タイトル
『エリュシオンはどこにある』
作者
冬栄
公開年月日
2012/11/24(コミックアカデミー05頒布『悪堕ちのヒミツ』掲載SS)

「……ベアトリクス整備士、本船の現状を報告してください」
 朝――という概念はここ、宇宙空間には存在しないが、母星の標準時が六時をむかえると、私は操縦席につき、この問いを発することにしている。
「探査船サザンクロス、かわりなく目的地に向かい航行中。船体ほか異状なし」
 ベアトリクス整備士は、よどみなくそう答えた。続けて、
「アビーあんた、前から言おうと思ってたんだけどさ……」
 ベアトリクス整備士――もとい、トリスは呆れ声で言った。
「ここに座ってる時はアビゲール船長って呼べって言ってるだろ」
 船長の命令だと言うのに、若干二名の船員はいっこうにそれに従おうとしない。私が船長になるというのは、三人で話し合った結果だったはずなのだが。
「毎日毎日それやって飽きない?」
 トリスは私の抗議を無視してそう言った。
 トリスと私、そして今は制御室にいないが、備品の管理を担当するシャーリーは物心ついたころからいっしょに育てられた、いわば幼馴染であるが、それにしてもこれは聞き捨てならない発言である。
「飽きるも何も……船長は私なんだし、いつだって船の現状を把握しとくべきだろ」
「異状がありゃ報告するっつの」
 私の崇高なる信念の表明は、その一言で切って捨てられた。
 トリスはさらさらした茶色の髪をかき上げながら、
「それに、手動じゃなくて自動で操縦してるんだ、異状がありゃここに表示されるだろ」
 ここに、と言ってトリスは目の前のディスプレイを人さし指で叩いた。
 私に分かるのは、操縦士課程で習った、そこに表示されているのが今現在のそれぞれの計器の値だということ。それから、エラーメッセージが表示されていない以上、現在は異状がないだろうということ。それだけだ。
「そりゃそうだけど……」
 そのエラーメッセージにしても、この三年というもの、一度も目にしたことがない。
 そして、私の最初の船であるこの探査船サザンクロスが母星を発ったのが三年前。ようするに、操縦士課程の教本で見たきりである。
「……エラーメッセージが出てないからって、異状がないとは限らないだろ」私は反論をこころみた。「計算機が故障したとか……いや、そしたらエラーメッセージ以前の問題か……プログラムのバグとか。トリスだって、自動で確認できるところを、わざわざ手動で確認したりしてるじゃないか」
 そこまで言って、私はかねてからトリスに確かめようと思っていたことを思い出した。
「……プログラムで思い出した。シャーリーから聞いたんだけど、夜中にトリスがひとりで制御室にいるの見て、何やってるのかって思ったら、この船の制御プログラムを見てたんだって?」
 トリスはそうだ、とも違う、とも言わなかったが、そのかわりあんにゃろ、と呟いた。どうやら本当のことらしい。
「この船に一番詳しいのは、私じゃなくてトリスだよ。だから、私も見習おうって思ったのに……」
「……やめとけ。あんたは船外活動の訓練でもしてろ」
 船外活動というのはこの場合、目的地である惑星エリュシオンについてからの、惑星を人類が居住できる環境に改造するためのもろもろの作業のことである。
 エリュシオンというのは、石器時代だったか、鉄器時代だったかの伝説の楽園の名前で、前に、読書ずきのシャーリーがトリスと――トリスは何でも知っている――と、『探査船サザンクロスにのって惑星エリュシオンに向かう、なんてロマンチックねえ』『ロマンはロマンでも、男のロマンだろ、それ』というやり取りをしているのを聞いたことがある。
 ……話がそれた。惑星の改造についてだが、現在のエリュシオンの大気は二酸化炭素が多く、温度にして五百度強なのだが、人類が居住するためには、それを十五度前後にしなくてはならない。
 そこで、手近な小惑星に爆弾を埋めこんで爆発させ、エリュシオンに衝突させることで、ぶ厚い二酸化炭素の大気を吹っ飛ばす、といったことが必要になるのだ。
 それこそが、操縦そのものはいくつかの、きわめて起こる確率が低い事態への対処をのぞいて自動化されているにもかかわらず、探査船サザンクロスに三人もの乗組員が必要な理由だった。
