作品名

最高の相棒

ペンネーム

マナーモードR

作品内容

 潜入記録、一日目。
 地下に作られた長い廊下を歩く。地上の建物にあるような爽やかで清潔な感じは無くて、壁はコンクリート打放しだし、地下だから当然窓も無くて薄暗い。なんだか息が詰まりそうだ。
 ここは、グラース警備保障会社。──の、地下に作られた秘密基地。物々しい雰囲気が漂っていて、見るからにろくな場所ではない。
 グラース警備保障。
 表向きは、新進気鋭の警備会社。でもその裏では、破壊工作、誘拐、要人暗殺に手を染める悪の組織。強化人間を中心とした私設軍隊も持っていて、まるで特撮番組に出てくる奴らみたいだ。あたし達ヒーローを名乗る者にとって、あいつらが真っ黒なのはわかりきってるけど、それでも絶対に尻尾は出さない。あくまで表向きはただの警備会社として何食わぬ顔をしている。
 そこであたしは、組織に潜入して、内部から攻めることにした。

 ***

 さて、あたしが通されたのは地下に作られた宿舎だった。入社試験を突破して、配属希望を聞かれた時に裏部門、と答えると追加でいくつか試験を受けさせられて、ここへ連れてこられた。
 裏部門とは、つまりこの会社の裏の顔。今のあたしは、グラースの戦闘員という身分になっている。首にかけられた無機質な社員証を見ると、そこにはあたしの名前である「ステラ」の文字は無く、代わりに「戦闘員A-163」と無機質に書かれている。
 名前を奪われるのは気に食わないけど仕方ない。とにかく、今は一人の戦闘員として内側から情報を探らないと。
「……」
 廊下を歩きながら、すれ違う「同僚」達を観察する。一昔前の軍隊の軍服のような制服を着て、みんな背筋を伸ばして歩いている。表情には活気があって、目もいきいきとしてる。そう言うとなんだかいい雰囲気に思えるけど、みんなグラースに洗脳されているからだと思うとぞっとする。これまでグラースの戦闘員と戦ったことはある。みんな、倒しても倒しても起き上がって襲いかかってくるんだ。どんな手を使っているのかはわからないけど、気を付けないとあたしもその中の一人になりかねない。
「ここ……か」
 ふと、一つの扉の前で止まった。ここが、あたしの生活スペース。これからの潜入生活で一番安心できる場所。相部屋らしいけど、相方がどんな人か──
「失礼します」
「……?」
 扉を開く。そこには一人の女性が机に向かって本を読んでいた。あたしが入ってきたのに気づくと、ゆっくりとこっちを見た。
「本日から配属になりました、戦闘員A-163号です。よろしくお願いします!」
 落ち着いて、覚えてきたグラース式の敬礼をする。腕は水平百八十度、背筋を伸ばして、右手を心臓の前に据える。
「……」
 女性はそんなあたしを不思議そうに見つめる。少し長い前髪の下から、穏やかな雰囲気の視線が上目遣いに覗いてくる。
「はじめまして……」
 女性は一拍置いて立ち上がった。立ち上がってみると結構背が高い。他の戦闘員達と同じ灰色の制服を着ているが、皺も汚れもない。身なりには気を使っているようだ。
「私はAO-73号。よろしくお願いしますね」
 73号。あたしよりずっと番号が若い。ということは、それなりにここで過ごしている。油断は禁物だ。こいつがこれからあたしの「相棒」になる。弱みを見せてはいけない。
「綺麗な赤髪ですね」
「えっ? あ、あぁ……ありがとうございます!」
 73号は身構えるあたしに歩み寄ると、不意にそう言った。緊張で身体が強張っていたあたしは、拍子抜けしたような声を漏らした。
「あなたは、どうしてここに?」
「……ぶっ壊したいんです。今の世界の腐った秩序を。世界はもっとよくできるはずです。グラースには……その力がある」
 できるだけ威勢よく、思想に酔っているふうな声色で話す。第一印象であなたの仲間ですとわかってもらえなければ、信用は勝ち取れない。
「そう……ですか」
 あれ。
 予想に反して73号は複雑そうな表情をした。この組織の戦闘員はこんな感じじゃないのか。
「よろしく……お願い、します」
 変な人だな。
 最初に思ったのは、それだった。

