父。私は大丈夫です」
 よく通る低い声で私を労ってくれるこの長身の男は、ピエダ神父という、この教会を取り仕切る司祭にして、高位の悪魔祓師でもある。彼は私を教会に連れてきた張本人であり、実の娘のようにかわいがってくれている、恩人だ。
「またそう言って、君はいつも無理をするからね。礼拝堂で早急に悪魔を祓おう」
「はい、よろしくお願いします」
 ピエダ神父に手を引かれ、多少ふらつきながら教会の奥へ移動し、専用の椅子に座る。聖水を飲んで身を清め、目を閉じる。
「エレシアよ、悪魔の名はわかりますか?」
 自らのうちに潜む悪魔の声を聞き、情報を探る。悪魔は名前を見抜かれると、その力が弱まってこの世に存在できなくなるからだ。
「『ポドソネス』……と、言っています」
「わかりました。ありがとうございます」
 ピエダ神父は優しく私に言ったのち、水晶玉を携えて鋭い目つきで、祈りの言葉を放ち始める。
「我、神に祈る。天よ、地よ、人よ、力を与え給え。地獄より蘇りし悪魔ポドソネスよ立ち去れ。ここはお前のいるべき世界ではない」
 私の中で、悪魔の叫び声が聞こえる。『やめろ!やめろ!こんなことをしても無駄だ!まもなく邪神は復活する!』などと、どうにかやめさせようとしているようだが、この声は私にしか届いていない。
「天使たちに誓う。この者は無垢なる人の子。悪魔に呪われる道理なし。邪悪なるものよ、お前の存在は許されない。命を人に返しなさい。大人しく地獄に帰りなさい。大いなる神の名において、お前の存在を排斥する。悪魔よ、去れ!」
 叫び声を上げながら、私の中から悪魔が消滅していく。さっきまであった痛苦が嘘のように消え去り、体が軽くなる。
「ありがとうございます、ピエダ神父。無事に悪魔は去りました」
「よくがんばりましたね、エレシア。ゆっくり休んでください」
「いいえ、私はまだ……!」
 彼は私にとても優しくしてくれる。私はまだ元気なのに過保護なくらいだ。
「いけません、悪魔をその身に宿すのは危険な行為なのですから常に万全にしなくては。マリー!アリス!エレシアを連れて行ってあげてください!」
 彼が名前を呼ぶと、修道女たちがすぐに駆けつける、ブロンドの綺麗な髪のマリーとくりっとした瞳のアリス。彼女たちは私と同世代なので、教会の人の中でも特に仲良くさせてもらっている。
「はーい!」
「行こ、エレシアちゃん」
 彼女たちに手を引かれ、修道院に戻る。大体ここまでが毎日のルーティンだ。他には聖女として人々の悩みを聞き、祈りを捧げ、ときどき外に出て慈善活動をしたりしながら過ごしている。みんな私のことを、大事にしてくれるし、広い部屋も、可愛らしい衣服も、美味しい食事も、何もかもみんなが与えてくれる。そんな生活に何も不自由することはない。ないはずなのに。

「……はぁ」
 あっという間に時間は過ぎて、すぐ夜になってしまう。一人になると、私はいつも考える。
「いいのかな、私がこんないい生活をして」
 脳裏に浮かぶ、あの日の記憶。
 家が焼け、瓦礫と、人だったものが転がり、あたりに鉄のような匂いが充満する私の故郷。お腹が空いて、頭が痛くて、息も苦しかった。母は妹を探しているうちにはぐれてしまった。父は兵士としてどこか戦いに行ってしまった。一緒に逃げていた友達は、途中で気を失ってしまった。それでも私は歩いた。きっと誰かが助けてくれると願って。そんな私の願いが通じたのか、教会の人たちが助けてくれた。本当はその時、家族がまだ取り残されているかもしれないことや、友人が倒れていることを伝えたかったけど、朦朧としていてそれは叶わなかった。
 後日、その戦場での生存者は私一人だけだという知らせが入った。死地から唯一生還した奇跡の少女だと、教会の人たちは言った。私は嬉しくなかった。本当は他に生きてて欲しい人がいたのに、私だけ生き残ってしまったから。
「『ずるいよ、友達だと思っていたのに。自分だけ助かるなんて』」
 かつての友から、そんなふうに言われている気がする。あそこで死んだ人たちから、もっと生きたかったはずの人たちから、怨嗟の声が聞こえてくる。耳を塞いでも目を背けても、それから逃れることはできない。
「『あんたも死ねばよかったのに』」
 本当はそうしたい。でもそんなことはできない。だってみんなの死が無駄になってしまう。だから私は生き続けないといけない。この罪を償い続けないといけない。
「『祈ってるだけじゃ誰も救えないのよ』」
 そうだ。でもやるしかないんだ。私にできることはそれしかないんだ。結局私にはそれしか残されていないんだ。
 いつもの通り幻聴と自問自答していた私は、ある違和感に気づいた。
「なんだか、今日の声ははっきり聞こえるような……」