 作業そのものも複雑さもさることながら、何より未知の惑星なのだ、不測の事態が起こらないほうがおかしいというものだ。
 となると、機械には任せておけない。何しろ、それに対処するためには、たえずあらゆる物――それこそ自分じしんから、船外服、計測機器、通信機器、それから惑星の大気、地表面、地中にいたるまで――に注意を向け、そこから得た情報をもとに、迅速かつ的確な判断をしなくてはならないからだ。
 私は、操縦士課程の成績は落第ぎりぎりだったが、船外活動だけは成績が良く、そのお陰でこの、探査船サザンクロスの船長に選ばれたと言っても言い過ぎではない、が。
「それしか取り柄がないみたいに言うなよぉ」
 重要な任務ではあるが、船外活動が必要とされるのは二十年後、この船がエリュシオンに到着した後である。
「事実だろ」トリスの返答はにべもない。
「さいきんのトリスは私に冷たい」
 私は大げさに嘆いてみせた。かるい冗談のつもりだったのだが、こうして口に出してみると、本当にそんな気がしてくるのだから不思議だ。
「……もともとこんなもんだろ」
「昔は、そんな言い方しなかっただろ。……」

 私たちには親がいない。そのことは、孤児だった、ということと同義ではないのだが、それについては後で話すとして、私たちは孤児院で育てられた。
 十歳になる少し前だったと思う。皮肉っぽい面こそあれ、明るい性格だったトリスがふさぎこんでいることが増え、心配した私はシャーリーといっしょにトリスを問い詰めた。
 けれども、トリスは言を左右にするばかり。
『……トリスが悩んでるのってさ、私たち皆に関係することなんじゃないかな』
『……トリスが何か言ったの?』
『ううん』私は首をふった。
『私には、よく分からないけど……』その頃から博識だったシャーリーは、その日にかぎって、なぜかそう言ったのだ。『アビーがそう思うんなら、そうなんだと思う』
 それからというもの、私とシャーリーは孤児院の図書室――昔のなごりでそう呼ばれてはいたものの、実態は計算機室――にこもって、私たちに関する情報を探しつづけた。
 大人たちは私とシャーリー、とりわけ私が端末に向かっているのを見て、熱でも出したのかと心配したが、シャーリーが、
『アビーはね、成績があんまりにも悪いから、計算機学の先生に課題をもらったの。私はそのお手伝い』と言うと、皆いちように納得して去って行った。失礼な話である。
『……アビーは怖くないの?』
『何が?』
『だって、あのトリスが悩むようなことなんだよ。知っても何もできないかもしれないし、知らないほうがよかったって思うかもしれない』
『んー…』それは考えたことがなかった、のだが。
『……そしたら、トリスといっしょに悩めばいいよ』
『そっか』シャーリーはあっさり納得した。
 ほどなくして発覚したのは、私たちは、いくつかある惑星植民化計画のうちのひとつ、母星から片道二十三年のところにある惑星エリュシオンを人類が居住できる環境に改造する計画――計画書にはエリュシオン計画、とあった――を遂行するために人工的に造られた生命体である、という事実だった。
 とは言え、私たちの遺伝子をつぶさに解析したところで、何ら人類との違いはない、らしい。
 私たちをつくった理由は二つ。
 一つは、あらかじめ遺伝子を調整しておくことで、乗組員が遺伝性の病気に罹患するというリスクを取り除くこと。
 もう一つは、法律の穴を抜けること。
 母星は歴史上のいきさつから、労働に関する法律がきびしく、本人が了承したところで、エリュシオン計画に必要となる、『危険』で『孤独』な仕事をさせるわけにはいかないらしい、のだが、その時の私にはそんなことはどうでもよかった。
 私はそれが発覚するやいなや、私たちの部屋――私たち三人は同室だった――に急いだ。
 勢いよく扉を開け放つと、机に向かっているトリスの後ろ姿が見えた。机に向かっている、とは言っても、とりたてて何かをしているわけではない。頬杖をついて、何やら考えこんでいるだけだ。
 どうしてだろう、狭っ苦しい孤児院の一室にいるというのに、その背中がひどく遠いように――どこかに消えてしまいそうに思えて、戸惑ったことを鮮明に覚えている。
『トリス!』
『……なに』