***

 潜入記録、百日目。
 それから、あたしはグラースの戦闘員として日々を過ごすことになった。三か月くらいここで過ごして、わかったことがいくつかある。グラースがどのように兵士を運用しているのか、次に狙う場所はどこか、組織図の情報も得られた。定期的に情報を外の仲間に発信しているけど、正直上手くいきすぎててかえって不安になってくる。
 とにかく、警戒を怠らずにもっと情報を探らないと。その晩あたしは、任務から帰ってきて布団の中でそう決意した。
「163号?」
 不意に、背後から声がした。
「……起きてますか?」
 囁くような、小さな声。それでもこの部屋は静かなので、はっきり聞こえた。
 返事の代わりに寝返りを打つ。思った通り、目の前に、ベッドに寝ころんだままこちらを見ている73号が現れた。
 わかったことと言えば、73号。彼女もそうだ。
 グラースの戦闘員にはいくつかの兵科が存在している。あたしは一番基本の兵科だったけど、73号は後方であたしたちのオペレーターを務める兵科に所属していた。任務遂行にあたって、情報の共有や、行動の指示をくれる。何度か危ないところを救われたこともあった。聞けば、年もほとんど一緒だった。そういう感じで、今では気の合う友人くらいにはなっていた。
「どうしたの?」
「……眠れなくて。少し……お話に付き合ってくれませんか?」
 いいよ、と軽く返し、言葉をかわす。
 思えば、彼女とここまで話し込んだのはこれが初めてだったかもしれない。
 故郷はどこかとか、ここに来る前はどんなことをしていたとか、趣味は何かとか、子供の頃の思い出は、とか。とりとめのない話をする。出会って三か月目で、ようやく。
 73号は変わっている。
 他の戦闘員と違って好戦的じゃないし、穏やかで、ものの考え方もかなりまとも。なんでこんな人がここにいるんだ、と思うくらいには変わっている。まぁ、そういう相手が同室の方がこっちとしても都合がいいんだけど。
「秘密を共有しませんか」
 そう、彼女が言ったのは二時間くらい経ってからだろうか。唐突に、そう言われた。
「秘密……?」
 ふと、73号が口に指を添える。
「私、嬉しいんです。私の兵科は相方をよく失います。だから、一緒に組んだ人とここまで仲良くなれたことってなくて」
「うん……」
「相棒……って言いたいんです。もっと、仲良くなりたいです。だから……少し、踏み込んだことを聞いても、いいですか?」
 73号があたしをじっと見つめる。綺麗な蒼い瞳が、しっかりとこっちを見てくる。
「……なに?」
 頭が警鐘を鳴らす。なんだかいけない気がする。でも、そんな気持ちとは裏腹に口が勝手に動いた。
「……名前を、教えてくれませんか?」
「名前? 駄目だよ。名前なんて、入隊した時に捨て──」
「私の名前は“エマ”です」
 あたしの言葉に重ねるように、そう言った。
「──」
「私は、エマと言います」
 もう一度言った。そして、そのままあたしを見つめ続ける。
 ──言ってはいけない。
 ──正体に繋がる情報を明かすなんて。
 ──絶対に言うな。
「……ステラ」
「素敵な名前……」
 そう言って、エマは優しく微笑んだ。
 それきり、黙る。エマはずっとこちらを見つめている。目をそらすのも気まずくて、視線を合わせ続けるしかなかった。
「……」
「……ねぇ」
 気まずくて、今度はこっちから話しかけた。なんですか? と、エマは穏やかに返事をする。