 いつもはぼんやりとしか聞こえない、それか夢の中にしか出てこない彼女の声が、部屋の外から聞こえたような気がした。それに気づいた私は、何かに導かれるように歩き出した。みんなを起こさないよう慎重に教会を抜け出して、外に出る。遠くの方に、少女のような人影が見えた気がした。
「……アミアちゃん?」
 それを追いかけて進む。町の中を抜けて、少しはずれの森のほうへ、時々姿を見せる人影を追いかけ続ける。
「ねえ、どこに行くの?」
 普段は入らない、獣道を進んだ先。石がいくつも円を描くように積みあがっている不気味な場所にたどり着く。その中心には巨大な祭壇のようなオブジェクトがあり、そこに少女は立っていた。
「『久しぶりね、エレシア』」
 暗闇の中に佇む彼女の姿はよく見えなかったが、背丈や声の感じからして、あの頃私と友達だった、アミアで間違いなかった。私は思わず駆け寄った。
「アミア!やっぱりアミアだ!生きてたんだ!」
 私の目から涙が溢れていた。色々言いたいことや聞きたいことがあるけど、うまくまとまらなくて、とにかく彼女がいることを喜びたくて、その体を抱きしめた。その時、気づいてしまった。
「……冷たい?」
 咄嗟に手を離す。嫌な予感がして全身に鳥肌が立った。だってこの感触、生きている人間のものとは到底思えない。
「あはは、死者が蘇るわけないじゃん。地獄から現世に来れるのは悪魔だけさ」
 アミアは。否、アミアのような姿をした何かは、先ほどとは異なる口調で、あざけるように私に言った。
「こんばんは、聖女エレシア。嬉しいよ、ボクに会いに来てくれて。わざわざこいつの死体を掘り返した甲斐があったというものだね」
「なんなんですか、あなた」
「おっと、すまない申し遅れたね。ボクは、神さ。キミたちが信じている神サマとは、別の神」
「……何を言っているんですか?」
 目の前にいるそいつは、芝居がかった口調と仕草で、挨拶のようなことを言っているが、その内容は支離滅裂だ。
「うーん、やっぱり理解してもらえないかぁ。じゃあ、そうだね。邪神フォルゲネル、と言えば誰だかわかるかな?」
 その単語を聞いた時、思わず身構える。邪神フォルゲネルとは、聖書に登場する存在の名だ。人間の心を惑わす邪悪な存在であり、悪魔の王たる存在。私たち教会の敵である。さっきまでの言動は私を惑わせるためだったことに今更気づき、私の未熟さを恥じる。
「やだなぁ、そんなに怖がらないでよ。大丈夫、キミを殺そうとかそういうことを考えてるわけじゃない。むしろ、キミを救いに来たんだ」
「そんなことを言って、私がだませるとでも思いますか?」
「そう?戦地から一人だけ生き残ってしまったキミが、その罪悪感から救われる方法、知りたくない?」
「っ!?」
 邪神は、最も簡単に、誰にも踏み入れさせなかった領域に土足で踏み込んでくる。
「キミは多くの人を助けたかった。本当はこのアミアって女の子も、家族も、見ず知らずの人も助かってほしかった。だからもう誰もこんな思いをしないように、誰も飢えず、争わず、死なない、自由な世界を求めている。でも自分にそんな力はないから、ただ求められるまま聖女をやっている。自分は生きているべきじゃないから、本当は死ねるならすぐにでも死にたい。そうでしょ?」
 私が内に抱えていた思いを勝手に言語化したうえで揺さぶりをかけてくる。確かに言っていることは事実だが、そんな誘いに乗るわけにはいかない。聖女エレシアは、そんな誘いに乗ってはいけない。
「ボクならキミに力を与えられる。キミが普段戦っている悪魔たちとは比にならない、神の如き力さ。欲しくはないかい?この世全てを救い、自分自身を呪縛から解き放つ力」
「邪神の力など、私には必要ありません」
「本当に、これを見てもそう言えるのかい?」
 否定しようとする私に、そいつが見せてきたのは、傷ついた小鳥の姿だった。まだかろうじて生きているようだが、翼が折れており、もう二度と飛び立つことはできないだろう。
「……可哀想に」
 そいつはおもむろにその小鳥に手をかざすと、手から何かが出ていって、小鳥の体に流れ込んだ。すると次の瞬間、折れていたはずの翼は再生し、さらに禍々しく変質した。さらにそこから侵食されるように、小鳥はいくつもの目を持ち、蝙蝠のような翼を持つ異形かつグロテスクな怪物へと変貌して行く。
「ぅ……なんですか、何が起こっているんですか!?」
 その姿にもよおした吐き気を堪えながら、精神は持っていかれまいと邪神に食い下がる。
「ボクの眷属にしてあげたんだよ、こうすれば通常の生命を超越した存在となり、死から解放される。ほら見てよ、あんなに楽しそうに飛び回ってる。素晴らしいと思わないかい?」
 私の目の前で、そいつは今にも尽きそうな命を再生させた。その姿こそ変わっているものの、なぜか、その鳥の様子はとても楽しそうに見えてしまう。私なら救えなかったものを、そいつは常識外の力で救ってしまったのだ。確かに、見方によれば、私が欲していたものと言えるかもしれない。あの時一人だけ残された私のような人間を、二度と生まないようにすることができる、力。
