2 悪堕ちの魅力とトラウマ

(1) 悪堕ちの魅力

ここでは悪堕ちの魅力に迫ります。悪堕ちのどういうところに魅力を感じるかは人それぞれですが、基本的に「ギャップ萌え」「憧悪」「サディスティック・マゾヒスティック要素」の3つが悪堕ちの魅力の根底にあると考えています。

① ギャップ萌え

「ギャップ萌え」は、元々は、ある人物が日常的に見せる側面があって、ふとした瞬間に見せる別の側面が、平時とは全く違った、ある意味対極を成すようなものであり、それに心がときめくことを指します。「ギャップ」とは「ある側面と別の側面との距離、隔たり」、「萌え」とは「大変好き」「言葉で言い表せないけど好き」といったニュアンスです。ギャップ萌えはこのように始まり、単純に、ある人物のある側面と別の側面とのギャップに萌える、というような意味で使われるようになりました。悪堕ちでは、堕ちる前と堕ちた後では基本的に性格・容姿が激変するため、このギャップが大変好まれます。清楚でお淑やかな聖女が堕ちて高慢になる、高飛車な女性が洗脳されて虚ろ目になり命令のみに従う操り人形となる、など、堕ちる前と堕ちた後でギャップがあるのが悪堕ちの特徴です。ギャップ萌えについては、『3悪堕ちの魅力「ギャップ萌え」』にて詳しく説明します。

② 憧悪

「憧悪」は堕研が造り出した造語で、悪に憧れる、かっこいい、理想的だと思う心のことを指します。我々は子供の頃から勧善懲悪が美徳だと叩き込まれてきました。悪堕ちは、その悪を肯定したり、対象として扱ったりするわけですから、悪堕ちジャンルの根底には背徳感が根付いています。背徳感とは、狭義の悪堕ちでは「快楽に溺れる・淫乱化する」ことを指しますが、悪堕ちジャンルにおいては「破壊活動を行う・残虐になる」という概念も含んでいます。また、勧善懲悪の物語では常に悪は滅ぼされてきました。それ故に、悪は儚いものというイメージがあり、元来儚いものを美しいと愛でてきた日本人には、悪堕ちはどこか『美しい』背徳感を感じさせてくれるものなのかもしれません。なお、悪堕ちは悪の概念が明確であることが重要です。背徳感の中に「淫乱化」もありますが、悪が存在しない、ただ堕落するだけの淫乱化は「快楽堕ち」と呼んで悪堕ちと明確に区別します。

「悪のかっこよさ」「悪への憧れ」「徳に背くことの美しさ」「滅びの悪」といった要素は、悪堕ちを楽しむ読者にとって重要な要素であると同時に、表現する作者にとっても重要な要素です。悪堕ちの物語に現れる悪は、作者の憧れる悪かもしれませんし、作者の憎む悪かもしれません。いずれにしても、悪堕ちは正義側の人間を悪に染めるという、勧善懲悪に背いた禁忌を犯すわけですから、その悪は作者と読者によって『許されている悪』である方が親しみやすいでしょう。現実世界では正義と悪の定義は曖昧ですので、逆に言えば創作世界ではどのように悪を定義してもよく、故に悪堕ちの物語で表現される悪とは、現実世界には存在しない、強く、美しく、そしてダークな雰囲気の、作者の憧れるモノであり、それを読者も美しいと思えると、作者と読者で良好な関係を築けるわけです。

また、憧悪の裏には、背徳感の他に「厨二病」も隠れていると考えています。厨二病とは一般的には「思春期特有の思想・行動・価値観が過剰に発現した状態」を指し、ネガティブなイメージが強いですが、翻って、現実の法則や制約に縛られず、思いつく限りかっこいい、理想的で特別な設定を生み出せる状態だと解釈しています。悪の定義が曖昧で作者が自由に定義して良いからこそ、こういった理想的で特別なものを「悪」とし、悪堕ちにそれを求めることができるのも、悪堕ちの持つ魅力と考えています。特撮における「悪の組織」など、昔から「悪」は巨大な力を持っていましたが、これは主人公や視聴者がいる正義側が現実世界・日常世界であるのに対して、悪側は非日常の世界、現実世界では起こりえないこと、実現しない『理想』が体現した世界として表現されるためだと考えています。このように、正義と悪の関係を、正義を此岸(しがん)、悪を彼岸と見立てて様々に解釈する方法論を、堕研は「彼岸と此岸」理論と呼んでいますが、これは「6悪堕ちに関する考察」の『(4)「彼岸と此岸」理論』で詳しく説明します。

③ サディスティック・マゾヒスティック要素

対象者を悪堕ちさせるのは物語の中の主人ですが、その主人と自分をオーバーラップさせたとき、対象者を悪堕ちさせる行為はサディスティックな要素を含みます。逆に悪堕ちした対象者が悪に堕ちてサディスティックになるのが好きであれば、マゾヒスティックな要素を含みます。こういった理由で、悪堕ちはサディスティックな要素も、マゾヒスティックな要素も含んでおり、それが悪堕ちの魅力に繋がっていると考えています。以降、サディスティックを「S(的)」、マゾヒスティックを「M(的)」、併せて「SM(要素)」と表現します。