「エマは……なんでグラースに?」
 そう言えば聞いていなかった。エマは、なんだか他の戦闘員と違う。グラースの思想に酔っているわけでもないし、価値観もかなりまともな部類だ。そんな人間がどうして、この組織に身を置いているんだろうか。
「……それは……ちょっと、言えません」
「あたしは名前を教えたんだよ?」
「……でも……」
 そう言ってエマは視線をそらしてしまった。よっぽど聞かれたくない話なんだろうか。さっきまでエマの視線に居心地が悪い気分をさせられていたので、あたしは少し意地悪な気持ちになってたたみかけた。
「いいじゃん、聞かせてよ。秘密を共有するんでしょ? 黙っておくから」
 そう言うと、エマは何度か視線を合わせ、外して、悩んだような顔をひとしきりした後、さらに声の大きさを落として、静かに話し始めた。
「ステラは……その、クローン戦闘員のことを知っていますか?」
「クローン?」
「グラースは常に人手不足です。あなたのように外部から理念に賛同して加わってくれる人も多くありません。なので……戦闘員を作ってるんです」
「え」
 驚いたような表情をしてみせる。本当は知っていることだが、初めて知ったことにしておいた方が良さそうだ。
「オリジナルを元に、クローンを作って、機械で洗脳して、専用の宿舎で管理します。こことは別の宿舎で」
「うん……」
「私は、そこから異動してきました」
「……えっ?」
 今のは、不意を突かれて本心から出た言葉だった。
 つまり、エマは──
 エマが頷く。
「私はクローン戦闘員です。オリジナルは、今から十年前にグラースに捕まった一人のヒーロー……クローン戦闘員の宿舎に行けば、私と同じ顔をした戦闘員がいます。私も昔は、機械で調整されて、その中の一人として動いていたんだと……思います」
「じゃあ……なんで今ここに?」
「一度、逃げ出したんです」
「……」
「二年くらい……前だったと思います。あるヒーローとの戦いで強く頭を打って……その時に、偶然私は正気に戻りました。何がなんだかわからなくて、怖くなって、私はそこから逃げ出しました」
 そう話しながら、エマの言葉は震え始めていた。
「ご……ごめん。嫌な記憶なら、話さなくていいから……」
「でも……私は所詮作り物です。普通の人間として生きられませんでした。社会の一員として生きる方法がわからなかったんです」
「……」
「ある日、グラースの職員が私のところに来ました。戻らなければ関係者を殺す、と脅されて……その時の私には、何人か友達ができていました。彼らを危険に晒すことはできなくて……」
「そう……だったんだ」
 エマはそこまで話すと、口をつぐんだ。
 戦闘員らしくない、まともな人だとは思ってた。それもそうだ。エマはそもそも、そういう「まともな人」だったんだ。そんな人が、「普通の生活」に憧れながら、やりたくもない所業に手を染めさせられて、その中で何人も相方を失ってきた。
 どんな気持ちで今まで生きてきたんだろう。
 あたしがこの部屋に入ってきた時、どんな気持ちだったんだろう。
「ねぇ……エマ」
「なんですか」
「もし……もしだよ? ここから脱出できるとしたら……外で、一緒に暮らしてくれる人がいるとしたら……どうする?」
「……わかりません」
 そう言いながら、エマは微妙に笑った。
「でも、素敵だと思います」
 その笑顔は、少し諦めの滲んでいる、悲しい笑みだった。