「どうだい?欲しくないかい?こんな力。これがあれば、もう後悔する必要はない。あの時救えなかった分、これからもっと多く命を救える!」
 確かに、ほんの一瞬、欲しいと思ってしまったことは認めざるをえない。しかし、それは定められた生命のルールを無視して書き換えてしまう冒涜の行為。私が認めるわけにはいかない行為だ。
「いいえ、要りませんそんな力!邪神に手を貸すなど、許されざることですから!」
 私がキッパリと否定すると、そいつは一瞬目を見開いて停止する。アミアの体は灰のようになって崩れ去ると、どす黒い煙のようなものだけがそこに残った。おそらく、あれが邪神の正体。
「……クク……クッハハハハっ!いいねえ、それでこそ聖女様だ!背信行為など許せない、素晴らしい精神じゃないか!」
 それは煙のような体で私にまとわりつき、脳を揺さぶるような禍々しい声が愉快そうに響いた。
「離れてください!邪神のいうことに耳を貸すことなどありません!」
 しかし、相手が何であろうとも、私は聖女としての態度をとり続けるだけだ。邪神の誘いに打ちてるのは強い精神であるという教えを信じるしかないから。
「どんな抵抗をしても無駄だよ。この力を一瞬でも欲しいと思ってしまったこと、それなのに要らないって嘘ついて、心に隙を作ってしまったからね。聖女なんて呼ばれているけど、ただのか弱い女の子だったってわけだ!」
「そんな、ことっ!」
 邪神の言うことを否定したかったけど、私にそんな材料はなかった。だって、私なんか聖女じゃないって、他ならぬ私が一番思っているのだから。自分だけ生き残ってしまったことに後悔しながらも、私は心のどこかで、自分は選ばれた存在だって驕っていたって、わかっているから。
「安心してよ、キミの体はボクが有効に使ってあげるからさっ!」
「うぐっ……なにをっ……!?」
 煙状になった邪神が、私の体の中に流れ込んでくる。振り払おうとしても実体のないそれには触れることさえ許されない。
「うん、何体もの悪魔を受け入れてきただけあって入りやすいね」
「まさ、か、体、乗っ取る、つもりですか?」
 体の中が、どす黒い何かに蹂躙されているのを感じる。自分という存在が、何かに上書きされるのを感じる
「わかってるなら話が早い、ねっ!」
「……ぁ……」
 全てが体に入り込んだ時、私の体は、力無くその場に倒れ、そのまま私の意識も、闇の中に溶けていった。
「……クク……クハハハ!うん、いい身体だ。これからよろしくね、空っぽの聖女サマ」
「『大丈夫、私にお任せください』」
 気がついたら、教会に戻っていた。しかも私の体は勝手に動き、喋っていた。私は確か邪神に体を乗っ取られたはずなのに、まるでいつもの私のように、悪魔を祓うために人の体に触れていた。
「うっ……苦しいよ……なんで……」
「『すぐに楽になりますよ。もう少しの辛抱です』」
 いつもの私と言動は同じ。でも、悪魔を祓っているはずの相手の様子がおかしい。悪魔が私の中に入ってくるどころか、別の何かが相手の中に入っているような感覚。邪神が、悪魔に力を注いでいるようだ。
「うっ……グ……グオオオッ!」
「なんだ!?何が起こっている!?」
 体内の悪魔の存在が肥大化し、憑依された人が苦しそうに叫ぶ。さらに体は黒く変色し、腕は筋肉質になり、さらに角や牙、翼までもが生え始める。
「グオアアアア!!!」
 彼に一体何が起こっているのか。この姿はまるで……。
「悪魔……!エレシア!一体何が!?」
「『わ、わかりません!悪魔が急に暴走して……!』」
 駆けつけたピエダ神父に、私の体を使って嘘の報告をする。本当は邪神がこれを引き起こしたのに、まるで被害者のようないい草だ。
「くっ!鎮まれ悪魔よ!」
「フン!」
 ピエダ神父は聖水を悪魔に直接ぶつけようとしたが、それは簡単に振り払われる。
「人間如きが俺様に攻撃できるわけないだろう。俺様の名は悪魔ファーリース。この世界を再び支配するため蘇りし者だ」
「ば、馬鹿な。悪魔が受肉を!?」
 もうそこに憑依先の人間の面影はなく、完全に受肉を果たした悪魔の姿があった。
……私のせいだ。私のせいで、私が弱かったせいで、こんなことに。
「皆さん、早くここから逃げてください!それから騎士団の要請を!」
「逃さぬ!」
「させません!ぐは!」
「『っ!ピエダ神父!大丈夫ですか!?』」
 ピエダ神父は悪魔と対峙しながら教会に来ている人たちを逃がそうとする。それを悪魔が阻もうとするも、自ら悪魔に飛びかかって攻撃を自身にそらす。邪神は、いかにも恐怖で足がすくんで動けない少女の如き振る舞いで、彼の心配をするフリをしている。
「大丈夫です!あなたも早く逃げぐぁ!」
