『暗窟の方舟』

タイトル
『暗窟の方舟』
作者
ADU
公開年月日
2012/11/24(コミックアカデミー05頒布『悪堕ちのヒミツ』掲載SS)




 無数の機械類にその容積の多くを占有されたそこは、その見た目がもたらす印象そのままに、研究のための部屋だった。
 部屋の中にいるのは白衣の女性が二人。
 一方は笑み、もう一方は真剣な眼差しを、それぞれ変えることなく保ち続けている。スタイルや髪形、化粧の有無などといった違いから、一見しての印象こそまるで異なるものの、二人の顔立ちはよく似ていた。
それもそのはず、彼女らは血を分けた実の姉妹だ。しっかり者の姉、シンディと気楽でお調子者の妹、ジュリア。三つ子の魂百まで、とでも言うべきか、幼い頃に定まったその性格を変えることなく、二人は今に至っていた。好物や趣味、異性の好みも、まるで違う二人だったが、その姉妹仲が悪いかというとそんなことはない。
 今、彼女たちが行なっているのはとある奇妙な生物についての調査である。大きさにして一センチほどの、形だけならばナメクジかヒルのようにも思える、しかし確かに異なる半透明の生き物だった。生物学に対する広い知識を持つ二人であっても、外見だけを見る限りでは何の仲間かさえもわからない。
 しっかり者のシンディだが、無茶をするのもまた彼女の方だった。今回についてもそれに違わず、彼女はなんと一人で、原始林深くの、未だ誰一人として踏み入ったことのない洞窟へと入り、その更に奥深くの湖でこの生物を見つけてきたのだ。
 半月ほど前、彼女は帰ってくるや否や、新発見であろうその生物に対して様々な手段を用いて解析を始めた。ジュリアは姉に言われるがままにその手伝いを続けている。
 姉が何故、この生物に対してそれほどのこだわりを見せるのかはジュリアにはわからなかった。
 新種や新属、あるいは目レベルで新しいものかもしれない、ということであれば、やることは別にある。生物の分子的な解析や生理生態面について研究を始めるにはいささか性急に過ぎた。
 続々と出力されていく解析の結果に目を通し、思案。それがこの半月ほどの間でシンディが行ってきたことのほぼ全てであった。
 現状の結果からだけではわかることは多くない。何を調べるにしても、必要な情報が足りなすぎる。だが、シンディはまるですべてわかっているかのように一人で頷き、そして笑みを浮かべるのだ。
 その笑みを見るたび、ジュリアは背筋にほの寒いものを感じていた。それまでの姉であれば浮かべることのなかった、どこかエロティックさを含んだその笑みに。
「よくわかった」
 ぼそりとそう告げると、シンディの表情が変わる。あるいは、その顔から感情が抜け落ちる。
 その変化にジュリアは今度こそ勘違いではなく、強い恐怖を覚えた。後のことなど何も考えるまでもなく、ただ姉から離れるべきだとそう思ったのだ。
 白衣の裾をなびかせたまま、研究室のドアノブに手を掛けた時、もう一方の手首に強い圧迫感。
「ひっ」
 腕を掴むシンディの瞳には、厳しくも真面目で、それでいて優しい姉の意思はなかった。
 恐怖と共に、ジュリアは一つの事実を思い出す。
 先日のことだ、シンディの書きかけのレポートを見た時に、不自然な記述があったのだ。それまでに行った検査だけではわかるはずのない事柄が、多数列挙されていたのだ。
 あの生物は微弱な電気信号によって個体間のコミュニケーションをとっていた。そしてその微弱電流はヒトの体内電気に酷似しているということまではわかっていた。だが、そのレポートには書いてあった。その生物は脳に寄生し、その思考を乗っ取り変質させる寄生生物であると。
 真面目な姉がそんな、妄想めいたことを書くこともあるのかとその時は思ったものだが、もしそれが、事実だったとすれば? その生物が己の生態を調べ、殖えようとしていたのであれば?
 現実味のない推測を、しかし現実の恐怖心が肯定する。
「大丈夫。何も恐いコトなんてないの。それどころか、いろんな悩みから全部解放されてとても良い気持ち」
 真面目ないつもの彼女からは考えられない、淫らな笑みを浮かべ、シンディは誘う。
「だから、ね?」
 近づいてくる。
 叫びを上げそうになった口が、姉の、その姿を持った怪物の唇によって塞がれる。流し込まれる唾液の感覚におぞましさを感じ、身体をよじるも、まるで振り払うことができない。それでも抵抗を続けていると、少しずつ体の自由が利かなくなっていく。
「あ、ぁ……」
 意識が、暗転するかのように、一瞬にして堕ちた。
 五十時間にも及ぶ長い眠りを経て、ジュリアはようやく目を覚ました。眠りにつく前までは絶えることのなかった笑みは失われ、人形を思わせる機械的な無表情のかたちをとっていた。
 その存在はジュリアという人格を上書きしていた。丸二日以上の長い睡眠は、その脳を最適化するために必要だった期間だった。
 唾液を通し、体液中を循環した卵は血中という高い栄養条件下によって急速に成長を遂げ、脳へと辿り着いた幸運な個体が根を張り、同化していった。無数の精子が己という存在を活かすために争うように、それは、 ただ一個体で無数の細胞に打ち勝ち、その主導権を手に入れたのだ。
 彼らには知性があった。ヒトの脳の持つ処理能力を借りることで得た高度な知性だ。彼らは自身を知っている。その強みも、そして弱みも。
 ヒトという借体は、その中に入れば環境が保たれ栄養的にも不足のない、非常に理想的な環境だった。だが、一個体の中に限ればその繁栄には天井が見えているのはわかる。故に、彼らはその生息域を広げていく。
知性を、意思と呼べるものを得ても、その生物の根底は変わらない。
 その存在は、得たばかりの声帯を震わせ、一つの願いを口にする。
「「殖えたい……」」
 求める者は同じ。姉妹だったモノの声が重なる。
 表情のない端正な顔立ちが、まるで表情筋を動かす練習かのように。口の端を上げ、涎が零れ落ちるのを気にすることもなく。己の得た、発声という機能を確かめるように、
「あはっ」
 それは、嗤った。