 ***

 潜入記録、百四十三日目。
「ッ!」
 まずった。失敗してしまった。
 その日、あたしはある組織への襲撃作戦に駆り出されていた。グラースと水面下で敵対していて、本来あたしの味方である組織。大規模に人員が投入されたようで、他の戦闘員だけでなく、何人か怪人もいたと思う。
 本来は味方なので、派手に暴れて損害を出すわけにはいかない。なんとかバレない様に手を抜いていたんだけど──
「悪党ども! 観念しやがれ!」
 施設にたまたまヒーローがいて、交戦してしまった。前情報ではこんなやつはいない話だった。当然戦闘員が敵う相手じゃない。あっという間に部隊は壊滅、あたしだけが残された。
 相手はヒーローとしてもあたしより格上。一人で倒せる相手じゃないし、かといってここで正体を明かしたらここまでやってきたことが無駄になる。
「考えろ……! 考えろ……!」
 逃げるのが正解。でも逃げ切れるか?
 どちらにせよこのままじゃやられる。それしか方法はないか──!
「! そこか!」
 物陰から小石を投げて、遠くで音を鳴らす。あいつがそっちに気を取られているうちに素早く立ち上がって、反対方向に向けて走り出した。
「!」
 背中に強い衝撃が走った。今の一瞬で追いつかれた──?
 その場に転がり、振り返る。案の定そこには、構えを取ったヒーローが立っていた。
 まずい。やられる。
 とっさに腕で頭を庇った。意味なんてないのに、このまま、死──
 ガツン、と、音がした。
「……?」
 痛みはない。恐る恐る目を開けると、そこには──
「……エマ……!」
 エマがそこにいた。鬼気迫る表情でヒーローに後ろから殴りかかっていた。
「その子から離れて!」
「まだ……いたか!」
「待──」
 しかし、すぐに反撃を受けてしまった。振り返ったヒーローの回し蹴りが深々と脇腹に刺さる。そのまま、遠くの瓦礫まで飛んで行った。
「このッ……よくも!」
 でも、それで後ろを向いた。
 あたしだって本来はヒーローだ。これなら、倒せる。
 一瞬だけ本気を出す。素早く立ち上がり、腰を落とし、右腕を引き絞って、渾身の一発をお見舞いしてやる。
「な……に……!」
 ヒーローは驚いた顔のまま、あたしのパンチをもろに受け、壁を突き破って吹き飛んで行った。
 戦果の確認をする暇はない。あたしは即座にエマの所まで走っていった。
「エマ!」
「ステラ……ステラ……!」
 苦しみ、息も絶え絶えになりながらエマはあたしの名前を呼んでいる。
「喋らないで! すぐに医務室に連れていくから!」
「痛い……痛いよ……苦しい……」
 エマは一目で重傷なのがわかった。人体を破壊しかねない攻撃を受けて、そのうえで瓦礫の山に突っ込んだのだから、全身は傷だらけだし、きっと骨や内臓にだってダメージがいっているはず。
 こんなの、こんなのってあるか。こんな──こんな悲しい結末があっていいはずがない。
 すっかり気が動転していたけど、あたしはエマを担ぎ上げて走り出した。すぐにでもどこか、手当てができる場所に連れて行かないと。
 どこだ──どこにいけば──
「なんで……! なんで前線にでてきちゃったの……!」
「だっ、て……ス、テ、ラが、あぶ……な……」
「喋るな!」
「ステ……ラ、私……嬉し、かっ、たんです……やっ、と、相棒が、できたって……だ、か、ら……」
「ッ!」
 気づけば、近くの拠点まで帰ってきていた。駆け込むように医務室に飛び込んで、状況を説明する。スタッフは慌ててストレッチャーを引っ張ってきて、エマを寝かせた。
「ステ……ラ」
「エマ……! しっかり! 大丈夫、絶対助かるから!」
「わたしのこと……わす、れ、ないで」
「そんなこと言うな!」
 声を張り上げる。ほとんど絶叫に近かった。全身の力が抜けたように、足腰が立たなくなってくる。それでも、エマの手だけはしっかり握っていた。離せば、どこかへ連れていかれてしまいそうだった。
「ごめん……本当にごめん……」
「あり、が、と……ス、テ、ラ……」
 ふっ、と手が離れる。エマを乗せたストレッチャーが走り出した。その瞬間、あたしとエマの目が合う。
「だい、す、き、です」