『トリスがここずっと悩んでたのは……』
『悩んでなんか、』
 私はトリスの発言を無視した。
『私たちが、何とかって計画を遂行するために人工的に造られた生命体だから?』
『……っ』
 トリスは呆然と緑灰色の目を見開いた。まるで、恐れていた事態が遂に起こってしまった、とでもいうふうに。
『……何で、私たちに言ってくれなかったの』
『何でって……言えるかよ、私たちが人間じゃないなんて』
 顔を伏せているせいで、トリスの表情は分からなかった。
 けれども、肩が小刻みに震えているのを見て、私はその肩を掴んだ。
『正直、まだ実感は湧かないんだけど……私はさ、じぶんが造られた生命体だとかそんなことより、トリスがひとりで悩んでるのに力になれないってことのほうがつらいし……やだよ』
 親友が一人で悩んでいるのに、力になれない。
 そう言葉にしてみると、無力感でうちのめされそうになった。
 視界が滲む。ああ、駄目だ。こんなだから、肝心な時に頼りにしてもらえないのに。
『……判った、判ったから』
 トリスは頷いて、こう言ったのだ。
『あたしは絶対、あんたに嘘をついたりしない。……それでいいだろ?』
 その時になって、シャーリーが息を切らしながらトリスの部屋に入って来た。
『あ、シャーリー。遅かったね』
『あんたが全速力で走ったら、追いつけるはずないでしょうが……』

 私たちは悩んだ末に、製造目的どおり、エリュシオン計画を遂行することに決めた。
 いや、製造目的どおり、という言い方は適切ではない。私たちは人間として、人口増加と資源の枯渇に苦しむ母星を救うことで、私たちを育ててくれた人たちに報いようと決めたのだ。
 そしてそれ以来、トリスは私に嘘をつかないという約束を守って、おそろろしいほど正直に……って、昔からこうだったってことじゃないか、結局。

「……何か、考えてみたらそんな気もしてきたんだけど、私が言いたいのはそういうことじゃなくて……。さっきのトリスの言いようじゃあまるで、私に船のことを知られたくないみたいだ」
「――……」
 トリスはいっしゅん、言葉に詰まった。まるで、痛いところを衝かれた、とでもいうふうに。
「トリス? どうか……」
「……いんや」トリスは立ち上がった。
「どこ行くの」
「そろそろ朝食ができる頃だろ。シャーリーの手伝いに行って来る」
 制御室の入り口にさしかかったところで、トリスはこちらに背を向けたまま、こう言った。
「……私はべつに、あんたが船長にふさわしくないって言ってるわけじゃないんだ」
「――……」
 それは、言ったのがトリスであるということを考慮に入れると、最大級の讃辞であると言ってもよかった。
「ま、あれだ。あたしはあんたが操縦課程の課題ができないって半べそかいてた頃から知ってんだ。たしょう点が辛くなるのは仕方ないってことで」
 トリスに『船長』と呼んでもらえるようになるのは、まだ先のことらしい――と、その時の私は思っていた。

 探査船サザンクロスの制御室はいかにも宇宙船の制御室、という雰囲気であるのに対し、食堂は白木のフローリングに木のダイニングテーブルが置かれ、壁には油彩画が飾られ、大きな窓がしつらえられているという、じつに家庭的な雰囲気だった。
 ただし、その窓から見えているのは広大な宇宙空間だったが。
「この小麦粉を油で揚げたの、結構いけると思わない?」
 シャーリーは備品の管理を担当しているが、目下の仕事は実験農場での穀物や野菜の栽培と、その収穫物の調理である。
 その他には、惑星を改造するための微生物の管理、なんて仕事もあるらしいが、これまたほとんど自動化されてしまっているので、シャーリーの情熱はもっぱら料理に向けられていた。
「うん、おいしい」
「ちょっとお肉に似てるでしょ」
「あー、うん、言われてみれば。けど最近、肉ってどんなだったか思い出せなくなってきた」
「たしかに」シャーリーはすこし考えこんだ。
「何か連れて来れば良かったかしら。牛とか豚とか」
「牛はちょっと無理があるんじゃない。豚……は大きさ的にまだ何とかなりそうだけど、世話が大変なんじゃない」とトリス。
「やるなら、猫か犬ね」シャーリーは断言した。
「次の任務では、猫か犬を連れて行けるように頼んでみようかしら」