「他人の心配より自分の心配をすべきではないか?フン!」
「ごはっ!」
 悪魔が繰り出した攻撃が容赦なくピエダ神父の体に突き刺さり、鮮血が周囲に飛び散る。
「『ピエダ神父!』」
「……エレシア……貴方は生きなくてはならない……そして、悪魔に惑わされず民衆を、導い……ぐぁっ!」
 神父に駆け寄る私の体。瀕死の彼は、必死で遺そうとした私へのメッセージは、何者かに遮られた。
「エ……レ……なぜ……」
 彼の首には、私の手がかかっている。違う。これは私じゃない。邪神がやっているんだ。気づいてピエダ神父。
「『ありがとうございました、ピエダ神父。恨むなら、そのあつい信仰心を恨んでくださいね』」
 そのまま力を強め、首を絞めていく。やめてほしいのに、止まって欲しいのに、私の体は一切言うことを聞いてくれない。
 嫌だ。なんでこんなことをするの。これは私の体なのに。なんで、私の体で、私を助けてくれた人に、こんな。
「……ぁ……」
 手を離す。彼の体はその場に崩れ落ちる。私の体を奪った邪神は、彼を踏みつけながら悪魔に歩み寄る。
「よくやってくれたファーリース」
「ありがたいお言葉です、我が主」
「これで聖女の心も折れただろうし、本格的にみんなをこの世界に呼び戻せるね」
「露払いはこの俺様にお任せを。人間どもをまとめて生贄にしてやりますよ」
「クク、期待しているよ」
 邪神は、悪魔と共に教会を後にした。街の中はパニック状態で、みんな悪魔から逃げようと必死で走っている。
「邪神様のお通りだ!道を開けよ人間ども!」
 悪魔が率先して民衆のもとに飛び込む。ただひたすらに逃げようとする者、誰かを庇おうとする者、また誰かを囮にしてでも自分も逃げようとする者もいた。
「いいね、自分だけ生き延びたいというその欲望、悪魔の依代に相応しい!さあ、ボクの力で目覚めろ、悪魔たちよ!」
 そんな悪意を持った人間たちに、邪神は力を注ぎ込む。人間は悪意を持った時、特に誰かを害しようとした時ほど悪魔に取り憑かれたやすい。邪神はそれを利用して、眷属をねずみ算式で増やしていく。
「ヒャッハー!久々の現世だぜ!」
「お前、邪神様の御前だぞ」
 人間たちの体が次々と、強靭な肉体を持つ者、ライオンの様な頭を持つ者、3対の翼を持つ者など、様々な悪魔に変貌してゆく。立ち向かう者や誰かを助けようとする善人たちは殺され、悪人たちは悪魔に生まれ変わって行く。あっという間に街中が悪魔だらけになって行く。
「クク……いいね。ボクの完全復活もすぐに達成できるかもしれない」
 あっという間に街は滅ぼされ、次の生贄を求めて移動を始める悪魔たち。私は、自らの体を奪った邪神による侵略を、ただ心の中で見ていることしかできなかった。

 それから一週間ほど経過した。悪魔の軍団を倒すため、王国の騎士団が出動して、街は戦火に包まれた。それをいとも簡単にうち倒し、踏み潰しながら邪神たちは侵攻を続け、ついには国王の城まで辿り着いた。
「聖女よ、乱心したか!?悪魔の味方をするなど!」
「『いいえ、私は正気ですよ、王様。私はただ、みんなを救いたいだけですからね。貴方のことも、”救って”差し上げます』」
 王との会話ののち、邪神は王に直接その力を注ぎ込んだ。
「ぬぐおおお!!貴様!何を……!グギャアアアア!」
「せっかくだから強大な悪魔にしてあげるよ、王様!」
「グギギ……ギャオオオオオ!!」
 王だったものの体が裂けるとさなぎが羽化するかの如く、その悪魔が姿を現す。獅のような頭部、蛇のような鱗、鷲のような翼を持ち、竜を思わせる。それは天空へ飛び立つと、灼熱の炎を吐いて街を焼き始める。
「ようやく見つけたぞ!よもやそこまでの力を手にしていたとはな、邪神よ!」
 そこに現れた、一人の老齢の男。髭を蓄えた貫禄ありながら優しげな顔立ち、純白の祭服、身長を超えるほど巨大な杖。その姿は、私も数回だけ見たことがある。
「おや、君はどうやら、この時代の教皇かい?」
「いかにも、儂こそは教皇ガブリール二世。神の名のもとに、貴様を倒す者だ!」
 国王すら悪魔に堕ちるほどに異常事態に、ついに教会のトップが駆けつけた。彼は元々最高位の悪魔祓師であり、教祖様の子孫でもある。
「老いぼれひとりで何ができるっていうんだい?行け、ボクの眷属たちよ!」
「主よ、我に力を!地獄より蘇りし者たちよ、立ち去れ!」
 襲いかかる六体の悪魔たちに一切怯まず、彼は杖を振るう。すると杖からまばゆい光が放たれる。
「グオアアアア!!!なんだ、この光は!」
「これでは実体を保てん!」
 光が悪魔たちを包み込むと、彼らは煙になって消滅していく。
 私はわずかに希望を取り戻した。彼なら邪神を倒してくれるかもしれないと。本当にみんなを助けられるかもしれないと。
「ハァ……ハァ……次は邪神フォルゲネル!貴様の番だ!」