 ***

 潜入記録、百七十六日目。
 ──。
 ────。
 ──────。
 この部屋、こんなに静かだったっけ。
 戦闘員としてのあたしは、あまり口数が多くない。そういう人物として振舞ってるし、エマも控えめで、この部屋は基本的に静かだった。でも今は、気が散ってしまうくらい静かだった。
 エマが医務室に担ぎ込まれて、一ヶ月が経っていた。その間、あたしに割り振られる仕事は極端に減った。戦闘員は任務が無ければ勝手に出歩くことは許されない。なので、この一ヶ月間は嫌になるほど静かな部屋で、壁を眺めていることしかできなかった。
「大丈夫かな……」
 やることがなくて、音もしない。まるで無音室に閉じ込められたみたいだ。自分の失敗と、医務室に担ぎ込まれた友達の姿が頭の中でぐるぐる回って、気にしないように努めてもできなかった。気が狂いそうだ。
 エマは本来敵だ。あたしはヒーローで、あの子はグラースの戦闘員。そうなんだけど──、それでも、あの子が傷ついたのはショックだった。
 どうやらあたしは、半年間であの子のことが好きになっていたらしい。
 医務室に担ぎ込まれる寸前のエマの姿が頭から離れない。最後に呟いたあの言葉。あれは遺言のつもりだったのかもしれない。
「……」
 頭を抱える。考えたくないが、頭から離れてくれない。
 あたしはずっと戦ってきた。あの子たちと戦ってきた。
 その裏では、こんなことになっていたんだ。
 きっと今のあたしみたいに、仲間を奪われた人だって──
「……ステラ?」
 扉が開く音がした。久しぶりに、人の声を聞いた。
「エマ!」
 そこに立っていたのはエマだった。一ヶ月前と変わらない、穏やかな笑みを浮かべたエマが、そこに立っていた。
「ごめんなさい。心配させちゃいましたね」
「いいよそんなの。それより大丈夫なの?」
「はい。しっかり休んだので、もう万全です」
 よかった。心の底から安心した。深く安堵の息をついたあたしの前で、エマは申し訳なさそうに微妙に笑う。
「ステラも、変わりありませんでしたか?」
「もちろん、この通りピンピンしてるよ」
 少し無理をして笑った。でもまぁ、エマが帰ってきたなら心配事もない。
「また二人で頑張れるね」
「はい……あ、そのことなんですが」
「?」
 と、そこでエマは脇に抱えていた封筒から紙を取り出す。あたしはそれをエマの隣から覗き込んだ。
「復活して早々なんですが、私達に命令が下ってます」
「仕事? どれど……れ……」
 ──。
 そこに書かれていたのは、「排除」の二文字。
「一か月前のあの件で戦った彼……復活したみたいです」
 仕事内容は、簡単に言えば、一か月前に戦ったあのヒーローが復帰して、再び前線に出てくるようになった。
 これを、あたし達で抹殺しろというのだ。
「……」
 これまで与えられてきた仕事とは違う。少しずつ仕事が過激になってきているとは思っていたが、ここへ来てついに、殺せと命じられた。
「え……っと」
 流石にこれは──覚悟がいる。
「エマ、これは──」
「頑張りましょう、ステラ」
 顔を上げる。隣に立つエマは、覚悟が滲んだ表情をしていた。
「で、でも、ほら、あたし達で勝てる相手かな……」
「そこなんですが」
 もう一枚の紙を封筒から引っ張り出す。見ると、あたし宛ての辞令だった。
「これは?」
「この間の一件で、ヒーローに一矢報いたのが評価されたみたいですね」
 内容に目を通す。そして、血の気が引いた。
 グラースは、あたしに怪人にならないかと持ちかけてきていた。戦闘員より一歩進んだ、強化人間。これにならないかというものだった。
「ステラが怪人になってくれるなら私も心強いです。是非、皆のリーダーになってください」
 エマは期待に満ちた目でこっちを見てくる。
 幸いこっちは命令ではない。断ることだってできる。
 あたしはヒーローだ。悪の組織の怪人じゃない。
 でも──
「ステラ。今回は失敗できません」
 エマがあたしの顔を覗き込んでくる。
「相手はきっとステラの強さを知っています。きっと対策してくるはずです」
 あたしの強さを知っている──? そうか、一瞬とはいえ本気を見せてしまったから──
「またあんな目に遭うわけにはいきません。もちろん、それはあなたも一緒です」
 ──ッ。
 この一か月──辛かったのはそうだ。生きた心地がしなかった。
 また、あいつと戦うんなら準備しないと、今度こそ危ない。それもそうだ。
「可能性や危険性は排除しておかないと」
 ──。
「ステラが強くなってくれるなら百人力です。私も心強いですよ」
「そう……かな」
 エマの顔を見つめ返す。そこにいるのはエマだ。いつもと変わらない、優しい笑みを向けてきている。
 でも少し前、これが血まみれになって、苦痛に歪んでいるのをあたしは見た。
 また、あいつと戦うのか。
 もし──
 もし、あの時の再現になってしまったら?
 もしあのヒーローが違和感を覚えて、あたしの正体に気づいてしまったら?
 もし──エマが今度こそあたしの傍からいなくなってしまったら──?
「大丈夫。きっとステラならやれますよ。私も頑張ります」
「そう……そう、かも」
 その可能性を潰せるなら、強くなれるなら、この話を受けるのも悪くないのでは?
 そうだ──別に、あたしを損なうわけじゃない。心まで作り変えられちゃうわけじゃない。
 大丈夫、大丈夫──。これは潜入捜査、ただのロールプレイなんだから──。
「ふふ」
 エマがあたしに顔を近づける。
「ステラ。私達なら、絶対にできますよね」
「……うん」
「私達は、最高の相棒ですもんね」
「うん」
 大丈夫。これはただのロールプレイ。グラースのためにするんじゃない。こいつは、潜入がばれないようにするための、エマを救い出すための、仕方ない犠牲だ──。
「殺そう。こいつ」