「……そういうことすると、動物愛護協会から苦情が来るわよ」
「遺伝子組み換えなら大丈夫じゃないかしら」
 と、そんな話をしていた時だった。
 突如として、食堂にブザーの音が鳴り響いた。
 いや、食堂だけではない。廊下でも、寝室でも、同じようにブザーが鳴っているのだろう。その証拠に、食堂のスピーカーからの音が途切れたしゅんかん、廊下からのそれが音の速さぶんだけ遅れてきこえる。
 操縦士課程のトラブルシューティングで聞いた。これは――警告音だ。
「……っ!」
 私たちは、制御室に向かって駆け出した。

 私たちは現在、とある小惑星帯にいるのだが、小惑星帯と言っても、大昔のSF映画のように操縦桿をさばいて、おびただしい数の岩石の塊の間を抜けていく、などということはそうそうない。
 だが、間近で衝突があれば話はべつである。
計算機の演算によれば、非常に近い場所で小惑星どうしの衝突が六時間後に起こる、というのである。
「どうする?」
「どうするって……」
 どうもこうも、探査船サザンクロスにはいちおうの装甲はあるものの、小惑星の破片がまともにぶつかれば、無事でいられるとは思えない。
「でも……」
 手動操縦の訓練は受けた。受けたからこそ、適性の有無も判っているわけだが。
「私たちがあんたを、船長に選んだんだ」
 緑灰色の瞳は、ひどく優しい色をしているように思われた。
「あんたに命を預ける覚悟はできてる、ってことだ。だから、あんたが決めていい。……アビゲール船長」
 トリスに『船長』と呼ばれたのは初めてだった。
 トリスの後ろに目をやると、シャーリーもそれでいい、というふうにこくりとうなずいた。
 そうだ、私が船長なんだ。私が、二人を守らないと。
「手動操縦により回避する!」
 私は、二人に向かって宣言した。それから、
「トリス……じゃない、ベアトリクス整備士」
「はい」
「手動操縦による小惑星片の回避に当たって、事前に取るべき措置はありますか」
 そう言うと、トリスは微かに目を瞠った。
「……急な加速、減速に備え、実験農場に震動対策をする必要があると思われます」
「シャーロット管理士、実験農場の震動対策に必要な時間はどのくらいですか」
「……二時間です」
「了解しました。……シャーロット管理士は実験農場で震動対策を、ベアトリクス整備士は制御室で私の補助をお願いします」

 探査船サザンクロスがその空域を抜けたのは、それから十二時間後のことだった。
 操縦を手動から自動に切り替え、操縦桿を離した瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。今すぐ熱いシャワーを浴びて、ベッドに倒れこめたらどんなにいいだろう。そんなことを考えながら、私は通信機器に手をのばし、シャーリーに通信を飛ばした。
「シャーロット管理士、実験農場の現状を報告してください」
「こっちは大丈夫よ、アビー。インゲン豆の支柱が一本倒れたくらいで」
 危機を乗り切ったせいだろう、シャーリーの声は疲れてはいるものの、明るかった。
 そのことに安堵して、いつものように、アビーじゃなくてアビゲール船長だろ、と指摘する気分にはなれなかった。
「ああ、インゲン豆ね。だったらいいや」
「偏食はよくないわよ」
 私は通信を切ると、トリスのほうに向きなおった。
「ベアトリクス整備士、本船の現状を報告してください」
「探査船サザンクロス、針路修正が完了し、目的地に向かい航行中。船体ほか異状なし」
 その時、私の脳裏をある疑問がよぎった。
 それが幸福だったのか不幸だったのか……いや、きっと幸福だったのだ。だって――
「そう言えば、燃料の残量ってどうなってるんだ? 小惑星の衝突はトラブルシューティングにもあったし、足りなくなるってことはないだろうけど……」
「……計器見ろ、計器」トリスはぶっきらぼうに言った。
「見てるけどさぁ、これって何年分なの?」
「……離着陸の分やら何やらもあるし、今回みたいなトラブルだってあるんだ、何年分って言えるようなもんじゃないだろ」
「強いて言えば、ってことだよ」
 私は、その時トリスが見せた表情を忘れることができない。絶望のような、諦念のような、あるいは安堵したような。
「……二十年分」