「やるじゃん、人間にもここまでの実力を持つ者がいたとはね。でもいいのかい?今の悪魔を祓うのですらそのザマでは、ボクを祓おうとすればオマエは確実に死ぬ。ボクが使っているこの体も無事では済まないぞ」
「構わん!儂はこの命に代えても、お前を封印する!」
「何っ!?」
 邪神の脅しにも一切怯まず杖を掲げて向かってくる。流石の邪神もここまでの覚悟が決まっているとは読んでいなかったのか、一瞬だけ反応が遅れてしまう。その刹那、杖が私の体に突き立てられた。
「ぐおお!!」
「邪悪なるものよ、お前の存在は許されない。命を人に返しなさい。大いなる神の名において、汝に永遠の眠りを与えん!!!」
「う……そだろ?まさか、このボクが、人間如きの意志に、敗れるのか……?」
 私の中から何かが吸い出されていく。邪神が、杖の中に封印されていく。邪神が教皇を蹴り飛ばし、杖を体から引き抜いても、それは止まることがなかった。
「ああ、少し油断しすぎちゃったみたいだ。……そうだ、せっかくだし、残っている力を使って君の身体だけは治しておいてあげるよ」
 何かを悟ったように、邪神は戦いの中で私の体についた傷を全て元通りにすると、私の体から煙状になって出ていく。
「じゃあね、聖女エレシア。キミとして過ごした時間、案外楽しかったよ」
 それだけ言い残して彼は封印された。
 ここに残っているのは、杖と、空っぽになった玉座と、死体の山と、そして私だけだった。
「……また、取り残されちゃったな……」
 ここは静かだけど、外からはまだ、戦いの音が聞こえる。きっとまだ、生き残ろうと足掻あがいている人がいる。
「全部……私のせいだ。私が弱かったから、こんなことになったんだ……私が、償わなきゃ」
 久々に動く自分の体で歩き出す。重い杖も持っていく。もしかしたら、誰かを助けるために役立つかもしれないから。
「もう、誰も失うわけにはいかないよね」
 天国にいる、私を救ってくれた人を仰ぎながら、重い体で外に出る。
 街は炎に包まれ、その中で人間と悪魔が戦っている。瓦礫の間には、逃げ遅れた人たちがたくさんいた。
「大丈夫ですか!?早くここから逃げてください!」
 かつて私を助けてくれた神父がそうしたように、真っ先に他人を逃すために走る。昔の自分にはできなかったけど、今ならきっと。
「来ないで!悪魔の手先め!」
「何が逃げろだ!お前が全部やったんだろ!」
 人々は、瓦礫の破片を私に投げつけた。考えてみれば自然なことだ、邪神が私の体を乗っ取って働いていた悪事は、何も知らない人たちから見れば私がやっていたようにしか見えない。
「ち、違います!あれは私ではなく邪神が!」
「知らねえよ!お前のせいで父さんは!」
「っ!!」
 もう一度ものを投げられた。痛い。怖い。そう思った時、私は真っ先に走っていた。助かるかもしれない人を無視して逃げていた。
「あいつ!裏切り者だ!」
「お前が本当の悪魔だ!」
 わかっている。この弱さが、邪神が利用されたんだ。生き残ってしまったことに罪悪感を抱きながら、私はまだ愚かにも生きようとしている、どうしようもなく弱い。誰かの力を借りなければ聖女なんかできない、ただの少女なんだ。
「見つけたぞ!死ね!裏切り者!」
 逃げた先で騎士に見つかった私は、容赦なく斬りかかられた。大きく振り上げた剣が、私に向かって落ちてくる。
 あの日、私一人だけが助かってしまった日のこと、修道院のみんなと楽しく過ごしたこと、邪神と会ってからのこと、いろいろなことが脳裏に浮かんでくる。
 きっとこれが、私みたいな悪人には、相応しい最期なんだろうな。
「ぐほぁ!!」
「……あれ?私、死んで、ない?」
 目の前にあったのは、今さっきまで私を斬ろうとしていた騎士の亡骸と、青い肌、細身ながら筋肉質な体で、巨大な剣を携えた悪魔の姿だった。
「……何をぼさっとしている、聖女よ」
「あ、悪魔?な、なんで悪魔が助けてくれるんですか?私もう、邪神じゃないのに」
「お前は我々にとって重要な存在なのだ。わかったらその杖を持て、さっさと行くぞ」
「は、はい」
 私はその悪魔に抱えられて、どこかに移動し始めた。まさかこんなことが起こるなんて。街の人たちが私を襲ったのはびっくりしたけど、悪魔が助けてくれるのはもっとびっくりした。やっと邪神から解放されたと思ったら理解できないことが次々飛んできて、混乱して、力が抜けて、ちょっとだけ、休みたくなった。

「……あれ?ここは?」
「目が覚めたようだな」
「うわぁ悪魔!」
 気がつくと、私は薄暗い部屋にいた。蝋燭だけが照らすこの空間の中には、多数の悪魔と、少数の人間たちがいた。
「ここは……?」
「ここは修道院を改造して作成した、我ら悪魔の拠点だ。お前のように、邪神の力に魅入られ、悪魔に味方することを選んだ人間たちもいる」
「あ、あと杖は?」