 ***

「敵襲ーーーーーッ!」
 潜入記録、二百日目。
 それから、あたしはエマと一緒にあのヒーローが潜伏する基地を襲撃した。あたしと、あたしが率いる戦闘員は一気に基地になだれ込み、手当たり次第に暴れてやる。
 今のあたしは、戦闘員A-163号改め、怪人デュランダル。身体から刃を出せる怪人に生まれ変わった。怪人になるための手術を受けるのには少し不安だったけど、怪人クラスになればもっと重要な情報へアクセスできるし、潜入生活が終わった時あたしはエマを連れ出すつもりだ。それも考えると、強くなれるならその提案を断る理由はない。
「あの子……まさかステラ?」
「駄目だ! 彼女は怪人に……ぐあっ!」
「応戦しろ! なんだこの強さ……ぎゃあああっ!」
 聞こえない。聞いてはいけない。
 基地には知っている人も何人かいた。彼らの悲鳴を聞くのは辛い。でも、あたしは今はグラースの怪人。もっと自然に振舞わなければ、正体がバレてしまう。心に蓋をして、ただ淡々と怪人を演じ、斬り捨てる。
 グラースの怪人は狂っている。
 グラースの怪人は恐ろしい。
 グラースの怪人は血も涙もない。
「……」
 もっと残酷に。
 もっと冷徹に。
 もっと悪辣に。
 そんな怪人に成りきらないといけない。
 口数が少ない方がいいだろう。
 死体を弄んだ方が恐ろしいかもしれない。
 そうだ、犯行声明の一つも残しておくか。
「ステ……ラ……」
 ふと、足元で声がする。見ると、あたしが今斬りつけた研究員だ。この人は──昔、あたしの装備を作ってくれた人だ。そうか、この人まで──
「どう、し、て」
「デュランダル様」
 耳元で声がする。通信機からエマの声がした。
「どうした」
 あたしはできるだけ威厳のある声を出す。任務先では、エマとはあくまで怪人と戦闘員として振舞うよう二人で決めている。
「目撃者を生かしておくわけにはいきません……処分を」
「……」
 死なせたくは、ない。どうしようか──。
「いや。この研究員は使える。洗脳装置にかけて情報を吐かせ、後は研究チームの人員に加えろ」
「なるほど、承知しました。回収します」
 そう言うと、少ししてからエマから連絡を受けた戦闘員達が現れて手早く研究員を回収していく。抵抗していたけど、怪我をしている人ができることなんてたかがしれている。
 ごめん。あたしはまだグラースに正体を知られるわけにはいかないんだ。こういう風にするしかないんだ。
 それに、死ぬよりはマシでしょ?
「奴の場所はまだわからないのか」
「もう少しです……。 ! 見つけました。東棟の三階で交戦中とのことです」
「わかった。現場の戦闘員には足止めに徹しろと伝えておけ」
「承知しました。 ……ねぇ、ステラ」
「……何?」
「大好きですよ」
「何急に。そう思うなら、生きて帰って直接もう一回言って」
「そうですね。ふふ、じゃあ、もうひと踏ん張りです」