 ――どんなに恐ろしい事実だって、親友を一人悩ませることほどには、恐ろしくないのだから。
「え? 二十年って……え?」
 母星から惑星エリュシオンまでの道のり、それが片道二十三年ではなかったか。母星を発ってから三年、ということは、つまり。
「エリュシオンに到着したらそこで、燃料が切れる……? それって、全然足りないってことじゃないか。どうしてエラーメッセージが出ないんだよ……!?」
「エラーじゃないからだろ」
 トリスの声は恐ろしく淡々としていた。
「最初っからそういう計画だったんだろ。私たちが帰還しなけりゃ、その分の燃料でもう一個惑星を改造できるんだ。人間じゃないからな、どんな扱いしたっていいってことだろ」
「……トリスはそれ、いつから気付いてたの?」
「……疑い出したのは、一年くらい前。確信したのは、プログラム覗いた時。計器の値、誤魔化して表示するように設定してあった」
 これだったのか、と思った。トリスが『やめとけ』と言った理由。 私が船のことを知りたがるのをいやがった理由。
「……トリス、私はそんなに頼りないかな」
『あんたに命を預ける覚悟はできてる』トリスにそう言ってもらえて、それに応えられて、私はほんとうにうれしかったのに。
「……そうじゃない」
 その声は押し殺したようで、私はいっしゅん、トリスが泣くんじゃないかと思った。じっさいは、そんなことはなかったのだけど。
「勝手なのはわかってる。でも私は、あんたが絶望するところを見たくなかったんだ……」
 それはトリスにとってある種の賭けだったのかもしれない、と私は思った。私たち二人がこれが帰れない旅であることに気が付くか、気が付かないか。
 トリスに何が何でも隠し通すつもりだったなら、『嘘をつかない』などという約束を守り続けることはなかったのだから。
 そして、それに気が付いた私は――……。

「……計画を放棄しよう」
 予想はしていたのだろう、トリスとシャーリーはそれほど驚いた表情を見せなかった。
「計画を放棄して……それからどうする? 新天地をさがして宇宙を旅でもするか?」
 トリスは笑って言ったけれど、それはほとんど自殺行為だ。
 計画を放棄して遁走すれば、技術の粋をあつめた長距離船だ、それに見せしめの意もこめて、かくじつに追手がかかる。そして、長距離船では短距離船からは逃げられない。
 さらに、新天地をさがしたところで、それが見付かる可能性はきわめて低い。人口増加と資源の困窮にあえぐ母星が血眼になってさがし出した新天地こそが、惑星エリュシオンなのだから。
 しかし、その惑星エリュシオンに到着し、惑星を改造したところで、私たちを待っているのは死だけだ。いくら実験農場があるとは言っても、たかが宇宙船のそれでは餓死を先延ばしにすることはできても、防ぐことはできない。
「……いや」私は首をふった。「あるじゃないか。ここから残りの燃料で行ける範囲に、改造しなくても住める惑星が、確実に一つは」
 母星が、自分たちが生きていける場所になるようにと願ってこの船の目的地だった惑星をエリュシオンと呼んだように、私たちが生きていける場所があるなら、そこが私たちのエリュシオンだ。
「……だけどアビー、母星が計画を放棄した私たちを受け入れるとは思えないわ」とシャーリー。
「だったら、滅ぼせばいいじゃないか」
 二人ははっと息を呑んだ。
「……本気?」
「本気だよ」と私は答えた。
「母星は大事だけど、二人のほうがもっと大事だ。母星が私たちに死ねって言うなら、母星を滅ぼしてでも生き延びてやる」
 まじか、そう言ってトリスは笑った。
「いいよ、私はあんたについていく。私の命は、あんたに預けるってきめてあるんだ。それに、母星を滅ぼして生き延びようっていうのは……悪くない」
「ええ、私も」とシャーリー。
「じゃあ、早速母星に宣戦布告しよう」
 私は通信機器に手をのばした。
「やめとけ」トリスは間髪を入れずに言った。「こういう時はな、こういうのを送るんだ」
 そう言うと、トリスは端末に向かい、一連の文章を打ちこんだ。
『先日の小惑星帯での一件で船体の一部を欠損、修理のため母星に帰還する――』
 端末に向かうトリスの横顔は、いつになく生き生きしているように思えて、私はこれから稀代の反逆者になる身にもかかわらず、ふっと微笑んだのだった。