「あれには御主人様が封印されているから、丁重に保管させてもらっている。よくぞここまで持ってきてくれた」
 私が自分から邪神についたと誤解されているのはしゃくだけど、言い返せば今度は悪魔も敵に回しかねないから、無言を貫いた。
「聖女様のお目覚めだ!」
「腹減ってないですか?何か食べます?」
 意識を取り戻したことに気づいたのか、みんなが私を聖女と呼んで話しかけてくる。教会にいた頃を思い出して、つい気が緩んでしまう。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
「じゃ、こっちが食堂なので、一緒に行きましょう」
 私が連れられて食堂まで行くと、すでに悪魔と人間たちがともに食卓を囲み、談笑していた。
「お、聖女様!気がつきましたか!」
「邪神様は封印されたと聞いたが、貴様は無事だったか。よくここに来れたものだ」
「おいデツリウス、そんな威圧的な態度だと怖がられちまうだろうが。ごめんな嬢ちゃん、とりあえず座りなよ」
「は、はい」
 頭が鳥のような姿の悪魔に促されて席に着くと、翼が生えた女性の姿の悪魔がスープとチキンステーキを運んできてくれた。
「あんたに死なれちゃ困るからね、たんと食べなよ」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
 スープを一口、恐る恐る口に運んだ。
「……おいしい」
「だろ?厨房には料理を司る悪魔もいるし人間の料理人もいる、味は保証されてるよ」
 温かい食事だった。邪神に乗っ取られている間は、邪神の力のおかげか私はお腹が減らず眠くもならなかったから、こういう人間らしい生活は久々な気がする。それに、悪魔たちも私たちと同じように食事をとることに少し驚いた。
「悪魔の皆さんも、ご飯食べるんですね」
「地獄では必要なかったんだけど、今は肉体があるし、邪神様から無限のエネルギーももらえないから、補給が必要なのさ」
「それに、依代よりしろになった人間の記憶を持っているから、飯食うのが楽しいって感覚もわかるしな!」
「なるほど」
 あんなに近くで悪魔を見ていたのに、私は悪魔のことを全然知らなかった。聖書にある通りの人の心を惑わす邪悪な存在というところにとわられていたが、実際に触れ合うと、人間のことを受け入れてくれる優しい悪魔たちもいるらしい。
「現世にいる限り、悪魔ってのは人間なしじゃ生きられないのよね。だからアタシたち、別に人間全部滅ぼそうってワケじゃないの」
「そ、そうなんですね……って、もしかして口に出てました?」
「ちょっと思考をのぞかせてもらっただけよ。それに、アナタ自分だけ生き残ってしまったことを悔いながら、自分だけ生き残るために走れるんでしょ?いいわねぇ、その矛盾した精神!そりゃあのお方も気にいるわけよ!」
 蛇のような目つきの女性悪魔は、その能力で私の心を読んだらしい。つまり今考えていることも、私が心に土足で踏み込まれたことによって抱いている不快感もお見通しというわけだ。
「あら、ごめんなさいね。でもアナタのそういうところがあったから、ワタシたちは地獄から現世に帰ってこれたのよ」
「今度は安心しなって、俺たち悪魔はそう簡単には死なねえし、こっち側にいる限り人間たちの命は保証するからよ」
「は、はい……正直まだ、あなたたちのことはよくわからないですけど……うん。前と同じ、私にできることがあるならそれをやるだけです」
 それからは、悪魔側についた人たちと、見た目は怖くてちょっと感覚はズレているけど案外優しい悪魔たちと一緒に生活することになった。

 あれからしばらく経って、ここの人たちとも悪魔たちともだいぶ打ち解けてきた。
「俺さぁ、妻も娘も両方悪魔になっちゃってさぁ、しかも悪魔になってからの方が優しいんだよ2人とも!」
「まあ、それは大変でしたね……コーネリアさんはなんでこちらに?」
「それはねぇ、ゼリセリス様に一目惚れしちゃってぇ」
「ああ、あの青い剣士の悪魔ですね!私も彼に助けてもらったことがあります」
「そうなの!?いいなー!」
 ……まだ、私がこんな生活していていいのかと、私はあの時死んでおくべきだったのではないかと思うけど。それでも、まだ私のことを求めてくれる人がいるなら、私にしかできないことがあるなら、この命を無駄にするわけにはいかない。
「人間ども!敵襲だ!どうやら悪魔殺しの武器も所持しているらしい!」
 しかし、この束の間の平穏はあっさりと終わりを迎えることになった。
「ここか!悪魔についた裏切り者どもの根城は!」
「貴様らを国家反逆罪で連行する!悪魔どもも容赦なく祓わせてもらうぞ!」
 王国の民たちが、他国の軍隊の協力を得て攻めてきたようである。連行といいながらも、その装備を見るに生きたまま捕える気はさらさらないことが伺えた。ここは、とにかくみんなを逃がさなきゃ。