 ***

 ──はい。はい。えぇ。帰投します。お疲れ様でした、デュランダル様。また宿舎で。
 ──。
 ────。
 ──────。
 ──あれ? まだ生きていたんですか。ちゃんと死亡確認しなかったんですね。まぁ、それだけひどくやられたなら、放っておいても大丈夫ですね?
 あの子ですか? 本当に強いですよね。一人であなたをやっつけちゃうんですから。
 あの子の気持ちを利用するな? 人聞きが悪いですね。私、ステラのことが大好きなんです。確かに最初に私に与えられた任務はあの子を教育して、組織に相応しい人間に作り変えなさいというものでした。心を疲弊させて、洗脳処置に抵抗できないようにしなさいと言われていました。でも、あの子は私に向き合ってくれて──私、嬉しかったんです。だから、機械で無理矢理私のことを好きになってもらうんじゃなくて、本当に心から好きになってもらいたくて、だから頑張っちゃいました。これは本心ですよ? それこそ、あの子のために命を投げ出せって言われたら迷わずできます。

 だって、私とステラは、「最高の相棒」なんですから。ふふっ。

講評

評価基準について

定義魅力提示総合
ADDC
評点一覧

悪の組織に潜入していたヒーロー(ヒロイン)が、相方の戦闘員との絆を深めていくうちに、彼女のために知らず知らずに悪側に堕ちていく展開である。

主人公視点、彼女の独白で進んでいく場面が大半となっている。悪に堕ちていく心の変化の描写が悪堕ち作品としては重要であり、その魅力を描きやすいという観点では表現の面で有利な描写手法と言える。
実際に、最初は潜入捜査であると意志を強く持っていた彼女も、百合的な濃厚な接触を経て、いつの間にか自分が怪人に改造されることを受け入れるまでに堕ちていくという一連の流れが明瞭に描かれている。

ただ、そういった悪に堕ちていく本人の心の内の描写は十分であるが、悪堕ち作品としては堕ちる前の描写と堕ちた後の描写、そしてそれらのギャップの表現も重要である。主人公の考えていること、見えている場面の描写はスムーズに行えるが、この手法の欠点として、第三者から見た別の視点での描写や、他のキャラクターの内面に迫るまでの描写が届きにくいことがある。
本作では、相方や敵対するヒーローが考えていることは表現されづらく、その延長上でキャラクターの深堀りがされていない印象を受ける。これに加え、主人公の「設定」や「外見」に関する描写も乏しくなっており、前述の堕ち前後の描写とそのギャップが丸々抜けてしまっている。
ほかにも、例えば「怪人」に関する設定の深堀りがされていないとか、本作を楽しむ上で必要になってくる世界観の描写も乏しくなっている。
故に、評点の中でも特に魅力点が低くなっており、次いで作品の世界観を楽しむ上で求められている設定などの描写が足りないことから提示点も低くなっている。

主人公視点で進む物語にも強みがあるため、その強みを打ち消さないという観点で改善点の指摘は難しいが、例えば主人公の過去、本来の姿に対する描写は本人が軽く自己紹介した後で、第三者視点としてそれを補足するような形で元同僚に語らせるなど、堕ち後の姿に関しては相方や作戦行動中の映像を見て本人に客観的に語らせるなど、様々な手法が考えられる。

作品のコンセプトや描写手法の筋は良いため、あとは作品の世界観をどうやって読者に明瞭に伝えるか、また悪堕ちの魅力をどこまで作品の中に盛り込めるかという点が課題となるだろう。