悪堕ちには「結果」と「過程」が存在し、前述のギャップ萌えは結果、SM要素は過程と結びつきます。この、悪堕ちの過程をどれだけS的に、どれだけM的に描けるかも、悪堕ちの魅力を引き上げていく要因になります。悪堕ちにおけるS要素とは、対象者を悪に堕とす過程にほかなりません。正の感情によるアッパー系ではなく、負の感情によってダウナー系に堕とすことが悪堕ちにおいては主流ですので、悲壮や絶望を対象者に叩き込んで対象者の心を折っていく過程が作品に取り入れられます。対象者を悪に堕とすために、精神的にも、ときに肉体的にも対象者を攻めるわけですが、そこにSさ、つまり「相手を攻めることによる(性的)興奮」を覚えることも少なくありません。そしてそれが相手に性行為を仕掛け、快楽に堕とす状況であれば、更に性的要素が強くなります。

「破壊」は愛情表現の裏返しと言われます。愛しているから私以外が愛せないように壊してしまおう、私だけが壊せるのだ、という独占欲も絡んでくるでしょう。作者は対象者を愛す故に破壊し、読者はその堕ちる過程を辿って興奮する。対象者を自分が望むように破壊できる悪堕ちは、対象者への愛情表現の手段であると解釈できます。対象者を攻めることに興奮することをSさと表現しましたが、対象者の方に感情移入すればそれはMさに変わります。悪堕ちの過程に破壊が絡む故に、主人視点ではSさを、対象者視点ではMさを、それぞれ感じて興奮することができます。
また、過程ではなく結果として、対象者が堕ちてS的になったことにMさを感じることもあります。「ヒロインが敵になるとS的になる」というのは、アダルト市場の需要を満たすように悪堕ちジャンルが成長した結果ですが、男女問わず「悪人はS」というイメージが少なからずあることから、対象者にS気を持たせる手法として悪堕ちが効果的に用いられる場合があります。もちろん、論理的には「悪堕ちしてMになる対象者」もいるわけで、それに対してSさを感じる場合もあります。このように、主に悪堕ちの過程にSM要素は絡むものですが、悪堕ちの結果にも少なからず絡んできます。

④ 悪堕ちジャンルの間口の広さ

こういった悪堕ちの根底にある魅力に加え、前述の8つの悪堕ちの種類に代表されるように、他のジャンルを上手く組み合わせることで、様々な悪堕ちを楽しむことができることも、悪堕ちジャンルの大きな特徴です。このように「対象者さえいればどんな悪堕ちでも成り立つ」「どんな悪を設定しても良い」という観点では、間口が広いことも悪堕ちジャンルを支える原動力であり、また悪堕ちジャンルの魅力となっています。

(2) 悪堕ちに対する負の感情

悪堕ちを魅力的と思う一方で、悪堕ちに対してネガティブな感情を抱く人もいます。なぜなら、元来、悪堕ちとは自分たちの敵になってしまう状況であり、それは裏切りや離反という行為自体が許されないものであるのみならず、仲間が敵になってしまうかもしれないという疑心暗鬼、仲間だった人物を敵として処罰しないといけない苦渋、また味方が敵になってしまったことによる彼我の戦力差の拡大への懸念などがあります。例えば「魔神英雄伝ワタル」シリーズに登場する剣部シバラクは、「魔神英雄伝ワタル2」(1990-1991)にて「魔界シバラク」となって敵対しますが、先生のように慕っていた人物が敵対し、あまつさえ主人公の戦部ワタルを騙し、良心に訴えかけるように攻める様子に、トラウマや恐怖を抱いた人も多いです。また、プリキュアの劇場版である「映画 ふたりはプリキュア Max Heart 2 雪空のともだち」(2005)では、主人公の美墨なぎさと雪城ほのかの2人がそれぞれ洗脳され、互いに戦い合うという展開になりました。正義の味方であったプリキュア同士が戦うという凄惨な展開、そして洗脳されて恐ろしい目つきをしていた彼女たちの姿がトラウマとなった人は多く、否定的なクレームも多く来たとのことで、以降、プリキュアシリーズではそういった展開を自重するという流れになったと言われます。

悪堕ちを魅力的に感じ、そういったシチュエーションに興奮してしまう人がいる一方で、あまりにも救いようのない話で興奮できない、そもそも嫌悪を感じる人、トラウマとなってしまう人も確かに存在し、同じ悪堕ちであっても相反する感情が向けられることがあります。このため、多くの人と悪堕ちを語り合うためには、まず悪堕ちに対して好意的な感情を持っているか、否定的かを理解することが先決です。

第3章へ