「厨房の奥に裏口があります、そこから逃げてください」
「で、でも部屋から出たら捕まっちゃうんじゃ……」
「悪魔たちが助けてくれるのを待たないと……」
 部屋の外では戦いの得意な悪魔たちが応戦してくれているが、あまり良い状況ではないようだ。その間に早く逃げてもらいたいけど、部屋の外で待ち伏せをされていたらおしまいだ。何か手は……。
『助けたくはないか?』
 いま、何かの声が聞こえた。
「どうしました?聖女様」
『ボクの元に来い、エレシア』
「……邪神が、呼んでる……でも……」
 間違いない、この脳を揺さぶるような声はあの邪神のものだ。あんなやつの誘いに乗ったら、あの時みたいにまた体を乗っ取られて酷いことをさせられるかもしれない。
「……いや、私がみんなを守らないと!私、行ってきます!」
「待ってぇ!エレシアちゃんどこ行くの!?」
「邪神に会ってきます、みなさんは先に逃げていてください!」
 また、一人になってしまった。でも今度は違う。みんなを見捨てて逃げるんじゃなくて、みんなを守るために離れるだけ。幸い、杖が安置されている地下室はここからはそう遠くはない。
「聖女よ、どこへ行くのだ!?」
「杖のところへ!」
「では、俺様が連れてゆこう、舌を噛まぬよう気をつけるがいい!」
「ありがとうございます、ファーリースさん!」
 ファーリース、私が邪神に乗っ取られた時、最初に現界した悪魔であり、教会の人々の仇でもある。でも、そんなこと、今は気にしていられない。彼に抱えられ、地下室の階段を飛び降りた。その最中。
「聖女よ、俺様はずっと悔いていた。お前の大切な人を殺したこと。俺様だって、現世に出ては祓われて地獄に戻ってくる悪魔たちを大勢見てきたから……許してくれとは言わない、だが、今はお前だけが頼りなのだ!」
 悪魔たちも、人を殺すのには思うところがあるらしい。長い間人に取り憑き、時には利用し利用される関係性になっていたのだから、そういうこともあるのだろう。彼らの行いは許すことができないけど、もう、私の新しい仲間だから。
 着地したあと、ファーリースに告げる。
「さっきの話、今回助けてもらったので、もう気にしないことにします。でも、邪神の方に責任は取ってもらうので、それまで時間稼ぎ、お願いします」
「……ああ!お安い御用だ!行ってくる!」
 翼を大きく広げ、地上へ向かって飛び去る彼を見送ってから、声がした方へ歩き出す。あの時は、アミアの声と姿に騙されて、私の弱みにつけこまれて、本当に散々な目にあったけど。いまはもう、違う。
『遅かったじゃないか、ずっと待ってたんだよ、キミのこと』
 封印されている杖から、邪神の声が聞こえてきた。この声を聞くたびに嫌な思い出が蘇ってくるのをなんとか堪えて、私は邪神に立ち向かう。
「邪神、私はあなたのことが嫌いです、大っ嫌いです!私の体勝手に使って、ピエダ神父に、マリーやアリス、教会のみんなを殺して、散々私の人生めちゃくちゃにした挙句私のことだけ残して封印なんてされて!」
『ん?何?文句言いにきたの?』
「……でも、あなたのおかげでわかったんです。私が、生き残ってしまった意味。家族を、家族同然だった人たちを、手に入れては失って、怖かったんです。何よりも、誰かの命を、そして、自分の命を失うことが!」
『ふーん、で?何が言いたいの?』
「改めて言います、邪神フォルゲネル。私にはその力が必要です!ただし、私が邪神に手を貸すのではありません!あなたが、私に手を貸してください!」
 私の思いも、今やっと見つけた答えも、全部邪神にぶつけた。邪神は、黙っている。私の心臓と過呼吸の音だけが響く地下室の中。
『クク……クハハ!アーーッハハハ!!』
 大きな笑い声がこだました。
『いいね!いいね!最高だよ!それでこそ、ボクが選んだ肉体だ!この杖についている大水晶を割れエレシア!そうすればボクの魂は解放され、お前を依代に復活するであろう!』
 願いは、聞き届けられた。あとは、私の意志次第。今度は私が私の手でみんなを守るために、私は邪神が入っている大水晶を、思いっきり踏みつけた。邪神が煙状になって出てきて、私の体の中に侵入してくる。私の全てを飲み込まんとする巨大なる意思を、私は必死で押さえつける。
「もう、あなたの好きにはさせません!力を貸してもらいますよ!」
『ふーん、面白いことするね。いいよ、どこまで耐えられるか見ててあげるよ』
 邪神が宿ったことで強化された身体能力を使い、一瞬で地上に戻る。
「この気配、邪神様が復活したのか!?」
「おお!聖女、あのお方を呼び覚ましたのか!」
 悪魔たちが期待を私に、いや邪神に向ける。その奥から人間たちが殺意を向ける。私はそのどちらにも応えない。でも、私が大切にしている人たちは、私の、この手で守る!
「はい、封印は解きました。でも私は邪神に肉体を乗っ取られてはいません。私はエレシア。聖女エレシアとして、みんなを守るため戦います!」
 初めて、自分から聖女と名乗った。もう、私は恐れない、誰がなんと言おうと、私はみんなを守る、聖女になる。
「裏切り者の聖女め!」
「悪魔に魂を売るとは、なんたる悪徳!」
 人間たちが撃った矢は、邪神の力で障壁を展開して防御する。彼はあまり前線に立たず配下の悪魔にばかり戦わせていたけど、こういうこともできるらしい。ずっと乗っ取られていたせいか、またはそのおかげか、自然に、この力の使い方を体が理解している。
「ええ、そうでしょう。私はあなたたちから見たら裏切り者です。卑怯者で、誰よりも生き汚い人間です」
 私を罵る人たちに、私は邪神の力を流しながら語りかける。彼らの中にいる悪魔の力を感じ、それを私に移すのではなく、そのまま外に解き放つ。
「でも、だからこそ、私はみんなを救うために生き続けます!力を貸してください!ヤーデリクス、フラクルス!」
「いいでしょう。邪神の力を振るう人間よ」
「私たちの力、存分に使いなさい」
 彼らの中に潜む悪魔を現界させ、仲間を増やす。これが私の、私と邪神の戦い方。争いで人が死ぬなら、私のように取り残される人が出るなら、みんな私の仲間にしてしまえばいい。人だって悪魔だって、同じ生き物なのだから。
『クハハ!面白い結論だ!ボクの力をもっと使うがいいよ!それに、眷属たちも存分に使ってやってくれ、どうやら随分キミに懐いているみたいだしね!』
「ファーリース、ゼリセリス、私はこちらで戦います、他の悪魔たちと協力して、中に残っている人たちを安全なところへ!」
「承知した!」
「直ぐに任務を遂行しよう」
 みんなのことは悪魔たちに任せて、私は軍隊の人たちをみんな悪魔に変えていく。どうしても悪魔に変わらない信仰心の篤い人たちは、殺さずに無力化させる。これから仲間になってくれる人たちを殺させるわけにはいかない。ピエダ神父たちのような犠牲者は、もう出さない。
「行きましょう、みんな。必ず生き残ってください!」

 数年後。人間と悪魔による戦いは、和解という形で終結した。この星では、主に政治能力に長けた悪魔が統治を行い、人間と悪魔が共生している。といっても、実態は、みんな悪魔になるか、悪魔の味方になるか選ぶことになっただけ。本当に、私がしたことが正しかったのかはわからない。でも、私がしたかったことはできた気がする。
「皆さん、お祈りの時間ですよ」
「おお!聖女よ!」
「邪神様の声をお聞かせください!」
 邪神は、あれからずっと私の中にいる。支配者として君臨することもできたとは思うけど、私がそうなることを望まなかったし、彼もなんだかんだ私のことを気に入ってくれているみたいだし、それに、新しい役割も結構楽しそうだ。
「それでは邪神様、お願いします」
 私が目を閉じる。私の意識が押し込められて、邪神の意識が私の体を支配する。
「やあ、みんな。ボクのためによく集まってくれたね。人間たちよ、悩みを、欲を解き放て、悪魔たちよ、その力を捧げよ。ボクの目の届くもの、全てを救おう」
 こんなふうに、今は私の体を媒介して、彼は「神」として生きている。そのせいで、体を貸しているだけの私が偶像とか現人神とか教祖とか、色々扱われるけど、みんなからは聖女と呼んでもらっている。それが一番呼ばれ慣れているから。
『ねえ、エレシア。極めて個神的こしんてきに聞きたいことがあるんだけどさ』
 祈りの後、邪神は突然こんなことを言ってきた。
「なんですか?」
『ボクは、キミを救うことができたかい?』
 自分勝手な神様がこんなこと言ってくるなんて、彼も変わったらしい。もちろん、私も変わった。昔ならきっと、答えられなかったけど、今の私なら答えられる。
「ぜーんぜん、救われてません!これからもっと、私の命が尽き果てるまでみんなを守って、それでやっと、私は、私を救えると思うんです。だからその時まで見守っててくださいね、神様」
『……ほんっと、面白いなキミは! ……ありがとう、どうやら先に救われたのは、ボクの方みたいだ』

講評

評価基準について

定義魅力提示企画総合
BCBCC
評点一覧

今回のコンテストの応募作品で、悪側が対象者を乗っ取って堕とす形の作品はこれのみであり、他の作品とは悪堕ちの切り口が異なっている。「対象者を乗っ取る悪堕ち」は、悪堕ちする理由にこだわらなくてよいため、対象者を堕とす手法として安易に取り入れられる事があるが、本作はきちんとした前置きと乗っ取られていく過程に納得感があり、また乗っ取られた後にも自我を取り戻してからの聖女としての物語が続いており、最終的な「堕とし所」を含め、作品全体から本作に込められたテーマが強く感じられる良作である。

一方で、今回のコンテストとして求められている「悪堕ちが主題」という観点では、本作では「悪堕ち」はあくまで物語の展開に必要な手法に留まっている。

また、聖女が邪神に乗っ取られるまでの展開はストレートであるが、そこから一気に物語が動き、登場人物が増えたり設定が差し込まれたりするため物語を追って把握するのが困難となる。更に、これらの登場人物もその後の展開における重要度の粒度が様々に入り乱れてくるため、結果的に後半の物語が混沌とした展開になっている。

これらの要因が合わさったことで、物語の後半部分が後日談のように見え、蛇足に感じられてしまう。物語の最後で最終的に再度「堕ち」ることになるが、こういった理由で最初の「堕ち」と比べてインパクトに欠けてしまっている。
物語のボリュームに対して悪堕ちを魅力的に見せられている比率が小さくなっているため、今回のコンテストの趣旨に照らし合わせて総合的にこのような評価に留まっている。